私の読む「紫式部日記」後半」
小少将の君は、どことなく上品で優雅、二月頃のしだれ柳のような風情である。容姿は美しく物腰は柔らかい、自分の意志から進んで決断するという所もないように遠慮をして世間に対して気をつかい、見るに忍びないほどにおぼこでいらっしゃる。意地の悪い人で、悪しざまにあしらったり陰口をきく人でもあったなら、そのまま、そのことにくよくよとして、まるで死んでもしまいかねないほどか弱くて、どうにもならない点をもっていらっしゃるのが、まあ兎に角気がかりな感じである。
宮の内侍は、大変清らかな方である。背丈が実に丁度良い程合の人で、坐っている姿や全体の恰好は堂々として現代風な風采であるが、格別に美しいとは言えないが、それでも何となく実に爽やかな美しさで初々しく、顔の中央が少し高い感じの肌の色合が白く人に優れている。黒髪と釣り合いのとれた額のきわは何と美しくばっと明るい感じで可愛らしさをもっている。ごくありのままに振舞って気立ても穏やか、いずれの面につけても露ほども気づかわしい点がなく、万事そうありたいものと、人の手本にしてもよさそうな人柄である。風流な様子を見せようとしたり気どったりする点はない式部のおもとは、宮の内侍の妹さんです。ふっくらというより肥っている人で、色白でつやっやと光るように美しくて顔はきめがこまかで風情がある。髪はとても端正で綺麗であるがそう長くはないようである。髪が短いので添毛をして勤めに上がっている。その太った姿はとても可愛らしく感じた。眉毛や額の感じが清らかである。にっこり笑うととても可愛らしい。
若い女房の中で姿形がよいと見えるのは、小大輔、源式部。
小大輔は小柄で容姿は現代風、髪はとても綺麗でもともと大変ふさふさと多く、裾より一尺以上余していたが、いまは脱け落ちて少くなっている。顔はほっそりと利発そうで嗚呼美しい人だと曳かれます。姿形は非の打ち所がない。
源式部は、背丈は程良くすらっとして顔は小さく整って見れば見るほどとても美しく愛らしげな様子、何となく清純な感じでさっぱりとしていて、親がかりの娘のようで、宮仕の女房にふさわしくないうぶな感じで見える。
小兵衛の丞もとても美しい。いままであげてきたこれらの人々は殿上人が見のがしておくことはほとんどない。殿上人とたいてい好い仲になっている、うっかりしくじると知れ渡ってしまうものだが、人の見ていない所でも用心するから知られないでいるのですよ。
宮木侍従こそが大変美しい人でありました。小柄でほっそりとした身体、まるで童のような様子でありましたが、自分から好んで年寄じみ、尼になってそれきりになってしまいました。髪は袿より少し長く、髪の裾を綺麗に美しく切り揃えて参上されたのが、思えば最後の時だったのです。綺麗な方でした。
五節の辨という方が居られます。平中納言が養女にして大切に世話しているということだった人であって、美しい絵から抜け出したような綺麗な顔で、額が広く目尻がとても低く非の打ち所が無く色が白い、手や腕の格好が美しく、髪は、はじめてお逢いし春は、一尺ばかり裾より長く、大変豊かに見えていましたが、今は意外にも分け取ったように脱け落ちて、しかしそれでもさすがに裾は細くならないで、長さは背たけより少し長めのようです。
小馬という人は髪が長い。以前は美しい若女房、しかし今は史記に「藺相如曰、王以名使括。若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳。不知合變也。趙王不聽。遂將之」とあるように小馬も琴柱に膠をさすという例えのように、如何に呼ぼうとも里に引き籠もってしまって出仕しない。
【藺相如曰、王以名使括。若膠柱而鼓瑟耳。括徒能讀其父書傳。不知合變也。趙王不聽。遂將之。
藺相如(りんしょうじょ)曰く、王は名を以て括(かつ)を使う。柱(ことじ)に膠(にかわ)して瑟(しつ)を鼓(こ)するが若きのみ。括は徒だに能く其の父の書伝を読むのみ。変に合うを知らざるなり、と。趙王(ちょうおう)聴かず。遂に之を将とす。式部は父親が男であればと嘆いたぐらい漢書をよく読んだそうである】
このように、ずっと人々の容姿について述べてきて、それではその人の性質はというと難しいことになります。それも各人各様であってひどく駄目なのもない。また特別に立派で、思慮に富み、その上すぐれた才芸もあるとか、情操もあるとか、危げなく信頼もおけるとか、全部が全部を一身に具えるということは滅多にないものだ。人とりどりで、どれを良しとすべきかと思案されることが多い。こんな風に私が生意気にあれこれと言うのは、まったく無礼なことです。
宮中では古来神への崇敬の念を表す行為のひとつで、未婚の皇女を神の御杖代(みつえしろ)とし奉仕させて伊勢神宮を「斎王」ついで賀茂の大神に「斎院」という名で送られた。天皇が交代する度に易を立てて皇女を決めて使者に報告させ、次に御所内の一所に初斎院と云われる居所を設けられ、三年間潔斎修行をする。賀茂の齋院は三年を経て四月上旬吉日に愛宕郡紫野の野宮の院(紫野院とも云われた)に入られ、賀茂川にて御禊を行った後初めて祭事の奉仕が許された。この院には事務等を担当する斎院司や蔵人所が置かれ、長官以下官人、内侍、女嬬等が仕えた。
その齋院に、中将の君と言われる女房が居られる。この人について耳にする事がありました。私の知人が中将が知人の所に送った文をこっそりと分らないように私に見せてくれた。内容はひどくお高くとまった文章で、自分だけが世の中でものの情理がわかっていて、また思慮が深い。これは他に類がない。世間の人は総て思慮も分別も無いように思われてならない。こんな事を書いている中将の君の手紙を読んで、無性に不愉快になって他人事ながら腹が立つ(おほやけばら)、下々の者が言うように憎らしく思えてきた。気がねない私信のつもりで書いたのであっても、
「歌などが趣き有るのを詠むことが出来るのは、この齋院の他に誰か知っているという人が居られるか。もしすぐれた人間が世に生れ出るなら、さしずめわが斎院こそそうした人を鑑別できるというものだ」
と、まるで見識ある斎院には立派な女房がいる。自分もその一人だ、という自慢ではないか。
なるほど最もな言分だが、自分の方のことをそんなに言うのなら、齋院の方が詠まれた歌が、優れたものであってよいのに、非常によいと思えるのもありはしません。斎院がたはもっぱらたいそう情趣があって、曰くがありそうな処ではあるらしいようである。奉仕する女房を比べて優劣を競争するなら、私が見ております中宮がたの女房に、必らずしも彼処の女房が優ってはいないだろうが、彼処は、世離れているのでいつも内情に立ち入ってくわしく見ている人もいない、だから何と判断して良いか言えない。
作品名:私の読む「紫式部日記」後半」 作家名:陽高慈雨