悠里17歳
「あのね、お母さんは……」一同の目線が母に集中した「お父さんともう一回やり直そうと思ってるねん」
「えーっ!」
きょうだい一同揃って声をあげた。そして思わず私が立ち上がるとテーブルの湯飲みが倒れてテーブルにお茶がこぼれてしまい、呆れ顔でお兄ちゃんが布巾で拭く。
「今すぐにって話とちゃうよ。悠里だってまだ高校生やしね」
お母さんは照れ臭そうな顔をしてみんなから視線を逸らした。母が恥ずかしがってこのまま話さなくなったら困るので私たちきょうだいはアイコンタクトで喋りやすい空気を作ろうと必死だ。
「よりを戻すのに何かきっかけでもあったん?」
お兄ちゃんが代表して口を開いた。
「そうね、昔のことから話さなくちゃアカンわね――」
お母さんは下を向いたままポツリポツリとこれまでの10年間を語り始めた。
すれ違いの発端はお母さんが始めた旅行会社が案外軌道に乗って来た反面、お父さんの仕事が上手くいかなくなって、アメリカに滞在する方の時間が長くなり夫婦関係のバランスが崩れ始めたことだ。アメリカでは共働きなんてよく見かけるが、お父さんの中に日本人的なところがけっこう多くあって、お父さんは自信と威厳をなくしてしまい負の連鎖を始めた結果四年後の離婚になった。
「離婚してからも、養育費やその他のことで連絡は取り合っていたのよ」
確かに、あの時よりも離婚してから今までの方が別れてスッキリしたのか、子供たちはあの時以上にお父さんと距離が近くなった感じはする。でないと甥の聖郷はお父さんになつかないし、私自身もアメリカで会うようなことはしなかっただろう。お母さんも気持ち的には似たような感じということか。
「そんでね、お父さんもアメリカに戻ってから仕事が上手くいくようになってきたのよ」
そういやお父さんは私と会った時、大きな家で
「あれから仕事がうまくいってるんだ」
と言ってたことを思い出した。
「とにかく、お互いに至らなかったのよ、あの時は。こどもたちに迷惑をかけたのもよう分かってます。ごめんね、本当に」
私たちきょうだいはあまり驚かなかった。子供たちに子供みたいなことをいうお母さん、逆転する構図が面白かったからか。とにかく、あの時は親は勝手だと思ったけど、離れて時が経ち、互いに張り合う意地も尽きてきたような感じは、する。長い時間を掛けて二人が出した答えなんだからきょうだいの誰もが反対しなかった。
「あたしと陽人は独立しとうし別にええねんけど」
「詰まるところ、何でヨリ戻すん?」
そこを教えて欲しい。私も姉兄の言葉に頷いてお母さんに次の言葉を求めた。
「悠里がアメリカから帰ってきた時言ってたわよね。お父さんは私について言うことは『特にない』って」
「うん、言ったよ」
「あたしもそれは聞いた」
私のあとにお姉ちゃんもフォローが付く。
「『特にない』に何があるの?」
「ないから、いいのよ」お母さんは口に手を当てて笑いだした「子供たちの前でこんなハナシするのも恥ずかしいんやけど――、お父さんの口ぐせなのよ、『特にない』って言うのは……」
『特にない』というのは特に『問題になることが』ないってことだ。二人の間で交わされるやり取りの中で、このセリフが出ると言うことはそういう意味なのだ。
「お兄ちゃん、何が『問題ない』の?」
「この文脈でわからんか?」呆れるお兄ちゃん。
「ヨリ戻すことがよ」続いてお姉ちゃんが優しく答えを教えてくれる。
「じゃあ、あたしをアメリカに行かせたのはお父さんからそれを聞くためってこと?」
思えばお母さんはしきりに私のアメリカ行きを勧めた。そこにはこんな裏があったのか。
「本当は悠里のためやったんやけど、見方によったら、まぁ、そういうことにも、なるわね――」
お母さんの言葉は尻すぼみに小さくなり、最後はきょうだいから視線を逸らして眼鏡の縁をポリポリ掻いている。
「ほなら悠里は母さんにどう言われてアメリカに行くのを決めたん?」
お姉ちゃんは私の目を見て言った。
「グランマの調子が良くなくて、この機会を逃せば――、って」
そう言うと目の前にいるお母さんは私から完全に目を逸らした。何も言わなくてもバレバレだよぉ。その横にいるお姉ちゃんも冷たい笑みを浮かべながら口を開いた。
「篤信君から聞いたけど、グランマは確かにトシやけど足腰弱いだけよ」
「お母さん!じゃあ悠里に嘘ついたってコト?」
「ごめんね、悠里。だますつもりはなかったんよ……」
私が立ち上がるとお母さんは肩をすぼめて縮こまった。怒ってるわけじゃないけど私がお母さんを叱りつけてるみたいになった。
「まあまあ、母さんも悪気なかったんやし――」
お兄ちゃんが私の肩を叩いて諫める。
「俺は、母さんが悠里をアメリカに行かせたのは、悠里のためやったと思うよ」
「お兄ちゃん……」そう言われてお兄ちゃんの表情を見ると力がするすると抜け、再び椅子に吸い寄せられるように戻った。
「でなきゃ、お前もここまで成長してないよ。変なコダワリ持ったままでよ、頭堅かったし」
お兄ちゃんは椅子ごと私の方を向いて私の目を見る。
「10年振りに行ってみてどうやった、もうひとつの祖国は?」
「うん――」誰が、誰のために自分をあの国に遣ったのかもう一度考えた。難しい問題じゃない。親戚みんなが倉泉悠里をアメリカに遣って、そして向こうで迎えてくれたのではないか!
「いろんな人に会って、自分っていうものが少し、わかった」私はテーブルを見つめて湯飲みを抱いた「ゴメン、お兄ちゃん……」
「お前が成長したから、母さんもそういう考えになったってことやろ?ちゃうか?」
私がうつむくと、お兄ちゃんは私の肩を叩いた。口に出さなくても、
「しょげるな、怒っとうんとちゃう」
と顔に書いてある。
「あんた、たまにはエエこと言うやん」
お姉ちゃんがお兄ちゃんを指差す。お兄ちゃんはいつものすかした顔で無言で返事をした。
「悠里」お姉ちゃんの声が私の頭を上げる「とにもかくにもみんなが上手く行くのは悠里のお陰なのよ、ねえお母さん」
「そ、そういうこと」チャンスをもらったお母さんはしどろもどろに答えた。
「悠里がいなかったらお父さんもお母さんもやり直そうと考えなかったよ、ありがとうね」
「お母さん……」
「それと、辛い思いさせて、ごめんね」
私はそれ以上何も言えなかった。悲しい訳じゃないのに、何故だか胸が熱くなって部屋にいられずに、自分の部屋に入ってしまった。それが筋のあることでないのはわかっていた。襖の向こうで微笑む声が漏れて耳に入ると、私はこの家族で良かったと本当に思った――。