相府蓮
いずれにしても縁談の話は、予想出来ないことではなかった。
「いい話じゃなぁんか?」
「そうじゃのぉ。写真をみるかぎりじゃあ、なかなかの美人だ。でも俺は会わんとぉに断るつもりじゃ」
進一郎は簡単に答えたが、断れる話ではないだろうに。
「俺には好いとるんがおるけん」
「え?」
その言葉は縁談の話を聞いたことよりも、英治を驚かせた。
これまで進一郎の口から艶めいたことを聞いたことがない。進一郎は想いを寄せる女性の存在など、英治に微塵も感じさせなかった。
英治の胸の鼓動は早くなる。言葉がすぐには出なかった。
「なんじゃ?」
「いや、意外じゃったけぇ。そがぁな相手がいること、聞いたことがなかったし」
「俺自身、自覚したなぁ乗艦してからじゃけぇな」
「乗艦してから?」
「遠く離れて初めて、そいつのことが好きなんに気がついたんじゃ。ちこぉにおる時にゃわからんかった。でも死にそうな目に遭うたんびに浮かぶなぁ、そいつの顔ばかり。『ああ、俺は、あいつのことが好きなんだ』ってな」
英治の鼓動はますます早くなった。「近くにいる時」と言うことは同じ町内か、少なくとも同じ地区の人間だろう。英治の脳裏には、数人の顔が過ぎって行った。幼馴染や通学路で時々すれ違った女学生達。あの中に、進一郎の想い人がいるのだろうか。
義理堅い進一郎が、世話になった人間の勧める縁談を会いもせずに断るくらいだ。今回の帰郷で想いを伝えるつもりなのかも知れない。
英治は動揺していたが、それを悟られないように、なるべく自然な口調で尋ねた。
「ほいじゃぁ縁談断って、相手に伝えるつもりなんか?」
「言うつもりゃぁなぁで。今のままでええと思うとるし」
それもまた意外な答えだった。進一郎は好きな相手が出来たなら、すぐさま堂々と想いを告げる性質(たち)だと英治は思っていたからだ。どちらかと言えば直情型で、白黒はっきりしないではいられないところがある。そんな彼が断られることを恐れるとは思いがたい。
英治は進一郎の横顔を見た。薄暮の中での英治の視力では、ぼやけて表情が読めない。
「いや、『今は』、かの。この戦争が終わって、無事に帰って来られたら、その時にゃぁゆぅつもりじゃ」
「なんで、今じゃないん?」
「振られたら、戦地で生き抜く気力がなくなるかも知れんからな」
進一郎は笑って言った。
「振られるなんて、そがぁなまさか。シンを拒む子なんぞいとらんよ」
「そんがな、みやすい(簡単な)相手やないんじゃ」
進一郎の答えは呟きに似て、辛うじて聞き取れるくらいの声音だった。
今日は英治の知らない進一郎の一面ばかりを見せられる。新しい彼を知る嬉しさもある反面、彼のことなら何でもわかっていると思っていた英治は複雑だった。進一郎の表情は見えない。しかし切ない声音に、その想いの丈を計ることが出来たので、
「きっと相手に通じる」
気休めだと思いつつ、英治は言葉を返した。
「じゃとしても、俺は生きていねる保障のない人間じゃ。万が一、戻ってこられん時ゃぁ、聞いた後じゃ相手が辛かろう?」
進一郎は英治を見る。
「そがぁな思いをさせとぉないんじゃ。知らんにゃぁ、見知った人間が戦死したで済む」
「シン」
「でももし生きていねたら、玉砕覚悟でゆうよ。『おまえを好きじゃゆう気持ちが、俺を生き残らせてくれた』ってな」
進一郎の声はいつもの清清しい調子に戻り、聞いている方が気恥ずかしくなる言葉を、臆面もなく口にした――気持ちをぶつけるよりも思いやることを優先する。これほどまでに想われる相手はどんな女性なのか。
