悠里17歳
9 桜散る道場
先日咲きかかったと思った桜はもう散り始め、緑の葉っぱが芽吹きだし、木も六甲山系の緑に吸い込まれて同化しはじめる季節になった。道場の気温は徐々に上昇し、スタミナの消耗も激しくなる。私はいつものように授業が終わると道場に上がり稽古をしていた。
地稽古になると、それぞれが相手を探して稽古をする。女子部員は少ないので男子を相手に稽古をすることも少なくなく、私は道場の脇で練習相手を探していた。
アーーッ!
ヤァーーーッ!
道場の真ん中、一際大きな声が場の空気を作っている。背は高くないけれど、左足を前に、竹刀を斜め上方に構えを取った剣士がいる。篠原健太君、剣道部の主将だ。
篠原君が上段を始めたのは最近のことだが、先生曰くスジがなかなか良いようで、今日も一撃で相手を何度も仕留めている。
いない訳ではないが、高校の女子はもちろん、男子でも上段の構えをする人は珍しい、よって私の練度では試合で相手する機会は無いに等しい。それでも私は彼の上段を見て無性に対戦してみたくなり、拍子木が鳴り礼をして線から出るのとほぼ同時に私は篠原君の背中を叩いた。
「篠原君……」
不意を突かれて少しビックリした様子で振り返った。
「相手してもらって、いい?上段で」
私の目を見て遊びでないのは判ってもらえた感じだ。
「ああ、いいとも」
面金の向こうから白い歯がこぼれて見えた。
「じゃ、よろしく」
拍子木が鳴ると同時に私は向こうに回り篠原君の前に立ち、礼をして竹刀を構えた。もう一度拍子木が鳴るとお互いに腹の底から声を張り上げた。
篠原君はサッと構えを上げた。落ち着いた姿で私の目を睨みつけて機を窺っている。
「これだ、この感覚だ」
実は、上段を相手するのは今回が初めてではない。過去に一度だけあったのだが、一度も一本が取れていない。相手は違えど自分の中で越えるべきハードルが構えた竹刀の先にあった。
不用意に近付けばひと振りの餌食になる。私も相手の重い一撃を竹刀で受けつつ一瞬の間を観察しながら入り込めるチャンスを探した。
その時だ。打ちに入る一瞬、篠原君の構えが僅かに動いた。
ヤアァァァーーーッ!
「怯むな、悠里!」私は心の声を聞いて思い切って飛び込み、面を狙った。打たれる前に先に届け、と念じて深い間合いから目一杯右足を前に出したと同時に、私の頭に衝撃を感じた。
「やられた!」
反射的に振り返って構えを取る。異変は突然に起こった。視界がぼやけて垂れに書かれた「篠原」の字すら読めなくなった。
「待って!」
私は思わず左掌を出して待ったを掛け大きく後ずさりした。
「どうした?」
篠原君は即座に中段になって鍔迫り合いの姿勢を作って来た。
「ごめん、コンタクト取れた」
「そっか……、一旦切ろうか」
「――うん、ごめんね」
私たちは自然に竹刀を解いて蹲踞した。片目だけがおかしいため、変な足取りで礼をして線外に出た。
結局今日はコンタクトを入れ直しても痛いだけで眼鏡に変えたけど、以後は満足のいく練習が出来なかった。悔しいけど私の挑戦はどう見ても完敗だった。
「姿勢を正して、もっくそーっ!」
黙想をしながら今日の稽古を反省する。上段に勇んで挑んだのに結局竹刀で止めるのがやっとで、誰が見ても負けを認めざるを得ない一本を取られた。それもコンタクトがずれるくらいの強烈な一本を――。
おまけに竹刀は傷むし今日はいいとこなしだ。受けるばかりで踏み込めなかった自分が悔しい、甘かった、もっと精進しなさいということだろう。そう総括して神前に礼をした。