悠里17歳
竹刀の弦(つる)を結び立ち上がった。少し素振りをしようと思い出来上がった竹刀に鍔を付けた。今日の練習の不甲斐なさを補うつもりだ。
「そういや倉泉、春休みは稽古だけでなく補習来てなかったよな?」
「うん……」あげた竹刀を下ろした「家庭の事情で、ちょっとね。神戸におらんかってん」
「ふーん、で、どこ行ってたん?」
「……アメリカ」
「えーっ、スゲーやん」
「だからあんまり言いたくなかってん……」
「何で、何で?カッコいいやん」
「苦手やねん、そのリアクション――」
私にとっては自慢でも何でもない。たまたま親戚筋が外国にいるというだけでチヤホヤされる。それに遊びに行った訳でもないのに。
私が目を逸らして向きを変えると、はぐれて飛んできた桜の花びらが私の眼鏡に着地し、視界の一部がピンクに変わった。
「久方の光のどけし春の日にしづ心なく花の散るらむ……、って感じだ」
自分の心境を表現するのにちょうどいい歌が頭に浮かび上がった。天気はいいのに気分は良いと言えない。
「風流な事言うねぇ」
「そりゃ私は日本人やもん、……ほとんど」
眼鏡についた花びらを取ろうとするも近すぎてなかなかうまくいかない、そんな滑稽な動きをしていると篠原君が手を伸ばし、その花びらを取ってくれた。
「あ……、ありがと」
私は赤面して、これ以上言葉が出ない。
「お……、おう」
照れているのは自分だけではないようだ。
合宿の時にされた告白、あれから半年以上も経つが私は答えを出していない。篠原君はそれでも構わない様子だ。私の性格を知っているからだろうか。それとも、自分と同じような考えなのか。あることないこと想像して時間が過ぎるのがちょっと気まずい。
「倉泉は普段はずっと眼鏡なんや」
沈黙を破ったのは篠原君の方だ。
「コンタクトは目が痛くなるから」
「視力なんぼなん?」
「0.1ないと思う」
近視は遺伝するというから、物心ついた時から眼鏡を掛けていた両親と姉と兄を見て自分も例外ないと思った。
「あのさ、倉泉」
「何?」
篠原君は真剣な眼差しで私を見ている。何か言いたそうなのがわかる。彼が口を開けようとしたそのとき――、
ガラガラ
後ろにある道場の出入り口の戸が開く音がした。私たちはほぼ同時に振り返ると見慣れた人物が仁王立ちでこちらを見ていた。
「あーっ、やっぱりココだ」
「ルノ……、あっ、いっけねぇ」
篠原君はまるで悪だくみを先生に見つかったかのように血相を変えて立ち上がった。
「呼び出しといて待たせるってどういうこと?」
スタスタと足音を立てて晴乃は道場を横切って私たちのもとへ来た。普段やんわりしている晴乃だけに怒っているとそのギャップがこわい。
そう感じるのは私だけではないようだ――。
「い……、いやぁ、そのぉ……」
木刀を脇に挟んで両掌を晴乃に向ける篠原君、ある意味彼も私みたいに「変身」している。
「あたし、何かマズイことした?」
「ううん」晴乃は首を横に振った「聞いて、悠里。今日模試の申し込みに行こうって誘われてんけどずーっと待たせてるんよ」
「そりゃアカンよねぇ……」素早く晴乃の側に身を翻し、中立にいる私の意見を態度で示した。
「ごめんってぇ……」
いつもの夫婦漫才が始まった。いつものことだけど篠原君はタジタジだ。
「あたしだって待つ暇あったら何かできたやんかぁ」
晴乃は大きく肩で一回、息を吐くと冷ややかな笑顔を見せて篠原君を見つめた。
「……行くよ」
「へーい――、その前に着替えて来るわ」
観念する様子で部室に入って行った。その様子を半ば呆れた顔で並んで見ていた。
「あいつ、違うことするといつも忘れるんよ」
「よく知ってんだ、篠原君のこと」
「ま、まあね」晴乃は微笑んだ。「小学校からの腐れ縁ってやつ?家も近くやし何でか遠くないところにおるのよ」
ちょっと様子が違う晴乃、私も晴乃の顔を見てその原因が分からずにちょっと戸惑った。それが分からないままそうこうしているうちに篠原君が制服姿で戻ってきた。
「お待たせしました――」
「もぉ、ほんまに……。じゃね、悠里」
呆れ顔の晴乃は少し笑っていた。
「……うん。また明日ね」
晴乃は腐れ縁って言うけど、私の目にはある意味ではこの二人は似合いのカップルに見えなくもない。私はそんな二人の影が道場を出て行く後ろ姿を独りで見送った時には、彼が私に何を言おうとしていたのかスッカリ忘れていた。
* * *
私は一人になった道場にたたずみ、戸に手を掛けた。外に見えるのは散り行く桜の花吹雪だ。
桜の蕾が開き始める頃に帰国して、それらが静かな存在感を示して去って行くまでをこの道場で見届けることができた。こうして見られるのも今年で最後だけど、なぜだか私は嬉しかった。
そして、私は誰もいなくなった道場で素振りを始めた――。