逢魔が刻の駅
流れ行くローカルな田園風景に車輪がレールを揺らす音。
ヘッドホンを当て一人の世界に篭った青年が、吊革を握りしめながらぼんやりと電車外を眺める。外は煌々と赤みを帯びた秋の夕暮だった。
山は逆光を浴び暗い影を落とし、雲は沈みかけた夕日を受けて緋色に輝く。空は東に進むほど青みを帯びて夜の迫りを告げていた。この分では電車が目的地に着く頃には辺りもすっかり暗くなってしまうだろう。最近まで日が長いと思っていたが秋分が過ぎれば一日もあっという間に過ぎていく。
そんな空を眺めていると突如不可思議なものが目に入った。
「あれ」
思わず青年は驚嘆の声を漏らす。幸いこの田舎の電車は混んでおらず、周りに誰も居なかった為注目を浴びることはなかったが、人の目を集める云々よりも今彼には気になる事があった。
(山間に太陽がもう一つある?)
逆光を浴びてまるで影の塊のような遠くの山。そこに沈みゆく太陽とは別にもう一つ、小さな太陽のような明るい丸が蠢くのが目に入る。近くの山ならばあっという間に通りすぎて気付かなかっただろうが、遠くにあるそれは暫く彼の目に留まった。
懐中電灯の光…にしては随分遠くまで届く。LEDでもあれほど明るくこの電車内の人にまで届く光はないだろう。では何なのか。
丸い光はもぞもぞと動き、やがて練った小麦の塊を伸ばすように姿を変えていく。それは犬のような、猫のような動物の形。ゆらゆらと陽炎の如く揺らぎ、首を太くし更には胴が伸びて尾も大きく太くなる。絵本や図鑑なら見たことはあるけれど、あまり身近で見たことは無い動物。「狐だ」と彼は咄嗟に理解した。
だが妙だ。遠くの山に跳ねるそれがしっかりと狐の形に見えるなど。この電車内から見えるのであれば相当な大きさではないだろうか。しかし辺りにはそれを騒ぎ立てる様子が無いどころか、同じ車内で外を見ている人も居るというのに誰もそれを口にしない。
光り輝く狐はトンと山の中を跳ね、山間に沈みかけた夕日に向かって駆け出す。
「あ」
本当にあっという間の出来事で、太陽の光の中に飛び込んだと思えばその姿はいとも簡単に見えなくなってしまった。後にはただ先程と変わらない黒い山だけが残る。
何だったのだろう、と胸中で独り言つ青年は他に同じものを見た人が居ないかと改めて辺りを見渡す。そこで彼は初めて違和感を覚えた。
がたんがたん、と揺れる音は相変わらず。ただ、そこには誰も居ない。
「えっ」
突然のことに青年は息を飲む。
ローカル線とは言え全く人が居ない訳じゃなかった車内。それが不思議な光に意識を奪われ、少し目を放した隙に誰ひとり居なくなってしまったのだ。駅に停まって降りたというならわかるが、この電車は動き続けていたし自分が駅に停まったことに気付かなかったとも考え難い。
青年は恐る恐るヘッドホンを外し耳を澄ます。だが聞こえるのは相変わらずレールを走る電車の音だけで、人の声など一つも聞こえなかった。
電車の継ぎ目へ駆け寄り隣の車両を見るがそこにも人影は見えない。反対側の車両も全く同じだ。
ならば先頭車両へ行ってみよう、流石に車掌は居るはずだ。そう思い車両間のドアへ手を掛ける。だがそれは敢え無く車内に響いたアナウンスによって遮られてしまった。
「次は狐ケ崎。次は狐ケ崎です」
御忘れ物のないように、と言葉が続きアナウンスが消える。次第に電車も速度を緩め駅に止まる準備を始めた。
「狐ケ崎?」
青年が声を上げて目を丸くした。
