私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげ
としかげ
昔のことである。式部省の次官で左弁官局の長官を兼ねた清原という帝の血筋を引く妻を持つ貴人がおられた。男の子が一人「みこばら」として生まれていた。この子はとても賢い子であった。父と母は、
「奇しく珍しい子だ。どんなに立派に成長するか様子を見よう」
と、二人相談をして漢文や漢詩を読ませず、口で教えることもしないで養い育てたところが、年齢に似合わず背丈が高く賢い子に育っていった。
この子が七歳になった年に、父親が高麗人と会談していると、この七歳の子供が父の様子を真似て高麗人と漢詩を作り応酬した。そのことを帝がお聞きになって、
「不思議な珍しいことである。何とかして本当にそうなのか試して見よう」
と、お考えになっているうちにその子は十二才になり、加冠、元服の式をあげた。
帝は
「有ることがない稀な、珍しい才(漢才、漢学の才)だ。年が若いのだから試してみよう
とお考えになって、唐の國へ三度渡航した
大学寮に属し漢詩や史書を司る文章(もんじょう)博士、中臣門人(なかとみのかどひと)と言うのをお呼びになって難しい難題の問題を考えさせて、子供を試して見られた。
何回も試験を受けに参内する大学寮の学生の男ども、才能が十分な男達、手がつかずまごついて一行の漢文をも帝に差し上げることが出来ないのに、まだ元服したばかりの、この世間で利発な子供と評判の俊蔭(としかげ)は、式部省試験官出題の問題の解答を二度と無い大変な漢文の名作文に書き上げて、式部官が帝に差し上げたときに、天下中の人がこの若者がこのような名文を書くと皆驚き感じ、このたびの試験では俊蔭一人だけが進士の称号を得た。
次の年、同じように、中臣の博士をお召しになって秀才となる題を与えられて問題の作成を命じられた。
清涼殿の南にある文殿(ふどの)校書殿で難しい題を出して厳しい試験が行われた。俊蔭は思い通りに回答をして、出来なかった問題はなかった。同じように難しく造られた対策の問題も思うように答えて、その文はとても興味があるものであった。帝は驚かれて、すぐに式部丞に登用された。
その頃の俊蔭は、姿が清らかで頭脳が明晰なこと他かに比べる人物が居ない。そんな俊蔭を両親は
「大事な眼さえ二つあるのに、宝と思う子は唯一人だ。子に比べれば服も軽いか」
と思って時を過ごしているうちに俊蔭は十六才になった。
その年、帝は唐土舟(もろこしぶね)を贈ることにされた。今回は頭のいい才長けた人を選んで遣唐使の長官と副官に召し出され、俊蔭も一員として召された。それを知って俊蔭の両親は例えようもなく悲しんだ。一生涯に一人しかない子俊蔭である。姿も頭も人より優れた掛け買いのない子供である。朝に見送って、夕方帰宅が少し遅れるようなときでも、心配のあまり血涙を流すほどであるのに、唐国と言えば再び遇う事の難しい遠路の旅で行き着くところ、お互い相見ることが出来ない土地へ出かける。父母、俊蔭の悲しみは思いやることが出来るだろう。三人は額を合わせ親子三人が額をつきあわせて別れを惜しみ。
紅涙を絞って俊蔭はついに舟に乗船した。
唐国に到着しようとする途中で仇や害をする烈しい風吹いて、三艘の舟で船団を組んで出発したのであるが、二艘はは破船してしまった。多くの人が海に投げだされて溺れる中に俊蔭の舟だけが唐国より南方の波斯国(はしこく)の海辺に追いやられ、その國の海岸に打ち上げられた。
連絡することも出来ない悲しさに俊蔭は、涙を流して、
「七歳よりこの俊蔭がお慕いする本尊観音菩薩現れ賜え」
観音菩薩との約束事を唱え念じていると、鳥も獣も見当たらない殺伐とした渚に鞍を置いた白馬が現れて跳ねながらいななく。
俊蔭は七度ひれ伏して拝むと、馬が走り寄って来ると俊蔭は自然に鞍にまたがらせて、飛び跳ねるようにしてすがすがしい栴檀(せんだん)の香りのする林の中に、虎の皮を敷いて三人の人が並んで座って琴を演奏しているところにきて白馬は止まって俊蔭をおろし馬は消え去ってしまった。俊蔭はぽつんと一人林の中に立っていた。
琴を弾いていた三人は俊蔭を見て、
「お前は何処の國の者か」
俊蔭は答える、
「日本国王の使い、清原の俊蔭である」
と言って、ここに流れ着いた顛末を述べると、三人は
「ああ、旅人の方ですか、しばらく此方にお泊まりなさい」
と言って木立の中に自分らの座っている虎の皮と同じものを敷いて座を造ってくれた。
コメント
