悠里17歳
お姉ちゃんの姿が見えなくなると、聖郷はとうとう我慢ができなくなった。母を呼ぶ大きな声がロビーに響く。私は聖郷に目線を合わせて、彼の目をじっと見つめ、それから小さな体を抱き上げてしっかりと抱き締めた。
「きーちゃん大丈夫、大丈夫よ。お姉ちゃんいるからね――」
泣きじゃくる聖郷。声を出して両腕を駄々っ子になって振り回そうが、私はしっかりと抱き留めた。お腹が大きくなって息子を抱っこできないお姉ちゃんに代わり、私はその場を動かず彼の気が収まるまで抱き続けると決めた。私の思いは通じたのか、聖郷の暴れる両手はいつの間にか私の首に回していた。
「ほーら、きーちゃん。がんばった、偉かったよ……」
背中をトントンと叩きながら徐々にさすり続けると、聖郷の泣き声と動きはだんだん大人しくなり、ついには口から寝息が聞こえてきた。
「えらかったよ、それでこそお兄ちゃんだ」
お兄ちゃんになるための第一の試練。聖郷は母と別れることをちゃんと克服した。末っ子の私や一人っ子の篤信兄ちゃん、つまり彼の父にはできないことを彼はできた、それも堂々と。私は嬉しくなって彼の寝顔が見たくなり、うまいタイミングでママ先生が用意してくれたベビーカーに聖郷を乗せると、あまりのかわいさに私はそのほっぺに唇を当てた。
「まあ、悠里ちゃん。ちゃんとお母さんできているわね」
目を丸くして私の顔を見るママ先生。そんなに誉められるとは思わなかった。
「えへへ、お姉ちゃんに『きーちゃん駄々こねたらこうしなさい』って教わったんです」
眼鏡の縁を掻きながら答えた。
「聞くは簡単、それでも出来るのはすごいわよ」ママ先生もベビーカーの前にしゃがみ、孫の頬を軽くつついた「よかったわね、あなたには良いお姉ちゃんがいて、じゃなかった。もう一人お母さんがいて、だったわね――」
安心した聖郷の寝顔を見て、私は反対側の頬にもう一度唇を当てた。
whether you do anything or not,
time just flows
「モタモタしてたら老いぼれる」
私はお兄ちゃんが私の年齢の頃に書いた歌詞を思い出した。新しいステージはもう始まっているのだ。文字通りモタモタしてられない。それが私を育ててくれた人たちへの、私なりの感謝の表現だ。
「行こう、ママ先生!」
「そうね、悠里ちゃん」
私とママ先生はゲートに背を向けて、聖郷の乗ったベビーカーを前に進めた――。
* * *
長いこと止められたままになっていた我が家の時計は再び動き出そうとしている。寂しくなんかない。家族の誰もが前を向いて進んでいる。私だけが感傷に浸って前に進むことを諦めてはいけない。だから思う。あの頃の悪夢を許せるような未来がある。きっとある、すぐにではなくても必ず来る。そして誰もがそれを望んでいる。それまでは弱音をはかずに何にでも当たっていこう。私は胸にぶら下げた革鍔を握り、母代わりとなった私は姉の子をだき抱えて神戸に帰るバスに乗り込んだ――。