悠里17歳
7 おかえり、悠里
今日も稽古でヘロヘロになって、校門を出た時には辺りが暗くなりかけている。目に入ってくる神戸の町や港に灯りがともり始める時間だ。私は重い足取りで坂を下り、いつもの公園を横切る。その先にある小さな文化住宅「桜花荘」つまり自宅に目を遣った。
「あ……、しまったぁ」
今日慌てて家を出たので灯りを消すのを忘れたようで、部屋から光が漏れている。お母さんは私より先に出たので私が消灯を忘れたことは間違いないようだ。私は忘れっぽい自分にウンザリしながら玄関の扉に鍵を差した。
「ただいまー」
「おかえり、悠里!」
「お姉ちゃん?」
誰もいないと思って扉を開けたのに、カリフォルニアに住む姉の聞きなれた声がした。そろそろ臨月のお姉ちゃんが神戸にいるはずがない。幻聴かと思い下を見れば確かに靴が増えている、おまけに小さなかわいい靴もある。電灯が点いていることにも納得がいく、消し忘れたんじゃないんだ。私は慌てて靴を脱ぎ捨てて部屋に駆け込むと幻なんかじゃない、アメリカにいるはずのお姉ちゃんが居間の食卓に座っているではないか、しかもさらにお腹が大きくなっている!
「なんで?なんでここにいるの」
ビックリしたのやら嬉しいのやらで思わずお姉ちゃんの手を取ったりお腹を擦ったりした。
「悠里は相変わらず帰ったら『ただいま』を言うんやねえ」
「えへへ、お姉ちゃんが教えてくれたんでしょ」
家に誰もいなくても「ただいま」を言うのは姉に教えられたからだ。英語ではそれだけを表現する言い回しは無く、こういった細やかな言葉が日本語の美しさであると翻訳の仕事をする姉は言うが、私もそう思っている。
「ほんできーちゃんは?」
「あんたのベッドで寝とうよ」
そう言われて私はまだ制服のままだったことに気付き自分の部屋の襖を開けると、聖郷はすやすやと気持ち良さそうな寝息を立てて私のベッドで寝ている。私はその横で家着に着替え、コンタクトを眼鏡に変えて部屋に戻ると、お姉ちゃんはお茶を用意して待ってくれていた。自分の家なのに迎えてくれるのはちょっと嬉しい。
「よく飛行機に乗れたんやね?」
「そう。もうチャンスがないから神戸に帰ってきたんよ」
航空会社にもよるが、妊婦は出産予定日の30日前までは飛行機に乗れるそうで、それを割り込むと医師の許可や同伴することが必要だったりする。お姉ちゃんの出産予定日は確かひと月ちょっと先、今辺りが出産までに帰国出来る最後のチャンスと判断したのは医師でもある篤信兄ちゃんだろう。
「何か日本に用事があるの?」
「ええ、それも大切な用事が――」
お姉ちゃんはお茶をすする。本題に入る前の調子を自分で付けるときの仕草だ。
「聞いてね、悠里。これからひと月、聖郷を神戸に残すの」
「えーっ、ホンマに?」
お姉ちゃんは首を縦に振った。冗談ではないようだ。
「きーちゃん可哀想やん、何で何で?」
三歳くらいの子どもにとって母の存在は絶対的安心を与える存在だ。この頃の親との接し方が子どもの将来を左右すると聞いたことだってある。お姉ちゃんの言葉だけを捉えて反応した私は思わず私のベッドで寝ている聖郷が起きるような声で言ってしまった。
「うーん、それにはちゃんと理由があるんよ」お姉ちゃんは私を鎮めながらもう一度お茶をすすった。
「赤ちゃん産む時に誰も聖郷の面倒を見られなくなるのよ。里帰り出産も考えたけど、そうしたら半年はアメリカに戻れないし篤信君も学校あるしさ……。辛いけどそれが一番いいと思ったのね」
確かにそうだ。生まれたばかりの子供がいるとお母さんは離れられない。出産するまさにその時は上の子である聖郷の面倒まで見切らない。聖郷の時もそうだったけど、いつ産気付くのかわからないから予め預けておくという判断を篤信兄ちゃんと相談した上で決めたようだ。
「納得はできるけど、きーちゃん……」
反論はない、お姉ちゃんだって苦汁の選択だったのは顔を見て分かる。
「上の子の宿命なんよ、これは。お母さんだって悠里を生む時私たちを置いて日本に来たのよ。その時は陽人がだいぶゴネたわねえ……」
下の子の出産のため母としばし別れなければならないのは上の子の宿命。だけどそれを経験してお姉ちゃん、お兄ちゃんになるものだ。長姉はそれを二度経験している。一回目は弟が生まれる六歳になる直前の時、二回目はそれから五年後、私が生まれる時だ。
私が知らないのは当然だけど、私を身籠っていたお母さんは17年前の三月に日本に移り住む予定だったのだが妊娠の経過がよろしくなく、アメリカに家族を残し身重の身体で一人先に神戸に来た。その時お姉ちゃんは弟が母親と離れなければならない試練を経験するのを目の前で見てきた。
「けっこう当たり前のことよ、それって」
お姉ちゃんは笑って言うけれど、上の子は下の子には分からない試練を受けているんだと思うとなかなか感慨深い。末っ子の私には経験することがないものだから。
今は隣の部屋で安心して寝ている聖郷であるが、これからお兄ちゃんになるための試練が待っているのは本人は知らないだろう。
「じゃあきーちゃんはこの家に?」
「まさか、お母さん仕事だし悠里は学校でしょ。西守先生に預けるのよ、あたしも一週間ほど滞在するけど」
お姉ちゃんは西守先生と話ができていて、帰りは先生が同伴するようだ。これで医師同伴という問題もクリアできる。
「そっか――、それで二人ともテンション高やったんや」
ママ先生の言葉が頭に浮かんだ。そういえばつい最近西守医院に行った時ママ先生は
「篤信たちがいつ戻って来てもいいようにしとかなくちゃね」
と言っていた。この時すでにお姉ちゃんが帰ってくる話をしていたのだろう。聖郷を抱っこしてデレデレになっている西守先生やママ先生の顔が脳裏に浮かんだ。
「ママ先生には言うとうけど、だいたい一ヶ月後に篤信君が迎えに来るから、それまで先生たちが忙しい時はヘルプしてあげてね、悠里お母さん」
「わかった」
私は両こぶしを握り意気込みを見せた。
嬉しさ半分、プレッシャーが半分。周囲では進められていた計画なんだろうけど、突然に甥っ子の母がわりの大役を指名された。
「きーちゃんよろしくね。悠里母さん頑張るからね……」
叔母の布団ですやすや寝ている甥のかわいいほっぺをつついた。その寝顔はいつものように笑っていた。