目的に向かう前に確認した路線図にはそんな名の駅など無かった。彼はこのローカル線に乗るのは初めてではないし、単線であるこの電車が途中で目的地を変えたとも思え無い。これが快速電車だとすれば「ああ、各駅停車の駅かな」と思えるのだが、生憎ここは各駅停車一本の線だ。
気付かない間に白昼夢に囚われ寝過ごしたのだろうか。だとすれば降りて戻らなければ。そう思いながら青年は電車を降りる。
狐ケ崎と呼ばれた駅は変哲のない田舎の駅だった。プラットホームが一つ、階段も一つ。看板に書かれた文字は日本語で、ちゃんと読める。ただ、見覚えのない駅だ。降りる前は気付かなかったが、線路に並行して東側は崖がそびえ立っており出入り口は西側にしかない。その出入り口も一度階段を上がり線路を跨がなければ辿りつけない仕様だ。
駅舎や柵の向こうには先程光の狐が飛び跳ねていた黒い山が見えた。
「次の電車は何分後だろう」
一本逃せば次は二十分後もざらな田舎。余計な時間を食ってしまったと溜息混じりに青年は時刻表を探す。
さて、プラットホームの真ん中にそれはあったのだけれど、彼は己の目を疑った。
「書いてない」
常ならば時刻の横に連なる分刻みの文字。だが、その時刻表は時間の割付はあるのだが、その他が真っ白だった。よく見れば時間の割付も妙なもので、二十四時以降から三十時までの表記がある。
二十四時から六時間後と言えば普通に朝の六時じゃないか、そんな書き方をする意味がわからない。彼は胸中で独り言ち小首を傾げる。
もしかしたら子供の悪戯か、あるいは時刻表を作り替えている途中で書いていないのではないか。そう考えた彼は直接駅員に聞こうとプラットホームの階段を登った。線路を跨ぐ橋を渡り、登った時と同じ段数の階段を降る。
駅舎というほどの建物ではないそこは二つの改札と常ならば駅員が待機する小さな窓口だけで、改札を出たら直ぐに道路へ出られる程度の距離しか無い。だが、そんな小さい駅舎にも関わらず人影は見えないし人気も無い。
「すみません」
声を掛けるが矢張り人が居る気配は無い。所謂無人駅なのだろうか。田舎ならば考えられる、と彼は困惑した。これでは次の電車が来るまで一人寂しく宛もなく待ち続けるしか無くなってしまう。
運賃の過不足が分からない以上流石に黙って改札を通るわけにも行かず、彼は渋々とプラットホームへ戻る。小さな駅だ。駅舎もよく見えるし人が来ればわかるだろう。彼は時刻表横にあるたった一つの木製ベンチへ腰を下ろした。
それから程なくして一本の電車がやってくる。だが、残念ながらそれは自分が乗ってきた方向と同じ電車で、戻る線ではない。
(二回連続で此方の線か)
上り線の後は下り線の電車が来ると思っていた青年は肩を落とす。ただ、これで自分以外の者が現れることで駅舎に駅員も出てくるだろうと安堵し、彼は電車の扉が開くのを待った。
ヘッドホンを当て一人の世界に篭った青年が、吊革を握りしめながらぼんやりと電車外を眺める。外は煌々と赤みを帯びた秋の夕暮だった。
山は逆光を浴び暗い影を落とし、雲は沈みかけた夕日を受けて緋色に輝く。空は東に進むほど青みを帯びて夜の迫りを告げていた。この分では電車が目的地に着く頃には辺りもすっかり暗くなってしまうだろう。最近まで日が長いと思っていたが秋分が過ぎれば一日もあっという間に過ぎていく。
そんな空を眺めていると突如不可思議なものが目に入った。
「あれ」
思わず青年は驚嘆の声を漏らす。幸いこの田舎の電車は混んでおらず、周りに誰も居なかった為注目を浴びることはなかったが、人の目を集める云々よりも今彼には気になる事があった。
(山間に太陽がもう一つある?)
