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私の読む「紫式部日記」後半」の残り

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(まだ人に折られ靡いたこともないのに、誰方が私を浮気者だと言っておられるのでしょう)
心外なことです。
 と返歌を差し上げた。
 渡殿の局で寝た夜に、戸を叩く音を聞いたのだが、恐ろしいのでじっと音を立てないようにした翌日に、
 夜もすがら水鶏(くいな)よりけに
             なくなくぞ
 まきの戸ぐちにたたきわびつる
(あなたが開けてくれないので、一晩中水鶏にもまして泣く泣く、槙の戸口をたたきあぐねたことです)
返しは、
 ただならじ戸ばかりたたく水鶏ゆゑ
      あけでばいかにくやしからまし
(あなたの訪れに心おだやかでいられはしません。ほんの少しばがり戸を叩いただけの水鶏ー貴方のために開けたならばどんなに悔しいことになったでしょう)

【「寛弘六年十月四日一条院焼亡、十九日行幸左大臣枇杷亭、十一月十五日第三皇子誕生、十二月廿六日中宮人内」
このことを踏まえて以下に続く】

 今年の正月三日まで、第二皇子敦成親王、第三皇子敦良親王お二人の「戴餅(いただきもち)」に、元日から三日まで毎日清涼殿に参上なさる。昨年十一月十九日以来、内裏は枇杷殿である。上﨟全員もお供する。左右衛門の督若宮を抱かれて、殿が餅を取り次いで帝に差し上げる。夜の御殿の東側の戸口に向かって主上が若宮たちの頭に餅を戴かせなさるのである。若宮が主上の御前に参上し、また退下なさる儀式は見ていて素晴らしい儀式である。若宮の母君中宮は参上されなかった。 一日の中宮の御薬の陪膳役は、宰相の君である。いつもの通り衣裳の配色など特別である。取次ぎの女蔵入は内匠、兵庫担当する。
御陪膳役(宰相の君)は髪上げ姿が特別よくお見えになったが、当然のことである。元日から三日まで御薬(屠蘇・白散など)を供する儀式にあずかる女官博士の命婦、内侍所の主任女官が賢ぶって才ありげに振舞って、典薬寮から配られた膏薬を主上に供すると、主上は右の薬指で額と耳の裏に塗る。例年行われる正月の儀式である。

*陪膳役の着衣の決まり、吉方(えほう)の色合で、御薬の儀の際例えば、その年の吉方が東に当れば青色、西方ならば黄色の唐衣を常の唐衣の上に重ね着るという。

【一条院消失は史実であるが、日記は記載がない。どうしてなのだろう。消失前に中宮の里である土御門邸に行啓されて法事、その後の供達の遊び、漢書の才を少し出す。次に、一条院が焼けて仮の御所での正月の行事を感想を交えて紹介する。宴会に{蜻蛉日記」作者の息子藤原道綱の名前がある】


 正月二日
 中宮が親王公卿らに賜わる饗宴は正月二日で開催されるが中止になって、公式に定められた饗応ではないが、年始に摂関家で大臣以下公卿を招待する饗宴が東表を開け広げて例年通り行われた。招待された上達部は、傅(ふ)の大納言藤原道綱、傅は東宮傅で皇太子は居貞(いやさだ)親王後の三条天皇、母親は道長様妹の超子。右大将藤原実資(さねすけ)。中宮の大夫藤原斉信(ただのぶ)。四条の大納言藤原公任(きんとう)左衛門の督(かみ)。権中納言藤原隆家。侍従の中納言藤原行成。左右衛門の督藤原頼通。有国の宰相参議藤原有国この年68才。大蔵卿藤原正光(まさてる)。左兵衛の督藤原実成(さねなり)「藤宰相」。源宰相源頼定「頭の中将}。皆さん向かい合って座られた。源中納言源俊賢(としかた)。右衛門の督藤原懐平(かねひら)。左宰相の中将源経房(つねふさ)。右宰相の中将藤原兼隆(かねたか)らは長押下の一段低い下座、更にその下に殿上人が座る。
 若宮敦成(あつひら)親王を道長様が抱かれて若宮にいつもの客人に対する挨拶をお言わせになり、終わると頭を撫でて可愛がってさしあげなさる。同席されている北の方倫子様に、
「さあ、幼宮(敦良親王)をお抱きしよう」 と言われるのを、兄宮がひどくやきもちをおやきになって、「いやいや」と殿を責めるのを、可愛いなと若宮をあやされ、なだめすかす言葉を申しあげなさるのでその光景を見ている右大将藤原実資が面白がって見ておられる。
一同が主上の御座所に参上なさって、主上は殿上の間に出御あって、子(ね)の日の遊が始まる。殿道長様例によってお酔いになる。私は、面倒なことが起こると予感して隠れていたが、
「貴女の御父左少辮蔵入藤原為時を御前に参るように言っておいたのに、伺候しないで急いで退席した。ひねくれている」
 などと仰られて、御機嫌が悪い。けれども本当は御機嫌が悪いのではなくて、
「歌一首、披露して。退出してしまった親為時の代りに、今日は初子の日だからね、さあお詠み、お詠み」
 と責めるように催促された。と言って、さっさと詠んだら、ひどくみっともないだろう。大変酔っていらっしゃるようでなく、お顔色が大変紅を帯びて清らかな殿の灯火に照らされた姿が実に素晴らしい。殿は、
「最近、中宮が見るからにあじきなく一人きりでいらしゃったのを物足りないと思い申しあげていたのに、いまこうしてうるさいまで左右に若宮を見奉るのはうれしいことだ」
 と、お休みになっておられる宮二人を御帳台の垂れ絹を引き上げて御覧になる。 
「子の日する野辺に小松のなかりせば千代のためしに何を引かまし」(拾遺集、春、壬生忠岑0023)と、口ずさまれる。新しく歌を詠むということよりも、古歌を口誦んで、折にぴったりの、そうした態度が立派に見えるのである。

 次の日夕方、もう早速春めいて霞がかかった空を建ち並ぶ御殿の軒は隙間がなくて、ただ渡殿処の隙間から空をほのかに見ながら中務の乳母と、殿が「子の日する野べに小松の・・・」と口ずさんだことを立派だったと話す。この命婦は物心を弁えて、気が利く賢い方である。

 少しの間だけ里へ帰らしていただき、二の若宮の五十日の、正月十五日の暁に御殿に帰参するが、仲の良い同僚の小少将の君が、すっかり明るくなってきまりがわるいほどの時刻に帰参なさる。いつものように同じ部屋にいた。二人の局を間の几帳を外して一つにして私と小少将の君とは、相手が里にいる時も互にその部屋に住む。両方同時に出仕する時は几帳一つで簡単に仕切っている。殿がお出でになる。
「互に知り合いでない男でもやってきて、まちがって言いちぎるようなことがあったらどうするか」
 殿が人聞き悪くおっしゃる。私たちは誰も互に知らぬ男をもつなどという浅い交りではないのだから心配ない。


【公式の行事は中止になったが、道長主催の宴会が開かれた。招待者の主だった人を紹介して、道長の孫を可愛がる様子を書き、気の張らない普段の様子をも記述している。現代の人が言うような冗談も道長は式部に言っていたのが分かる】