私の読む「紫式部日記」後半」の残り
「悔しいこと。この子が男子でなかったのは、不幸なことよ」
と何時も嘆いておられた。それだのに、
「男子だって学識ぶった人は、どういうものか、まるっきりうだつがあがらないと決まっているようだ」
と言う声を聞くようになってから、一という文字ですら書ききらないと言うほど漢学の才を人前でひた隠しにして、いかにも不調法にしていて、自分でも呆れています。読み込んだ書などは見向きもしないでいましたのに、左衛門の内侍の陰口聞いたものですから、他人はどのように聞いて私を憎んでいるやらと、ますます恥ずかしくて、画讃として屏風絵の上部に書かれた詩句も読めるのですが読めない振りをしているのを、中宮が、私にその御前で白氏文集の所々を読ませなさったりして、そうした詩文のことを、お知りになりたそうに思っておいでであったので、こっそりと人が御前に居られないときに、一昨年の夏頃より楽府という古詩の書二巻をたどたどしく、お教え申したことも隠しております。中宮もそのことを隠してお出ででしたが殿も倫子さまも楽府進講の様子をお知りになって、漢書などを立派に能書家にお書かせになって中宮に差し上げなさった。本当に、こうして中宮が私に進講させなさったりすることを、あの口やかましやの左右衛門内侍はまさか聞き知ってはいまい。もし知ったならばどのような誹りの言葉が出るものかと、総て世間は物事が繁雑で思うようにはいかないものであります。
【左右衛門の内侍という者から誹謗中傷を受けた。何処の誰とも分からないが、先に紫式部は齋宮の女房達を批判したからその返礼だろう。その後式部は力余って自分のことを自賛する様に書いている。実際そうであったであろうが、今の立場に不満がある。更に彼女の心を書き綴っている】
何と今の私は、言忌したってはじまらない身の上だから、不吉な言葉を使うことは止めにしましょう。人が何言おうと、ただ阿弥陀仏にたゆまず経を習いましょう。世間の嫌な避けたいことは露ほども執着がなくなってしまったのですから、出家するのに怠るべきでもないのです。そうは言っても、ひたすら出家してみても、極楽浄土に至らぬ間のぐずぐずした迷いがあるに違いないことです、それが理由で私はためらっているのです。年齢もまた出家するのに恰好な程度になって来つつある。これから老いぼれてしまい、また眼も見えなくなって経を読むこともせず、心の中も怠惰の気分が広がって行くものと、信心ふかい人の真似のようですが、いまはただこうした仏道のことを思うだけです。そら、罪が多い人は極楽往生の願いが成就するわけではないでしょう。前世のつたない因縁が自然に分ってくることばかり多いものですから目に耳に入る総てが悲しく思われるのです。
お手紙に書くことが出来ないことを善悪にかかわらず世の中のこと、我が身の憂いのこと総てを聞いていただきたいので書き綴っておきます。不都合なと思う人のことを念頭にして、あなたに申し上げるにしても、しかしこんなことを書いてしまってよいものでしょうか。だが、あなたは所在なくしておいででしょう。私の所在ない心を御覧になって下さいまた、あなたのお考えになることは、まったくこんな風にろくでもないことは沢山ないでしょうが、お書きになって下さい。拝見しましょう。万一この私が書いた物が他人の眼に触れましたら、実に大変なことでしょう。人もまた騒ぎ立てることでしょう。最近反古は皆破ったり燃やしたりして全部を無くしました。この春、反古紙で紙張子にしてお雛様の家を作りました。人様から頂いた文ももうありません、新しい紙にわざわざ清書するまでもあるまいと思って反古を用いたのはじつに見ばえがしないことです。こうした簡単なことに反古を用いても不都合ではありません。
むしろわざとそうしたのです。これを御覧になったら早くお返し下さい。自分でもよく読めない箇所箇所や文字落しがありますでしょう。そうした所は、何のことはないでしょう、とばして御覧になって下さい。このように世間の人を考えながら、その揚句に書き結んで見ますと、わが身に執着する心が本当に深いもので私はどうすれば宜しいのでしょうか。
寛弘六年某月十一日暁に、土御門邸内の供養堂へ中宮はお出でになる。中宮のお車に殿道長様が同乗され、その他の付き人は舟で渡った。私はそれに遅れて夜に参上する。衆生や怨霊に説法して善道に向わしめる法、教化(きょうげ)をなさるところ、比叡山・三井寺。ともに天台宗の作法で、仏前にて罪悪を悔悟する作法大懺悔を行う。塔の絵を板に描いて楽しまれる。上達部の多くは退散されて少しの人数がのこられた。後夜の導師は説法の振りが皆めいめい違っていて、二十人が二十人ながら中宮がこうして栄えていらっしゃることを誉められるが、時々言葉に詰まって参会者の失笑を買うことが多々あった。
法会が終わると、殿上人達は舟に乗って遊ぶ。御堂の東の端、北向きに開けた扉の前で、池に降りられるように造った階段の勾欄にもたれて宮の大夫がが居られた。道長様が中宮のいらっしゃる所にお出でになると、宰相の君などがお話をしているのが、中宮の御前であるので油断のない心配りがあって、御堂の内外ともに風情ある光景である。
【式部は人生の不安を何時も感じている、出家をしたいが踏み切れない。文を認めるが誰に当ててであるか、分からない。自分の心情を残さずに言っているようだ。反古にした紙を使って書いたのだろうか。最後に自分の執念から脱却できないと述べて終わる。
中宮が我が家の土御門邸に帰って法要が行われる】
朧月が現れて若い君達が昨今流行の今様を謡う者たち、舟に全部乗ってしまったが、若い歌声を楽しく聞かせてくれる、大蔵卿藤原正光が本気になつて若君達に仲間入りして、舟に乗る。然し何といっても年配なので自分も声を合せて歌うのもはばかられるのか、ひっそりとして坐っている、ぞの後姿がおかしく見えるので、御簾の内に並ぶ女房達はこっそりと笑っている。白氏文集巻三に「海漫漫」の一句、「童男丱女舟中に老ゆ」を思い出す。海漫漫は秦の道士徐福が始皇帝の命により不老不死の薬を求めて蓬莱山へ行った故事(史記)を詠った作で、徐福に従う童男丱女(かんじょ)幼女が蓬莱に至らぬうち年老いたというのであることから私は、
「舟の中で歳取ってしまう」
からかったのを聞きつけて、中宮大夫斉信(ただのぶ)が、同じ詩文の一節、
「徐福文成誑誕(きょえん)おほし」
徐福も文成もでたらめが多い、と即座に言われた声は若々しく現代風であった。今様の文句で「池のうき草」と謡って笛を合わせて吹かれる、明け方の風の感じが一変している。何でもないことでも場所が場所だから、折が折だからであるかな。
源氏物語が前にあるのを殿が御覧になって、例によって冗談などいい出されたその折に、梅の木の下に置かれた紙を取って書かれた、
すきものと名にし立てれば見る人の
折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ
(あなたが浮気者だと評判になっているのだから、見る人が見逃しておくことは無いと思うよ)
と私に給わったので、
人にまだ折られぬものを誰かこの
すきものぞとは口ならしけむ
作品名:私の読む「紫式部日記」後半」の残り 作家名:陽高慈雨