見えない僕と私の色
不思議な人がいた。
デパートで服を見た後、友人と別れた私はひとりバス停までの道を歩いていた。その途中で、街中によくある休憩所のような大きめの公園を通った時のことだ。その公園にある噴水を何気なく見ているとき、私は彼に気付いた。
彼が座っているベンチの周りには鳩が数羽歩いていて、餌をくれないことに不満を漏らしている。
それだけなら、なんてこともないただの一般人だ。
けれど、私は彼の視線の高さが気になった。ベンチに座り、人を見るでもなく、空を見ているでもない一人の男性。ただぼぅっとしているだけ、と言えばそうなのだけれど、私にはそう思えなかった。
彼が見ている先に、私が見えるもの。
「色」だ。
私にはそこに「色」が見えた。ちょうど今、そこを黒が通り抜けて行ったところだ。そして、彼はその黒を目で追ったように見えた。
いやいや、と私はかぶりを振る。
見えただけだ。きっと、近くに蚊でもいたのだろう。そういう時、思わず何の気なしに目で追うことはよくあることだ。そう言い聞かせつつも、私の目は彼を見続けている。
すると、また彼の前を「色」が通り抜ける。今度は緑だ。そして彼はまた、その「色」を目で追ったように見えた。
どきり、と胸が打つのを感じた。まさか、私以外にも「色」が見える人がいるのだろうか。
今まで考えたこともなかったけれど、もし私と同じように「色」が見えるのだとしたら、私の「見えない色」について何かわかることがあるかもしれない。
――けれど。
不安になる。彼も色を見ることができる、というのが私の勘違いだったらどうしよう。本当に、ただ近くの虫を目で追っていただけだとしたら?
そうだとしたら、変なやつだと思われるだろう。そんなの、当たり前だ。私だって同じ立場ならそう思うはずだ。それに、この公園は人通りが多い。たまたま、私の言ったことが誰かに聞かれて、そこから噂が流れたら? それが誰か知り合いの耳に入ったら?
また私はかぶりを振る。
ありえない。世の中の人たちはそこまで暇じゃないし、知り合いだってそう簡単に会うはずがない。
そう思っても、一度湧いた不安はいつまでも私の心に居座り続けた。
変な人がいた。
街中によくあるような、大きめの公園のことだ。その公園には円形の噴水があって、決まった時間になると水が噴き出すようになっている。その噴水の横に、彼女はいた。
彼女が、なんだかずっとこっちを見ている気がしてならない。
確かに、休日で家族連れが多い中、一人でベンチを占領して「色」について考え込んでいる僕は目立つかもしれないけど、そこまでおかしいだろうか。
思わず、自分の服を見る。何かでかい浸みがあるわけでも、悪目立ちするような服装でもない。
ふと、顔をあげてみると、僕の目の前を緑色が通り過ぎて行った。それを半ば反射的に目で追う。すると、視界の隅で彼女が息を飲む様子が見えた。
なんなんだろう。思い切って、声をかけてみようか。そうしばらく考える。その間、彼女も少し考え込んでいる様子で、でも僕のことはずっと見ているようだった。
あたりを見回す。彼女は誰かと一緒に来ているというわけではなさそうだった。
よし、と意を決してベンチから立ち上がる。僕の周りで餌の催促をするように鳴いていた鳩たちが慌てたように走り出した。それを少し目で追いながら、僕は彼女に向かって歩き出す。
少しずつ彼女に近づいていく。それに比例するように、僕の鼓動も早くなっているのがわかる。知らない誰かに声をかけるというのは、僕にとって慣れることのないことだ。
最後に誰かとまともな会話をしたのはいつのことだったろう。そう思っていると、彼女がいつのまにか目の前にいた。彼女は逃げるでもなく、不審がるわけでもなく僕を見ていた。
口を開き、息を吸う。そして、声をかける。できるだけ自然に、なんでもない感じで。
それだけのことが、とても難しく感じられた。
彼女は、声を掛けられて驚きの声を上げた。
僕が近づくのをずっと見ていて、声を掛けられたことに驚くのも変だろう。そう思う間もなく、僕はすべてを理解した。そして、クラス替えで友人と同じクラスになれた時のような、そんな安心感が湧き上がってきた。
彼女が発した驚きの声。
その声には「色」がなかった。
彼の言葉には「色」が無かった。
この事実は私をひどく驚かせると同時に、何とも言えない嬉しさを湧き起こさせた。そして、私以外にも「色」の無い人を見つけたという安心感が私の体を駆け巡る。
その安心感が、私のある気持ちに気付かせてくれた。
――私はさみしかったのだ。
だって、想像してみてほしい。普通、人と人が接する時、相手の気持ちなんてわからない。大体こういうことをすると怒るだとか、こういうことをすると喜ぶ、という当たり前の部分はあっても、細かい怒りのポイントは違うし、喜ぶポイントも、悲しむポイントも全部違う。そういう細かいところを、お互いに傷つき、傷つけあいながら知り合っていき、人は少しずつ親睦を深めていくのだ。
なかには、傷つけあうだけで終わってしまう、哀しい関係もあるだろう。けれどそれ以上に、そうしてできた所謂「親友」という関係は、私にとって何を捨てても手に入れたいものだった。
でも、それが私にはできなかったのだ。相手の感情が見えるから。見えるが故に、心から相手にぶつかることができないから。
弱虫だということはわかっている。でも、そんな自分をなんとかできるほど、私は強くなかった。
目の前の彼が、不意に笑った。
思わず、僕は笑いをこぼしてしまった。
でも、笑いたくなるのも仕方ないだろう。だって、目の前に自分と同じような人がいたんだから。
彼女のあの不自然な驚き。そして、彼女の見えない「色」。これだけの判断材料があれば、彼女も僕と同じように「色」が見えるんだとはっきりわかる。
もしかしたら、とふと思った。
もし、彼女と友達になったとする。こんなにも素晴らしいことはないだろう。
だって、考えてほしい。こんなにもフェアな関係は、今までの僕にはあり得ないことだった。
僕にはいつだって相手の感情が見えた。けれど、向うには僕の感情が見えない。こんな状態で友人を作るのは至難の業だ。
友人だけではない。何気なく、人と接する時だって僕には苦痛だった。
いつからか、僕は人ではなく、「色」と会話するようになっていたのだ。
そんな僕が今、唯一対等に話すことができるのは「色」のない彼女だけだ。
この人と話したい。
その気持ちが僕の中で膨らみ、ついには破裂しそうになる。
お互いの気持ちを共有したい。「色」ではなく、言葉で。
きっと、一日だけでは足りないだろう。「色」が見えていた人生で何を思い、何を感じ、何をして生きてきたのか。一言で表すのは不可能だ。
だから、僕は彼女にある提案をすることにした。
彼女が今何を思っているのかわからない。けれどこれはお互いにとってきっと、とても素敵な提案になるだろうと思う。
口の中がからからに乾いているのを感じながら、僕は口を開いた。