「宇津保物語」は、源氏物語の解説の中で知った古典で、自分はこの歳になるまでこのような物語があるとは知らなかった。
うつほものがたり【宇津保物語】
平安中期(10世紀末)の作り物語。作者は古来の源順(みなもとのしたごう)説が有力。〈うつほ〉には〈洞〉〈空穂〉をあてることがある。初巻に見える樹の空洞に基づくもの。
[あらすじ]
清原俊蔭は王族出の秀才で若年にして遣唐使一行に加わり渡唐の途上,波斯(はし)国に漂着,阿修羅に出会い秘曲と霊琴を授けられて帰国し,それを娘に伝授する。俊蔭の死後,家は零落,娘は藤原兼雅との間に設けた仲忠を伴って山中に入り,大樹の洞で雨露をしのぎ仲忠の孝養とそれに感じた猿の援助によって命をつなぐ。
ネットのコトバンクに記載されている。早速古本を取り寄せて読むことにした。枕草子の次はこれと決めた。
長い物語で果たして完結できるか不安であるが、今日から投稿をすることにしました。
はし 【波斯】
中国におけるササン朝ペルシアの呼称。
ペルシア 【Persia】
イランの旧称。アケメネス朝を始め、セレウコス朝・パルティア帝国・ササン朝の時代を経て、7世紀にアラブの支配下に入り、イスラム化した。9世紀以降、サマン朝・セルジューク‐トルコ・イル‐ハン国・チムール帝国・サファビー朝・カジャール朝などが興亡し、1925年に成立したパフラビー朝が国号をイランと改称。ペルシャ。「波斯」とも書く。
(ネットコトバンク)
波斯国 これを南洋諸島の一とし、或は今のぺルシャと見る説もあるが、べルシャは印度の西方だから、そこまで船が漂着したとも考えられず、日本へ俊蔭が帰る時も波斯国へ渡るとあるので、日本との交易に便利な所と見なければならない。少くも印度より東であって、シナに近い国である。七人の人と琴を弾じた場所は、波斯国からはるかに西方の筈たが「仏の御国よりは東」と言っているので、波斯国が今のぺルシャでない事は確かである。
今回原書としている岩波書店日本古典文学大系の補注にはこのように記載されている。
おとぎ話のような不老不死の国、仏の国という当時の大衆の願いであった国の中で、俊蔭が長年苦労して、琴を得た。そこから物語が始まっている。
物語始めを少し読んでみたが面白そうなので、取り上げることにしました。
せん‐だん 【栴檀】
昔のことである。式部省の次官で左弁官局の長官を兼ねた清原という帝の血筋を引く妻を持つ貴人がおられた。男の子が一人「みこばら」として生まれていた。この子はとても賢い子であった。父と母は、
「奇しく珍しい子だ。どんなに立派に成長するか様子を見よう」
と、二人相談をして漢文や漢詩を読ませず、口で教えることもしないで養い育てたところが、年齢に似合わず背丈が高く賢い子に育っていった。
この子が七歳になった年に、父親が高麗人と会談していると、この七歳の子供が父の様子を真似て高麗人と漢詩を作り応酬した。そのことを帝がお聞きになって、
「不思議な珍しいことである。何とかして本当にそうなのか試して見よう」
と、お考えになっているうちにその子は十二才になり、加冠、元服の式をあげた。
帝は
「有ることがない稀な、珍しい才(漢才、漢学の才)だ。年が若いのだから試してみよう
とお考えになって、唐の國へ三度渡航した
大学寮に属し漢詩や史書を司る文章(もんじょう)博士、中臣門人(なかとみのかどひと)と言うのをお呼びになって難しい難題の問題を考えさせて、子供を試して見られた。
何回も試験を受けに参内する大学寮の学生の男ども、才能が十分な男達、手がつかずまごついて一行の漢文をも帝に差し上げることが出来ないのに、まだ元服したばかりの、この世間で利発な子供と評判の俊蔭(としかげ)は、式部省試験官出題の問題の解答を二度と無い大変な漢文の名作文に書き上げて、式部官が帝に差し上げたときに、天下中の人がこの若者がこのような名文を書くと皆驚き感じ、このたびの試験では俊蔭一人だけが進士の称号を得た。
次の年、同じように、中臣の博士をお召しになって秀才となる題を与えられて問題の作成を命じられた。
清涼殿の南にある文殿(ふどの)校書殿で難しい題を出して厳しい試験が行われた。俊蔭は思い通りに回答をして、出来なかった問題はなかった。同じように難しく造られた対策の問題も思うように答えて、その文はとても興味があるものであった。帝は驚かれて、すぐに式部丞に登用された。
その頃の俊蔭は、姿が清らかで頭脳が明晰なこと他かに比べる人物が居ない。そんな俊蔭を両親は
「大事な眼さえ二つあるのに、宝と思う子は唯一人だ。子に比べれば服も軽いか」
