私の読む「紫式部日記」後半」
侍従宰相藤原実成から差し出された五節の舞姫の控え局は、中宮の座っておられるところから近くであった。立て蔀の上部から、若い男君達が評判にしている簾の隙間が見えた。蔀の中で話す声も微かに聞こえてくる。
「弘徽殿女御(藤原義子)の御方に以前に仕えていた左京馬女房が、たいそう物馴れて交っていましたね」
と、宰相の中将が昔見知っていたのか、話されるのを、
「先夜侍従の宰相の舞姫の下仕えでいた人で、東側にいた人が左京である」
と、源少将も知っている、それがすぐに中宮女房達に知れて、
「面白いこともあるものだ」
と言いながら、どれ、知らん顔で見逃してはおけまい。昔お上品ぶった風をして大きな顔をしていた宮中に、いまはこんな五節の下仕えにまで零落れた姿を見せるということなんてあろうか。自分では人目に隠れているつもりだろうが、そうはいかない、こちらではおおっぴらにしてやろう、という魂胆から中宮の前に数多く置かれた扇の中から、蓬莱山が描かれた扇を特に選んだのは、意味するのは不老不死の仙境の絵を示し、左京馬女房の身の転変を揶揄したのであるが、彼女は女房達の揶揄を悟ったことだろうか。
【以前弘徽殿女御藤原義子に仕えて羽振りをきかせていた女房の左京馬が零落れて舞姫の介添え役の下働きになっているのを見て、中宮の女房達は仕返しを考えて、舞姫が置いた扇の中から蓬莱の絵が描かれたのを取りだした】
蓬莱の絵とは、中国の東方にあって不老不死の仙人の住むところという伝説の山である。中宮の女房達が選んだのには何かの魂胆がある。
女房達は贈り物を載せる硯箱の蓋に扇を広げておいて、日蔭鬘という神事に用いるつる草を形式化して青い組み紐で作った冠の飾りをまるめて、皮肉の意味を込め五節の童女が頭髪に差す反った形の刺櫛の端々を薄様の白い紙を重ねて小幅に切りそれで櫛の両端を結んで添えた。
「少し年配でおいでの方なのだから、これでは櫛の反り様がどうも平凡ですよ」
と側で見ていた君達が言われるので、今の若い者風に櫛を反るだけ反らし、更に薫物(たきもの)の黒方を棒状に不格好に伸ばして両端を切り、白い紙一重ね(二枚)に黒方を包んで、それを立文にした。大輔おもとに一筆書かした。おもとは、
おほかりし豊の宮人さしわきて
しるき日かげをあはれとぞ見し
(大勢いた豊明節会に奉仕する宮人の中、特別目に立つ日蔭鬘、あなたを感慨深くお見受けしました)
中宮は、
「同じことなら風情あるようにつくって扇なども沢山にしたら」
と、仰せられるが、
「大げさなのも今は適わしくないでしょう。特別に御下賜になるのであっては、こんなこっそりとした方法でなくて、正式になさるべきではありません」
とお答えして、顔があまり目立ちそうもない局の者を選んで、
「これは、中納言のお文で 御殿より左京の君へ贈られた物です」
高々と捧持して行って相手かたに謹呈の状と共にお渡しした。
使いの者が引止らめれるようなことがあったらまずいことになると思ったが、使者はさっさと帰って来た。蔀の中から女の声で、
「どこからの贈り物か」 とたずねる声が聞こえたようだが、女御様からのお便りだとすっかり信じこんだであろう。
それ以後は何も書くようなことはなく過ぎていたが、五節が終わった後の宮中はにわかに寂しくなったが、十一月二十六日、未(ひつじ)の日に二十八日の賀茂臨時祭の雅楽の試楽があり、見事な演奏であった。それが終わった後の若い殿方が何となく所在なさそうである。