風が二人の髪を揺らして吹き過ぎる。日が暮れて、気温は更に下がった。指先に息を吹きかけるために開けた口から、冷たい空気が滑り込み、英治の弱い気管支を刺激する。軽く咳き込むと、首に羅紗の襟巻きがかけられた。
襟巻きには進一郎の体温と匂いが移っていた。途端に英治の首の周りは熱を持った。
「すっかり暗ろうなったの。いぬるか」
進一郎は先に立ち上がり手を差し伸べ、英治はそれを借りて立ち上がった。礼を言って離そうとする手を、進一郎が握り込んだ。
「何?」
「これだけ暗けりゃぁ、足元、あぶなかろ?」
川に平行する土手には当然街灯などなく、あったとしても灯火管制で消されていた。月の出にはまだ早い。この辺りは慣れていないと健常な目でも歩きづらかった。英治の目となると尚更で、彼の手はありがたいが、大人の男二人が手を繋いで歩くなど恥ずかしいことこの上なかった。
「慣れとる道じゃけぇ大丈夫じゃ。それに恥ずかしいよ」
「いい年して転ぶよりマシじゃろ。通りに出るまでじゃ。誰も見とらん」
そう言うと進一郎は英治の手を握ったまま、ゆっくりと歩き始める。
英治は日が暮れていて良かったと思った。ひどく赤面しているに違いなかった。ただ手を繋いでいるだけで、進一郎は視力の悪い英治に、親切心から手を貸しているに過ぎない。
早鐘のような鼓動が、手の平から進一郎に伝わりませんように――英治は祈りながら歩みを進めた。
どうにも眠れなくて、英治は身を起こした。目を開けているのかどうかわからないほどの暗闇。灯り漏れを防ぐために窓に張られた黒い幕が作った闇だ。英治は枕元に置いたはずの眼鏡を探った。これほどの暗さと英治の視力では、かけてもかけなくても大差ない。それでも慣れてくると、幕の合わせが少しずれて仄白くなっているのがわかった。朝はまだまだ先だから、月明かりだろう。
火の気のない部屋はすっかり冷えていた。掛け布団を肩からかけ、窓の方ににじり寄る。ずれた幕の合わせから身体を入れ、外を見た。
地上と空の境が曖昧になる沈黙の夜に、ぽっかりと浮かぶ月。英治の不明瞭な視野の中でも、その姿がはっきりとわかるほど、冴えた光で輝いている。確か満月は前日だったから、今夜は十六夜だ。満月と遜色ない月の姿を見上げながら、英治は自分の意識を占める眠れない理由を考えていた。
「こがぁに堪えるたぁ思わんかった」
英治は独りごちた。
進一郎に想い人がいる――そのことがこんなにも自分を動揺させるとは。英治は親友として当然聞くに違いない相手の素性も、名前すらも、尋ねることが出来なかった。
いつか来るとは覚悟していた。いつまでも独り身ではいられない。自分はともかく、進一郎はちゃんと嫁をもらうだろう。英治はそのことを常に心の片隅に置いていたつもりだった。その日が来たなら、笑って祝福出来る自信もあった。
なのに、進一郎に好きな相手がいると知っただけで、これほどに心が揺れる。眠れない夜に戸惑う。
知らずについた溜め息で硝子が曇った。それを撫で拭う指先を英治は見つめた。進一郎が握った手。頬の辺りが熱くなる。
「好きじゃ、シン」
一生、口にするつもりはなかった言葉を、見つめた手に向って呟いた。
遊びも一緒、勉強も一緒。最初は、一番の友と言う位置を誰にも渡したくないと言う子供ながらの独占欲だった。それがいつしか、進一郎のことを考えると、友情とは違う甘やかなものが英治を満たすようになった。進一郎だけが呼ぶ「ハル」と言う呼び名を聞くと、自分は彼にとって特別な存在に思えてならなかった。