逢魔が刻の駅
ぷしゅう、と空気の抜ける音。続いて扉ががこんと音を立てて開く。流石にぞろそろと人が出てくるとは思っていないが、なかなか人が降りてくる様子はない。一瞬の沈黙の後、ようやくゆらりと揺らいだ人影が扉から一歩を踏み出した。
出てきたのはサラリーマンが数人と母子一組。その誰もが俯き加減で暗い顔をしている。あまりの不気味さに声を上げることも出来ず、青年は唖然と彼らを見遣った。
親子の子供は恐らく小学生中学年ぐらいであろう年頃の男の子。自分があれぐらいだった時はお出かけにはしゃぎ、電車にはしゃいで母親から静かにしなさいと窘められたものだと想い出す。だが、その子供すらも母親や廻りのサラリーマン同様に黙々と暗い顔で歩いているのだ。流石に違和感を拭えず、背中に何か寒いものが走った。
彼らは一様にたった一つの階段を登り、線路を跨いで駅舎へ降りる。改札はどうするのだろうと目を凝らして見ていると、サラリーマンは切符の通し口に切符を通すような仕草をした。しかしその手には何も持っていない。切符どころかカードも何も無い。だが、驚くべきことに改札はかしゃりと音を立ててゲートを開いた。
続いた他のサラリーマンも、あの親子もそうして同じように通って行く。
そうして何事もなかったかのように青年以外の全員が改札を出て、道の向こうへ姿を消す。彼はただその光景を口を開けたまま唖然と眺めていた。
質の悪いドッキリじゃないのか。そう思ってみるが自分は有名人でないし、自分をドッキリに嵌めたところで誰にも何のメリットもない。じゃあ今のは何なのか。考えてみても答えは出ない。
(ああ、きっと夢だ。俺は今電車の中で夢を見ているに違いない)
そもそもあんな遠くの山に光り輝く狐を見た事自体が可笑しいのだ。あそこから夢を見ているのだろう。彼は混乱する頭をそう納得させようとヘッドホンを耳に当て、目を瞑って音楽プレイヤーの電源を入れると一人の世界へ引き篭もった。
聞こえてくる音はいつも聞いている大好きな音楽。がしゃがしゃと煩い音と家族に言われたことがある。だが自分には良く慣れた心地良い音だ。
暫く音に浸り少しずつ心に余裕ができると、混乱していた脳が少しずつ正常に動き始める。「帰らないと」という気持ちや「これからどうすればいいのか」という悩み、それに直感的に察した「あの改札は出てはいけない」という判断。
兎に角戻りの線の電車を待って、電車が来そうもなければ線路を歩いて戻ってみようか。見つかったら怒られるかもしれないが、怒ってくれるような人が現れたほうが孤独よりも未だマシだ。そう心に決めた青年はゆっくりと目を開いて顔を上げた。
その視線の先。突如一人の少年が此方を見て立っているのを確認し、彼は悲鳴すら上げられず息を詰める。心臓は一瞬にして鼓動を跳ね上げ、喉元まで何かが込み上げた。誰、や何など、声を上げたかったがそのどれもが喉に詰まって言葉には出ない。ただ、思考を遮るように荒れた鼓動だけが耳や脳に響く。
少年の歳は中学生ぐらいか。糊付けされたワイシャツに黒いズボンは学生服にも見える。驚き声を上げられたなかったのは目の前に突然居たからというのもあるが、その髪が老人のように白く、目は人とは思えない程に澄んだブルーグレーだったからだ。服装の見た目から「少年」と判断したが顔は中性的で、長めの髪も相まって性別は分かり辛い。
酸欠の金魚のように口をパクパクとさせ恐怖に身を引き攣らせている青年とは反対に、目の前の少年は酷く困惑したように眉を顰めて青年を見ていた。その困惑の面持ちが妙に人間味を帯びていて、先程電車を降りてきた人達とは違い安堵を覚える。それを自覚すると鼓動は次第に荒れるのを止めた。
それでもまだ常よりも早い胸を抑えて青年は改めて少年に向く。
「君は?」
そう声を掛けたのは同時だった。
言葉が通じる人がいる。それはどれほど不安を払拭できるものだろうか。相手は子供だったが、青年は思わず目に涙を浮かべる。だが、子供の前で突然泣くわけには行かない、と彼は慌てて目を擦って誤魔化した。そんなことをやっている間に少年が言葉を続ける。
「どうしてここにいるんだい?」
少年らしい、声変わり前の高めの声。しかし、何処か達観したような声音で彼は青年に問う。青年はここに居る経緯を丁寧に話した。
まず、田舎の祖父母宅を訪れるためにこのローカル線に乗ったこと、外を見ていたら黒い山の中に太陽を見たこと、それが狐の形をして夕日の中に消えたこと。
隣に座り、全てを聞き終えた少年は「ははあ」と零し納得したように頷いた。あまりに酔狂とも思える話にも関わらず、少年は馬鹿にすることも否定することも無く青年の話を受け入れる。逆に青年が話をしながら己の頭を疑うぐらいだった。
「お兄さん、狐狸に引き摺り込まれたね」
少年は苦笑を浮かべてベンチから立ち上がり、くるりと青年へ向くと彼が首に掛けたままのヘッドホンを指した。
「それで外の音を遮っていたから囚えられたんだろう」
夕暮れ時は逢魔が時。人と魔の交じる時間。面白半分に人を巻き込む「よくないもの」が君に目をつけたのだ、と少年が言う。意味が分からず青年は目を白黒させた。
構わず少年は言葉を続ける。
「良かったね、ここに居て。きっとあの改札の向こうへ出たら帰して貰えなかった」
駅舎を睨みつけて彼は吐き捨てるように言う。それを聞き青年はますます身を強張らせた。それと同時に今の言葉でまだ帰れるのだと知り安堵する。
「どうやったら帰れる?」
不安げに青年が少年に問う。これではどちらが子供か分からないが、今は状況を把握しているらしいこの少年に頼るしか無いのだ。青年は縋るように彼へ詰めた。
少年はそんな青年に嫌な顔一つせず「大丈夫」と返して青年が首に掛けたままのヘッドホンを再度指す。彼はそれを耳に当てさせ、ベンチから立つように促すとその手を引いた。
「音を入れて目を瞑って、僕が手を引くままに付いてきて」
信じて歩け、と彼は言う。
「ただし、僕が手を離すまで目を開けてはいけないよ。約束を破れば戻れなくなる」
脅すような言葉。だが、真実なのだろう。少年は力強く手を握る。青年もまた強く手を握り返した。
「じゃあ行こう」
その言葉とともに引かれる手。音楽プレイヤーの再生ボタンを押して、促されるままに青年は歩き始める。