道長様には二人の夫人が居られる。一人は彰子様の母倫子様。もう一人は一条天皇の母詮子に預けられていた、左大臣源高明の娘明子で、その子供達を高松の小君と呼ばれていた。その高松の小君までが、今度中宮が内裏にお入りになった夜(十七日)からは、女房の局に出入りを許されて、絶えずゆききなさるので、女房たちはとてもきまりわるい思いをしている。私は年配であるのをいいことにして若君達の前から隠れている。若君たちが五節の舞姫なんかに恋い慕うことなく、若い女房のやすらひ、小兵衛達の裳の裾や汗袗に触ったり踏んだりしてつきまとっては、小鳥のようにおしゃべりしてふざけあっていらっしゃるようだ。
十一月下の酉の日は賀茂臨時祭でその奉幣使は殿の二番目の子息の教通様である。その日は物忌みに当たるので道長様は帰宅せずに宮中で宿直された。上達部、祭の舞人の君方も宮中に籠もって、一夜女房の局の近くは騒々しかった。
翌日、藤宰相(実成)の御随身、教通様の随身に何やらを受取らせて去ったとか。それは先日五節の日に中宮の女房達がからかって左京の君へと送り届けた筥の蓋に、白銀の冊子を入れるための筥を置いてあった。冊子筥の中には鏡が入っていて、更に、沈の櫛、白銀の笄など使の教道様が髪をかきつけなさるようにとの趣向である。箱の蓋に葦手書きの細い字を泥で浮き出すように先日の返事が書かれてある。
【中宮女房の嫌がらせは手が込んでいる。すぐには返事が来ないが、五節も終わり宮中が静かになり、退屈しているなかで男君たちの若い女房とのふざけあい、そして賀茂の臨時祭りに使者となった教通の所に先日の嫌がらせの答えが返ってきた】
歌がある、(後拾遺集1122長能)
ひかげ草かがやくかげやまがひけむ
ますみの鏡くもらぬものを
葦手書きなので二文字がよく読めなかったのではっきりと内容が判読できない。何となく返事の趣旨がくいちがっているなと思えるのは、実は内大臣が中宮からだと合点なさって、こんなに仰々しく御返事をなさったのである、と言うことを聞いた。つまらない悪戯なのにお気の毒にも大袈裟になさって。
倫子様も清涼殿(今は一条院の中殿である)にお出でになって祭の使者発遣の儀を御覧になる。使者は出発前、清涼殿の前庭で使と舞人に宴を賜わるのである。
使者の教通様は藤の造花を冠に挿してたいそう堂々と大人びでいらっしゃるのを、乳母の内蔵の命婦は舞い人には目もくれないで教通様を見つめて見つめて涙を流しておられた。 宮中は物忌みであるので使者は賀茂社より丑刻(午前二時)に帰還したので、帰還の神楽「還立ちの神楽」はほんの印ばかりであった。左近將監尾張兼時が去年舞われたときは素晴らしい舞でさすが舞の名手と思ったのであるが、今年は歳を取られたせいか舞の勢いがなかった、関わりのない他人ではあるが我が身と引き比べられることが多々ある。
十二月二十九日
里に下がっていて師走十二月二十九日に内裏に帰参する。初めて内裏りに上がったのもこの日であった。あの時は夢路を歩むようにひどくまごまごとしたものだと思い出して、今はすっかり宮仕生活に馴れて、世間に迎合した気分になっている、と何となく不愉快な気分である。夜がすっかり更けてしまった。中宮様が物忌みであるので御前に帰参の挨拶には参らず、何となく淋しい気分で横になっていたところ、一緒にいる女房たち「内裏は何といっても様子がちがいますね。里だったら今頃は寝てしまっているでしょうのに、局を訪ねる男たちの足音が激しくて、眠ってなんかいられない」
何となく好色がましく言うのを聞いて、
としくれてわが世ふけゆく風の音に
作品名:私の読む「紫式部日記」後半」 作家名:陽高慈雨