知らぬが仏・言わぬが花
「いや、私はそうとは思えないのよ。…何故か男を破滅させるような、……実は、タカちゃん(芳樹の友達)のことも私の方からフラれるように仕向けたのよ。試験勉強がうまくいかなくて、勉強から逃げるように私を求めてきたの。このままだと前の彼の二の舞になると思って冷たく突き放したのよ」
「へえー、知らなかった」
芳樹は眠気を感じながら、美和子の話に驚いていた。また経験豊富だなとも思った。次の瞬間、自分と美和子のことを考えた。自分たちは?愛の確認?はすでに済ませていると思っていたが、美和子は二人の関係を終わりにしたくて昔の話をしたのだろうか? ……このときの芳樹には判断がつかなかった。
芳樹が、朝起きると卓袱台には朝食が用意されていた。ハムエッグ、付け合わせはレタスとトマト、わかめの味噌汁、納豆、それから鈴木のおばあさんからもらった漬け物。美和子は仕事に出かける支度をしてせわしなかった。今の店では下っ端なので、早く出勤して店の掃除をしなければならないのだ。
「おはよう。おおっ、旨そうだ!」
「あら、起きたの。おはよう。気持ちよさそうに寝てたから起こさなかったわよ。大したものないけどそれ食べて行って。食べたら洗わなくていいから、うるかす(水につける)だけでいいよ。それと鍵はこれよ。出るとき鍵かけて、ポストに入れてって。気をつけて帰ってね。ところで帰り方わかるよね」
美和子は出かける支度に忙しくて、早口で話した。
「ああ、何とかわかるよ。来たときの逆でいいんだろう」
芳樹は起きたばかりでまだ頭がボーッとしていた。
「そりゃそうだけど。ホントに大丈夫?」
「大丈夫だよ。迷ったら電話するよ」
「そう。じゃあ、私出かけるから、あとお願いね」
「あっ、それじゃ、美和ちゃんも気をつけて。手紙書くよ」
「うん、待ってる」
美和子が出かけたあと、芳樹は一人寂しく朝ご飯を食べた。旨いけれど、味気ない。すぐ食べ終わった。食器は洗わなくていいと言っていたが、今日も遅く帰ってくるんだろうなと思い、洗うことにした。飛行機の時間までまだタップリある。
食器を洗い終えた。美和子のいない部屋はつまらないので、少し早いけれど空港に向かうことにした。
ちょっと不安だったけれど、何とか羽田に辿り着いた。まだ搭乗手続きまで時間があるので、美和子の声を訊くことにした。
「どうしたの。迷ったの?」
美和子は、言葉では心配しているが、迷惑そうな言い方であった。
「いや、美和子の声が訊きたかったんだ」
「あっ、それなら悪い。今手離せないから、話していられないわ」
「あ、悪い悪い。忙しいときにかけちゃって、ごめん。それじゃまた」
芳樹はそそくさと電話を切った。こんなことなら電話しなければよかったなと思った。いっそのこと迷ったと嘘をつけばよかったかなとも思った。いずれにせよ後味が悪かった。
電話のことが飛行機に乗ってからも尾を引いていた。更に、美和子が昨夜寝る前に話していたことと重なって、何とも暗い気持ちになった。この気持ちは北海道に戻ってからもボディブローのように効いてきた。
3
東京から戻って一週間経ったが、芳樹は、美和子に手紙を書くと言ったが、書く気にはなれなかった。このまま連絡しない方が、美和子にとっていいのではないかと考えるようになった。芳樹の勤める小学校も三学期になり、年度末に向け忙しくなってきた。
美和子は新年会の流れで、テレビを貸してくれた友達を自分の部屋に入れた。高(たか)原(はら)修(しゆう)二(じ)である。美和子より四つ年下だが、店では先輩である。
「チーフ、結構酔ってたね」
修二は気の毒そうに言った。
「ストレス相当たまってるって感じね」
「美和子はたまってない?」
「そりゃあ、たまるけど、修ちゃんがフォローしてくれるから大丈夫よ」
「ところでさ、いきなり訊いちゃうけど、北海道の彼氏どうするの?」
去年の暮れに美和子は、芳樹のことは本人に会って結論を出すと修二に言っていたのである。
「今でも好きだけど、私やっぱりそばに居てくれないとダメみたい。…だから言葉でははっきり言わなかったけど、わかってくれたんじゃないかな。あれから手紙や電話もないものね」
「美和子、ホントにそれでいいのかい? オレは今のままでもいいんだよ」
「そうはいかないわよ。…だから修ちゃんに決めたんだから。心配かけちゃったね」
アラサーの美和子は、ここで女のケジメをつけたかった。
「あっ、そう。まあ、いいけど」
修二は浮かぬ顔だった。
二月になった。芳樹は美和子のことを諦めようとしていたが、やはり恋しくなってきた。だからといって手紙を書くような気持ちにはまだなれなかったので、思い切って電話をしてみた。美和子の部屋には電話がなく、アパート共同の電話に呼び出してもらっていた。このとき電話口に出たのが、鈴木のおばあさんだった。
「あら、北海道の彼氏ね。あれから音沙汰なかったのね」
鈴木のおばあさんは修二のことは知っていたが、美和子から口止めされていた。だが、あくまで芳樹が本命だと思っていた。
「鈴木さんですか? この前はお世話になりました。ちょっと呼んでもらえますか」
「美和ちゃんなら、さっき出かけたよ。残念ね。戻ってきたら伝えとくよ」
「あっ、そうですか。よろしくお願いします」
声が訊きたかったのに空振りに終わってしまった。美和子は修二と大事な話をするため、自分のアパートではなく、敢えてカフェを選んだ。万が一感情のコントロールが効かなくなったときのためである。
「話って何? 店で言えなかったのか?」
修二は急に呼び出されたので、少しイラ立っていた。
「店で話せないから呼んだんでしょ!」
美和子は、修二の言動に触れ、不機嫌になった。
「わかったよ。ごめん」
「実は、…デキたみたいなの。…」
「えっ! デキたって、これ?」
修二は一瞬、大きな声になったが、すぐに小声に戻り、右手で自分の腹を膨らませるまねをした。美和子はコックリ頷いた。しばし沈黙が続いた。
修二が重い口を開いた。
「…オレの子? 北海道のカレのかも知れないじゃないか」
「間違いないわ。修ちゃんの子よ。だから安心して」
「ちょっと待ってよ。オレ確かに美和子のこと好きだよ。でも、すぐ結婚とか、まだ先だと思ってたしさ。それより子どもは納得できないよ! 検査してくれよ」
あくまで修二は逃げ腰であった。美和子は、まさかこんな展開になるとは思ってもみなかった。それどころか喜んでくれると思っていたのだ。いつか二人で店を持って、生まれてきた子どもが男でも女でも美容師にさせようと、寝物語で話していた。
「修ちゃんは、どうしても認めたくないのね。…」
美和子の言い方が急にキツクなった。
「認めたくない。悪いけど。…それにオレ、三月から店移るんだよ。言ってなかったっけ?」
「ワカッタワヨ。モウイイワ!」
美和子の腹の底から絞り出すようなトーンの低い声は、別人のようだった。
「……」
作品名:知らぬが仏・言わぬが花 作家名:mabo