逆光を浴びてまるで影の塊のような遠くの山。そこに沈みゆく太陽とは別にもう一つ、小さな太陽のような明るい丸が蠢くのが目に入る。近くの山ならばあっという間に通りすぎて気付かなかっただろうが、遠くにあるそれは暫く彼の目に留まった。
懐中電灯の光…にしては随分遠くまで届く。LEDでもあれほど明るくこの電車内の人にまで届く光はないだろう。では何なのか。
丸い光はもぞもぞと動き、やがて練った小麦の塊を伸ばすように姿を変えていく。それは犬のような、猫のような動物の形。ゆらゆらと陽炎の如く揺らぎ、首を太くし更には胴が伸びて尾も大きく太くなる。絵本や図鑑なら見たことはあるけれど、あまり身近で見たことは無い動物。「狐だ」と彼は咄嗟に理解した。
だが妙だ。遠くの山に跳ねるそれがしっかりと狐の形に見えるなど。この電車内から見えるのであれば相当な大きさではないだろうか。しかし辺りにはそれを騒ぎ立てる様子が無いどころか、同じ車内で外を見ている人も居るというのに誰もそれを口にしない。
光り輝く狐はトンと山の中を跳ね、山間に沈みかけた夕日に向かって駆け出す。
「あ」
本当にあっという間の出来事で、太陽の光の中に飛び込んだと思えばその姿はいとも簡単に見えなくなってしまった。後にはただ先程と変わらない黒い山だけが残る。
何だったのだろう、と胸中で独り言つ青年は他に同じものを見た人が居ないかと改めて辺りを見渡す。そこで彼は初めて違和感を覚えた。
がたんがたん、と揺れる音は相変わらず。ただ、そこには誰も居ない。
「えっ」
突然のことに青年は息を飲む。
ローカル線とは言え全く人が居ない訳じゃなかった車内。それが不思議な光に意識を奪われ、少し目を放した隙に誰ひとり居なくなってしまったのだ。駅に停まって降りたというならわかるが、この電車は動き続けていたし自分が駅に停まったことに気付かなかったとも考え難い。
青年は恐る恐るヘッドホンを外し耳を澄ます。だが聞こえるのは相変わらずレールを走る電車の音だけで、人の声など一つも聞こえなかった。
電車の継ぎ目へ駆け寄り隣の車両を見るがそこにも人影は見えない。反対側の車両も全く同じだ。
ならば先頭車両へ行ってみよう、流石に車掌は居るはずだ。そう思い車両間のドアへ手を掛ける。だがそれは敢え無く車内に響いたアナウンスによって遮られてしまった。
「次は狐ケ崎。次は狐ケ崎です」
御忘れ物のないように、と言葉が続きアナウンスが消える。次第に電車も速度を緩め駅に止まる準備を始めた。
「狐ケ崎?」
青年が声を上げて目を丸くした。
目的に向かう前に確認した路線図にはそんな名の駅など無かった。彼はこのローカル線に乗るのは初めてではないし、単線であるこの電車が途中で目的地を変えたとも思え無い。これが快速電車だとすれば「ああ、各駅停車の駅かな」と思えるのだが、生憎ここは各駅停車一本の線だ。
気付かない間に白昼夢に囚われ寝過ごしたのだろうか。だとすれば降りて戻らなければ。そう思いながら青年は電車を降りる。
狐ケ崎と呼ばれた駅は変哲のない田舎の駅だった。プラットホームが一つ、階段も一つ。看板に書かれた文字は日本語で、ちゃんと読める。ただ、見覚えのない駅だ。降りる前は気付かなかったが、線路に並行して東側は崖がそびえ立っており出入り口は西側にしかない。その出入り口も一度階段を上がり線路を跨がなければ辿りつけない仕様だ。
駅舎や柵の向こうには先程光の狐が飛び跳ねていた黒い山が見えた。
「次の電車は何分後だろう」
一本逃せば次は二十分後もざらな田舎。余計な時間を食ってしまったと溜息混じりに青年は時刻表を探す。
さて、プラットホームの真ん中にそれはあったのだけれど、彼は己の目を疑った。
「書いてない」
常ならば時刻の横に連なる分刻みの文字。だが、その時刻表は時間の割付はあるのだが、その他が真っ白だった。よく見れば時間の割付も妙なもので、二十四時以降から三十時までの表記がある。
二十四時から六時間後と言えば普通に朝の六時じゃないか、そんな書き方をする意味がわからない。彼は胸中で独り言ち小首を傾げる。
もしかしたら子供の悪戯か、あるいは時刻表を作り替えている途中で書いていないのではないか。そう考えた彼は直接駅員に聞こうとプラットホームの階段を登った。線路を跨ぐ橋を渡り、登った時と同じ段数の階段を降る。
駅舎というほどの建物ではないそこは二つの改札と常ならば駅員が待機する小さな窓口だけで、改札を出たら直ぐに道路へ出られる程度の距離しか無い。だが、そんな小さい駅舎にも関わらず人影は見えないし人気も無い。
「すみません」
声を掛けるが矢張り人が居る気配は無い。所謂無人駅なのだろうか。田舎ならば考えられる、と彼は困惑した。これでは次の電車が来るまで一人寂しく宛もなく待ち続けるしか無くなってしまう。
運賃の過不足が分からない以上流石に黙って改札を通るわけにも行かず、彼は渋々とプラットホームへ戻る。小さな駅だ。駅舎もよく見えるし人が来ればわかるだろう。彼は時刻表横にあるたった一つの木製ベンチへ腰を下ろした。
それから程なくして一本の電車がやってくる。だが、残念ながらそれは自分が乗ってきた方向と同じ電車で、戻る線ではない。
(二回連続で此方の線か)
上り線の後は下り線の電車が来ると思っていた青年は肩を落とす。ただ、これで自分以外の者が現れることで駅舎に駅員も出てくるだろうと安堵し、彼は電車の扉が開くのを待った。