悠里17歳
「はーい、ただいまー」
ちょうど食事の用意ができたところで西守先生が一階から上がってきた。同じ建物の中の移動なのに戻ったらただいまを言う。職場とプライベートはけじめを付けて分けて考えているのは先生のポリシーだ。それから先生はリビングにある聖郷の写真にもただいまを言ってはデレデレしている。
聖郷のもう一人のおじいちゃんも孫には甘い。聖郷が生まれるまで先生はお姉ちゃんが一番好きだといい続けて周囲をドン引きさせていたが、最近は聖郷がその一番の座にいる。壁に貼っている聖郷の写真の数と割合がすごい。先月アメリカで撮った私と聖郷のツーショット写真が早速貼られていて、この壁のアップデートはすこぶる早い。孫に甘いのは日本もアメリカも同じなのか。
「寧子さん、『あれ』どこに置いてたっけ」
「ああ、それなら篤信の部屋にあったんじゃないですか?」
「ママ先生、『あれ』って何?」
「お茶の事ですよ。こないだ三宮で静岡県の催し物があって良さそうなものを買ってきたの」
「悠里ちゃんお茶好きやから買うてきたんよ」
先生たちは結婚生活ゆうに30年を超えている。それぞれがちゃんとした職と技能を持っていていつまでも円満だ。20余年、実質20年もたずに途切れた我が家のそれとは大違いで今さっきも『あれ』だけで会話が成り立っているのだから素晴らしい。
「私取って来ましょうか?」
私はコンロの火を弱めた。
「御願いできるかしら」
ママ先生は席を立ち私と台所を交代した。
かつての篤信兄ちゃんの部屋は家の一番奥にある。篤信兄ちゃんが高校を出て以来主はおらず今は食材などを置く納戸のようになっているが、いつでも使えるようにきれいに掃除ができていて、ベッドや机がそのまま置いてある。
「ああ、これだ」
いくつもの写真がスクラップされているクリップボードの下に真新しい茶筒があるのを見付け、それを手に取った。
我が家が荒れていた小学生の頃、誰も相手にしてくれず、この部屋で寝泊まりしたこともあった。辛い記憶が胸の内に甦るけど不思議と両親やきょうだいに対しても恨むという感情はなかった。思えばこの部屋で一人、泣きながら眠れない夜を過ごしていた時、ママ先生に
「人を悪く言ったって何も良いことはないわ。一生懸命考えれば答えは必ずある」
と教えて貰ったことが頭に残っていて、魔法のように気持ちが落ち着いたことを思い出す。
ふと気が抜けた私は茶筒を手にしたまま部屋の中を一様に見回していると、物思いにふけってしまい、気持ちがトリップした。
「悠里ちゃん、あったかしら」
「あ、いけない」ママ先生の声がして我に戻った。
「はーい、今戻りまーす」
* * *
「ママ先生、篤信兄ちゃんの部屋、いつも綺麗ですね」
私は持って帰ってきた茶筒を渡すと、ママ先生私がいない間に沸かしていたケトルの火を止めた。
「そうかしら?」ママ先生は優しい笑顔を浮かべる。
「ほら、いつ帰ってきても大丈夫なようにしてあげないとね。私ができるのはその程度ですから」
ママ先生は手早く茶漉しにお茶を入れ、急須にお湯を入れた。
「そういえば悠里ちゃんはきーちゃんの面倒見れた?」
今度は西守先生が聖郷の写真立てを持ちながら質問してきた。春休みにアメリカに行ってた時の話を持ち掛けた。
「はい。すごくなついてくれた、『ゆーりねーね、ゆーりねーね』って」
私が答えると二人はお互いの顔を見あう。
「ほらぁ、私の予想通りじゃないですか」
「本当だ。さすがだね、寧子さんは」
「何が予想通りなんですか?」
質問の意味がわからず聞き直すと二人はお互いに微笑み出した。
「悠里ちゃんがお母さんになっても大丈夫ってことですよ」
「末っ子って甘えたが多いから、子育て苦手な人が多いんだよ」西守先生は入れたてのお茶を美味しそうにすすった。
「それなら大丈夫だ。……たぶん」
二人は再び優しい笑顔を浮かべた。私もつられて笑ったけれど、この時の先生たちの笑っている本当の意味なんてわかるはずがなかった――。