小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

私の読む「紫式部日記」後半」

INDEX|4ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

【中宮の居間に主上がお出でになって、舞姫達を御覧になる。道長様も忍んで来られて引き戸から御覧になるので、気ままな格好も出来ずに固ぐるしいことである】


尾張守藤原中清が差し出した舞姫の介添え役は背丈が揃っていて、雅やかで心憎いほどの美しさで、他の者には劣らないという批評であった。
 右の宰相の中将藤原兼隆の舞姫介添は十二分に善美を尽してある。厠掃除を役とする介添の女のみごとに肥えている姿が鄙びていると、見ている人は頬笑んでいる。
舞姫介添え役のお披露目最後は侍従宰相藤原実成が推薦した舞姫の介添え十人が紹介されたが、あの方が帝達の前に紹介したのだと考えてしまい、なんか少し今とは外れている感じがした。
 廂の先の廂、孫廂の御簾を降ろして御簾の下からはみ出している衣の褄が何か得意顔をしている感じで火影に見渡された。

十一月二十一日

 翌日寅の日、殿上(一条院の中殿)で酒宴ののち、五節殿(一条院の東の対)を経て、中宮御座所(東北の対)に参ったのである。
何時ものことであるが、数ヶ月の間里に下がっていたので下世話臭くなり、宮に上がって若い人を見ると変わった世界に迷い込んだ感じがした。しかし実のところ、今日はまだ公卿の着る摺衣は見るわけにもゆかない。「摺れる衣」はいわゆる小忌衣(おみごろも)。新嘗祭・豊明節会の日、神膳に奉仕する君達の祭服で白布に草木や鳥などの模様が青摺りにしてある。
その夜、中宮が東宮権亮高階業遠をお召しになって香料を与えられた。割合大きめの筥一つに高く盛り上げて入れてあった。
夜は清涼殿で主上が舞姫を御覧になる「御前の試み」という行事があるので、中宮は清涼殿(実は一条院の中殿)にお出でになって
主上と共に舞姫を御覧になる。若宮がお生まれになったので、邪気をはらうために大声で米を撒く散米されるので、いつもとは大変違った感じがした。
 飽きてきたので暫く休み、様子次第でまた御前に参上しようと、局に下がって囲炉裏に当たっているところへ、左京大夫源明理の娘「小兵衛」蔵人藤原庶政(なかちか)の娘「小兵部」若宮誕生五日目の道長様主催の祝いの時に中宮様に食事を差し上げるために選ばれたお二人が来られ、
「場所が狭いのでもう一つはっきりと見ることが出来ないね」
 と言われるほどに、殿道長様が来られて、
「どうしてこんなことをして時をつぶしているのか。さあ一しょに行こう」
 と、責め立てられるので、気が進まないが御前に参った。そして、舞姫達はさぞや苦しいことであろうと見ていると、尾張守藤原中清が差し出した舞姫が、気分が悪くなったということで退出してしまった、私には、一連の行動が現実とは思えない夢を見ているように思われたことだ。「御前の試み」が終って中宮はお退りになった。
この五節の舞の頃は君達は舞姫達の控えの局の趣向ばかりを話している。
「簾の上辺外側に引廻す幕帽額(もこう)それぞれ趣向が変っていて隙間があり、そこから見えていた女たちの髪恰好や動作素振などまでまるで同じものはなく、一人一人見た目が違い趣があるものだ」 
 と聞くに堪えない話をしている。
 今年のように若宮が誕生という特別な年を除いて毎年、十一月の中の丑の日、五節の姫を主上が御覧になる「帳台の試み」の日に、舞姫達の気遣いは一通りでないものだのに、今年は特別であるから気になって早く見たいと思っていると、並んで舞姫が登場すると、
次第に胸がつまっていたわしい感じがする。
とは言うものの、特に私が贔屓する者は居ない。我こそこの舞姫を、とそれだけ自信をもって差出したことだからだろうか、目移りがして、優劣がはっきりと見分けられない。今の人の目にはちょっと見で物の差別も判定できるのだろうが(私のような古い人間では)ただ隠れることが出来ないこの昼日中、顔を隠す扇も持たさないで、若い男達、老いた男達が入り交じって舞姫を見ている中で、それ相当の身分柄、心用意だとはいっても、他人に負けまいと争う心地も、どんなにか気おくれがするだろうと、わけもなく見るにたえぬ思いがするのは偏屈なことだ。「今めかしき人」に対して自分の心をいう。


【五節という宮中の行事を観覧した式部は舞姫達が男達の眼に晒されるのを見て、可哀想だと嘆く。男達が覗き見して色々というのを聞く、覗き見は今も平安時代も変わらない】


 国司からは丹波守高階業遠が舞姫を差し出している。その童が登場した。青い白橡(しらつ3るばみ)というが殆ど青色の童装束の表着である汗袗(かざみ)を着て可愛らしく見ていたが、侍従宰相藤原実成が差し出した童は汗袗の赤色を着せて介添役の下仕に赤色と対照に青色を着ているのが憎いほど気が利いている。その下仕の童の容姿は、中の火取童(薫炉をもつ童)はあまり整っているとは思えない。右宰相中将藤原兼隆が差し出した童は、大変すらっとして髪が美しい。その中の一人が場慣れしていると見ている者が言っている。みんなは濃い紅の袙(あこめ)を着て、その上に思い思いの色の表着汗袗を羽織っている。汗袗は裾や袖口の裏布を表に返して縁のように縫ってある部分が五重であるのに、尾張守藤原中清が差し出した舞姫だけが、襲が表紫裏赤、葡萄染を着せている。目立つがかえって深みをおび趣向ある様で、その配色光沢などが優れて見えた。下仕の中に容貌が優れた者が居てその者が御覧のために扇を置こうとしたので六位の蔵人が寄って受け取ろうとしたときに、自分から気をきかし扇を投げたのはよく気がつくとは思ったが、女にはあるまじき行動だと思うが、もし私があの娘の立場であれば扇を投げようか取りに来るのを待つか、まごついて歩けなくなったであろう。
 本来私はこうまで人中に立出でようなどと思いもしなかったことだ。だが、目には見えないが、呆れてしまうのは心というものである。だから、これからさき私は厚かましくなって、宮仕生活にすっかり馴れきってしまい、直接男の中に顔をさらすのも平気になるようになる、とこれから先の自分を夢を見るように思いつづけ、あってはならない男関係なんかを考えたりして、眼前に繰り広げられている五節の舞姫の行事なんかに目がいかなくなってしまった。 

* ここで、式部やその時代の人には分かり切ったことであるが、一条天皇を巡る后妃を整理しておく。
一条天皇十一才の時に藤原定子(ていし)十五才入内。990年、父道隆関白左大臣。
子内親王、敦康親王を出産。権勢を誇った兄の隆家が失脚すると、宮中を退く、が再び呼ばれて、一〇〇〇年定子二十五才皇后宮となる。が十二月難産で死亡。清少納言が詳しいく定子のことは書いている。
 九九六年一条天皇十七歳の時に二十三歳の藤原義子が入内する。藤原兼家の姪に当たるから道長とは従兄妹になる。この義子にかって仕えていたのが。「左京馬」と言う女房である。
 一〇〇〇年藤原彰子が入内する。一条天皇に中宮と皇后が二人存在する。彰子は十三才で中宮になり一条天皇は二十一歳である。
その他に藤原元子、藤原尊子がいた。