と思って時を過ごしているうちに俊蔭は十六才になった。
その年、帝は唐土舟(もろこしぶね)を贈ることにされた。今回は頭のいい才長けた人を選んで遣唐使の長官と副官に召し出され、俊蔭も一員として召された。それを知って俊蔭の両親は例えようもなく悲しんだ。一生涯に一人しかない子俊蔭である。姿も頭も人より優れた掛け買いのない子供である。朝に見送って、夕方帰宅が少し遅れるようなときでも、心配のあまり血涙を流すほどであるのに、唐国と言えば再び遇う事の難しい遠路の旅で行き着くところ、お互い相見ることが出来ない土地へ出かける。父母、俊蔭の悲しみは思いやることが出来るだろう。三人は額を合わせ親子三人が額をつきあわせて別れを惜しみ。
紅涙を絞って俊蔭はついに舟に乗船した。
唐国に到着しようとする途中で仇や害をする烈しい風吹いて、三艘の舟で船団を組んで出発したのであるが、二艘はは破船してしまった。多くの人が海に投げだされて溺れる中に俊蔭の舟だけが唐国より南方の波斯国(はしこく)の海辺に追いやられ、その國の海岸に打ち上げられた。
連絡することも出来ない悲しさに俊蔭は、涙を流して、
「七歳よりこの俊蔭がお慕いする本尊観音菩薩現れ賜え」
観音菩薩との約束事を唱え念じていると、鳥も獣も見当たらない殺伐とした渚に鞍を置いた白馬が現れて跳ねながらいななく。
俊蔭は七度ひれ伏して拝むと、馬が走り寄って来ると俊蔭は自然に鞍にまたがらせて、飛び跳ねるようにしてすがすがしい栴檀(せんだん)の香りのする林の中に、虎の皮を敷いて三人の人が並んで座って琴を演奏しているところにきて白馬は止まって俊蔭をおろし馬は消え去ってしまった。俊蔭はぽつんと一人林の中に立っていた。
琴を弾いていた三人は俊蔭を見て、
「お前は何処の國の者か」
俊蔭は答える、
「日本国王の使い、清原の俊蔭である」
と言って、ここに流れ着いた顛末を述べると、三人は
「ああ、旅人の方ですか、しばらく此方にお泊まりなさい」
と言って木立の中に自分らの座っている虎の皮と同じものを敷いて座を造ってくれた。
コメント
「宇津保物語」は、源氏物語の解説の中で知った古典で、自分はこの歳になるまでこのような物語があるとは知らなかった。
うつほものがたり【宇津保物語】
平安中期(10世紀末)の作り物語。作者は古来の源順(みなもとのしたごう)説が有力。〈うつほ〉には〈洞〉〈空穂〉をあてることがある。初巻に見える樹の空洞に基づくもの。
[あらすじ]
清原俊蔭は王族出の秀才で若年にして遣唐使一行に加わり渡唐の途上,波斯(はし)国に漂着,阿修羅に出会い秘曲と霊琴を授けられて帰国し,それを娘に伝授する。俊蔭の死後,家は零落,娘は藤原兼雅との間に設けた仲忠を伴って山中に入り,大樹の洞で雨露をしのぎ仲忠の孝養とそれに感じた猿の援助によって命をつなぐ。
ネットのコトバンクに記載されている。早速古本を取り寄せて読むことにした。枕草子の次はこれと決めた。
長い物語で果たして完結できるか不安であるが、今日から投稿をすることにしました。
はし 【波斯】
中国におけるササン朝ペルシアの呼称。
ペルシア 【Persia】
イランの旧称。アケメネス朝を始め、セレウコス朝・パルティア帝国・ササン朝の時代を経て、7世紀にアラブの支配下に入り、イスラム化した。9世紀以降、サマン朝・セルジューク‐トルコ・イル‐ハン国・チムール帝国・サファビー朝・カジャール朝などが興亡し、1925年に成立したパフラビー朝が国号をイランと改称。ペルシャ。「波斯」とも書く。
(ネットコトバンク)
波斯国 これを南洋諸島の一とし、或は今のぺルシャと見る説もあるが、べルシャは印度の西方だから、そこまで船が漂着したとも考えられず、日本へ俊蔭が帰る時も波斯国へ渡るとあるので、日本との交易に便利な所と見なければならない。少くも印度より東であって、シナに近い国である。七人の人と琴を弾じた場所は、波斯国からはるかに西方の筈たが「仏の御国よりは東」と言っているので、波斯国が今のぺルシャでない事は確かである。
今回原書としている岩波書店日本古典文学大系の補注にはこのように記載されている。
おとぎ話のような不老不死の国、仏の国という当時の大衆の願いであった国の中で、俊蔭が長年苦労して、琴を得た。そこから物語が始まっている。
物語始めを少し読んでみたが面白そうなので、取り上げることにしました。
せん‐だん 【栴檀】
作品名:私の読む「宇津保物語」第一巻 としかげ 作家名:陽高慈雨