overdose
カロリーナはデニスの看病を受けるうちに彼の優しさに心を開き、すっかり元気になったのと同時に人間として彼と暮らすことにしました。
しかし肉屋のヨルゴスの残虐な行為は相変わらずで、仲間の無残な姿を目の当たりにして心を痛めるカロリーナの肩を抱き、いつか互いの種族が解り合える日がくると夢見て日々を共にしました。
雪の降る寒い季節は過ぎ、眠っていた緑が芽吹く頃。
カロリーナのお腹にも新しい命が息づこうとしていました。
今まで二人は辛い現状にひたすら耐える日々を過ごしてきましたが、生まれてくる子供のためにそれぞれに行動を起こそうと二人は決意しました。
しばらくは離ればなれになってしまうけれど、子供には明るい未来を歩んで欲しい…そう願った上での決断でした。
デニスは町の大通りでセイレーンは敵ではないと大きな声で演説することに、またカロリーナは仲間達に人間と和解して欲しいとセイレーンの長に掛け合うために海へ帰りました。
デニスは小さな命のおかげで、今までない程の勇気が背中を押していることを感じました。
怖いものが何もなくなった彼は今まで胸の内に留めていたことを、ここぞとばかりに吐き出します。
セイレーンは自分達と何ら変わりはないこと。元々は平和を望む種族だったこと。
自分の妻はセイレーンだということ。彼女のお腹には新しい命が宿っていること。
罵声はもちろん、いろいろなものが彼に飛んできました。野菜に卵やゴミ。さらに石まで飛んできました。
しかし彼は全く気になりませんでした。
意思を主張することがここまで気分の良いものだったなんて!
誰かが投げた缶が額に当たり、皮膚が裂けて流れる生温かい血や痛みすらも彼を饒舌にさせる材料に変わります。
海に帰ったカロリーナも頑張っていると思うと、こんなことではくじけていられないという思いもありました。
無垢な子供達に、どうか明るい未来を…。
最初は批難の嵐だったのですが、何日も続けるうちに聴衆も増え、町の反応は戦争を終結させようという意見の者が半数以上にまで昇りました。
しかし、最後まで意見を曲げなかったのが、あの乱暴者のヨルゴスです。
彼を称賛していた声が一気に批難の声に変わってしまったことにヘソを曲げ、終いには肉屋に閉じこもるようになってしまいました。
やがてそれぞれの種族の長同士の話し合いが開かれることが決定した時、デニスとカロリーナはようやく再会することができました。
その頃にはもうカロリーナのお腹ははちきれんばかりに膨らんでおり、手を乗せるとまだ顔も見ぬわが子のノックを感じることができ、デニスは思わず涙ぐみます。
長かった戦争が今終結しようとし、お腹の子の存在も世に認められようとしていることで胸がいっぱいになり、二人は喜びの涙を流しました。
しかし、幸せはそう長くは続きませんでした。
長い話し合いの末、人間が海を汚さないことと、セイレーンは二度と人間の前に姿を現さないことを条件に戦争を終結させることとなったのです。
そしてカロリーナのお腹の子はデニスに預けるという約束事まで結ばされ、無論二人は再び悲しみのどん底に落とされるという悲しい結果になってしまいました。
結局のところ、種族の壁を超えることはできないと判断されてしまったのです。
ここで二人が約束を守らなければ、また戦争は始まってしまう。涙を飲んで二人は袂を分かつことにしました。
その夜、デニスとカロリーナはお互いが出会った海辺沿いを歩きながらいろいろな思い出話をしました。
あの時と変わらない星空と月の光の下、最後の抱擁を交わし、二人は涙を流しました。
“君と一緒にいたい。離れたくないんだ。僕も一緒に連れて行って欲しい。”
弱気な彼の言葉にカロリーナは優しい笑顔を浮かべます。
“それは困ります。貴方がいなくなればこの子はどうするのですか?この子は、貴方がいなければ生きては行けません。それに私が…セイレーンが確かに存在した証でもあるのですよ。”
”そんなことは解っているよ。それでも僕は君がいなければ…。”
デニスはあることに気付き、言葉の途中で息を飲みました。
カロリーナの足が消えかけているのです。
セイレーンの長の魔法は12の文字盤に2つの針が重なると同時に完成され、愛しい妻の姿は両種族の間で交わされた契約通り見えなくなってしまう。
この事実は、タイムリミットが近いことを現していました。
彼女の大きな瞳から頬にかけて雫が伝い、それは月明かりを受け柔らかに輝きました。
“もうそれ以上は何も言わないで、愛しい人。…私には時間がありません。今から私の言うことをよく聞いてください。”
彼女が告げたのは、お腹の子が生まれたら合図を送るので、合図を受け取ったのなら彼女が倒れていた岩場に来て欲しいというものでした。
次第に消えていく妻を目の前にするしかない悔しさと、計り知れない悲しさで拳をきつく握りしめるデニス。
“…解ったよ、カロリーナ。最後にこれだけ言わせておくれ。僕は生涯君だけ愛するよ。ずっと、君だけを…。”
“ありがとう。でも無理はなさらないでね。私は、貴方とこの子を遠くで見ているだけで幸せなのですから…。”
涙を流しながら彼に口付けると、彼女の姿は煙のように消えてしまいました。
一人残された砂浜で、デニスは大きな声をあげて子供のように泣き喚きました。
子供を腕に抱きながらエメラルドの海をバックに微笑む彼女が見たかった。
あの美しい声で、子供に子守唄を唄ってあげて欲しかった。
子供の体温と、彼女の体温を感じながら眠りに就きたかった。
人は絶望の淵に立たされたとしても希望の光が一筋見えれば、それは生きる糧となる。
子供の未来を代償に妻を失ったデニス。
彼が生きる理由…それは妻のお腹に確かに息づいていた子供の存在だけでした。
妻が消えた日から数週間後のこと。
デニスは深夜にふとカロリーナの香りを感じました。
花のような香りは、あの日と同じように岩場に行く程に強まっていきます。
あの日とは違ったのは、自身の手にナイフがないことと、大きな岩場の影を覗き込むのに躊躇いがなかったことでした。
岩場の影には、すやすやと安らかに眠る可愛らしい赤ん坊。
腕に抱いた娘の顔は片時も忘れたことのない妻に生き写しで、この上ない喜びに心が満たされました。
ふと足元に視線を落とすと、誰かが作ったのでしょうか。
貝殻で何か文字のようなものが出来ていることに気が付きました。
― C h l o r i s (クロリス)
ふと海の方から視線を感じてそちらに視線を移すと、水面に真っ白な花が浮いて波間を漂っています。
名前も知らない花の傍に小さな泡があったことを見逃さなかったデニスは小さく笑いました。
あぁ、カロリーナ。君はそこにいるんだね。
僕へのメッセージも確かに受け取ったよ。
彼は小さな温もりを抱えながら、赤ん坊にこう語りかけました。
“さあ、家に帰ろうか…クロリス。”
あれから26年が経ち、デニスはカロリーナに告げたとおり、後妻を娶ることなく男手ひとつで、クロリスを育てました。
今や彼女は立派な娘に成長して人間の男性と結婚し、子供にも恵まれました。