私の読む「紫式部日記」
私の読む「紫式部日記」
【日記の書き始めは、紫式部が勤めに上がっている一条天皇の中宮(皇后)彰子(しょうし)が出産で父親の藤原道長の屋敷に里帰りをして、出産の日間近、と言うところから始まっている】
秋の季節が深まると共に、藤原道長殿のお屋敷である土御門殿は、風情が深まって表現する言葉が分からないほど趣が出てくる。池を巡る木々の梢、庭園に水を引く流れの畔の草、めいめいそれぞれに自分の色を出し尽くし、空全体が青く澄み渡って艶っぽく広がっている。そんな雰囲気に包まれた屋敷の中で、絶えることなく聞こえてくるのは僧了が唱えるお経の声明である。やっと暑かった夏が終わりになって涼しい風が吹く気配があり、庭に流れる水路の水の音と声明の聲とが混じり合って夜通し聞こえている。
一条天皇の中宮(皇后)彰子は、御前近くに仕える女房達のとりとめもない話を聞きながら、身重の身であるのでさぞかしお疲れのことと思うが、そのようなことは一つも顔に出さずに居られる。貴人としては今更言うことではないが、色々と気に沿わぬ事の多いこの世の中、こういうお方の御前にお仕えすることが出来るようになれば、この世の辛さに悩まされている私は、現実にその境遇になって悩みは飛んでしまい忘我の心境にひたりながら、同時に一方でこんな事で好いのだろうかと反省するのである。
まだ夜明けにならない時刻、月は雲の中に姿を隠し、地上の木々の下を暗くしている。そのような早朝に、
「そろそろ格子の上を揚げましょうか」
「まだ係りの者が参っておりませんが」
「それなら、縫い物や、装束の支度をする女蔵人を呼びなさい」
とお互いに言い合っているうちに、後夜(午前四時頃)の読経を知らせる鐘が鳴り響く、そうして大がかりな加持祈祷である『五壇の御修法』が定刻に始まった。我も我もと競い合って唱える伴僧の声、遠く近くに聞こえて圧倒されるほどの音量が荘厳に有り難く感じるのであった。
山城の国岩倉にある「観音院」権僧正、勝算、が東の館から二十人の伴僧を連れて館をつなぐ橋を加持祈祷に向かうために渡られる足音が屋敷内に響いてくるのが、いつもとは違って荘厳に聞こえてくる。権僧正は時の僧官の最高位に次ぐ位の名僧である。
中夜の勤めを終えた「法性寺」の座主である大僧都慶円は、僧侶の休息所に当てられた、馬場に面した館へ、「浄土寺」の僧都明教は当てられた休息所の文殿へそれぞれきらびやかな僧衣を着て、訳がありそうな造りの唐橋を渡って、木々の間を縫ってそれぞれ帰って行かれる。その姿をかいま見て今まで勧業されていた修法の荘厳さが伺われる。そこかしこに居座る律師に次ぐ僧位である「阿闍梨」達も前を過ぎる僧都に深々と頭を垂れる。
やがて女官達が集まり出すと、夜はすっかりと明けた。
渡殿の戸口の部屋が私に与えられた部屋でありますが、その部屋は寝殿から東の対へ渡る廊下の東の戸口に近いところにあります。そこから外を見ると、かすかに朝霧が立ちこめ、その露がまだ落ちる前から殿の道長様は庭を歩かれて、供の者を呼び寄せて庭の池に注ぐ水路に溜まった落ち葉や塵を取り除かされ水の流れを良くされた。渡られる池の橋の南側に咲いている満開の女郎花を一枝折って、私の几帳の上から差し入れされる。そのお姿がとても素敵であるのに反して自分の朝起きたままの乱れた姿が恥ずかしくてどうしようと思っているのに
「ほれこのように見事に咲いている女郎花を見て、「女郎花」の歌が遅くなってはいけませんね」
と仰るのに慌てて硯の側により
女郎花さかりの色を見るからに
露の分きける身こそ知らるれ
(女郎花が朝露の恵みを花一杯に受けてこのように咲き誇っているのに較べ、朝露はこの私に分け隔てをして恵みを与えてくれない、我が身の不運を思い知らされます)
「ああ、早速く、よく出来た歌だね」
とほほえまれ、硯をと言われる。
白露は分きてもおかじ女郎花
心からにや色の染むらむ
(白露が分け隔てをして降りているのではないでしょう、女郎花自身の心の持ちようで美しい色に染まっているのですよ)
【一条天皇の中宮(皇后)彰子はお産のために里である道長の屋敷土御門邸に帰っている、紫式部もそれに伴って土御門邸に一部屋頂いて勤めている。無事に出産できるよう加持祈祷が行われていて屋敷内は騒々しい。道長が式部の部屋を覗きに来る。二人の仲が怪しい】
しっとりとして落ちついた気配の夕暮れ、宰相の君と言われる同僚の女房、藤原道綱の娘豊子と二人で色々と話をしていると、私達がお仕えしている殿の道長様の長男である正三位・東宮権大夫である頼道(よりみち)様が、入り口の簾を引き上げて肩に掛け首を中に入れて座っておられる。頼道様は十七歳、お年の割にはおとなしくて奥ゆかしい感じがする。その彼が、
「女の人という者はなんと言っても気だてが大事ですね、でもそれを備えた方はあまりいないようです。」
などと、世の中のことをしみじみとお話になるその様子は、まだ幼い考えしかお持ちでないとみんなが噂するのは、見当違いな気がする。あまり砕けた話にならないところで打ち切られ、
「女郎花多かる野辺に宿りせばあやなくあだの名をや立ちなむ」(女郎花が沢山咲いている野原で泊まったならば、浮気したことになるだろうか)
と古今集(二二九)の小野美材(よしき)の、女達と気を許して打ち解けて話をしていてあらぬ噂を立てられては大変、という歌を口ずさみながら去って行かれた。それは物語に出てくる理想の男性像のようであった。
こんな事でも後になって思い出されることもあり、又反面、その時は大変面白く感じたことでも過ぎてしまえば忘れてしまうこともある。どうしてであろうか。
播磨の守藤原有国様が碁に負けた罰で勝者を招いて宴会をされた日、私は一寸お暇を頂いて里帰りをした。後日その負け碁をなさった時に使われた碁盤を見せて貰った。華形の装飾のある四本の足。側面に訳がありそうな州浜に木石や花鳥などを飾り付けた模様が描かれていた。そこに次のような歌が詠われていた
紀の国のしららの濱にひろふてふ
この石こそはいはほともなれ
(紀の国の白浜で拾ったこの石こそ将来は巌のような大きな物になるのだ)
その席に扇が置かれていたが、その頃は誰もが扇を持っているのが常であった。
八月廿余日
八月の二十日過ぎからは、三位以上の上達部(かんたちめ)、清涼殿に昇殿を許された五位、六位の一部の人たちである殿上人(でんじょうびと)達のなかでこの屋の主人である道長様に近いお方は皆屋敷内にお泊まりになる。あるいは渡り廊下の橋の上や、簀の子の所に皆さん横になられてうたた寝されているか、または楽器を取り出して弾いておられる。琴や笛の音に混じって、あまりうまくない若い人たちの経を読む声、最近のはやり歌である今様の歌や、宮中でない気楽さから勝手に歌うのが面白い。
【日記の書き始めは、紫式部が勤めに上がっている一条天皇の中宮(皇后)彰子(しょうし)が出産で父親の藤原道長の屋敷に里帰りをして、出産の日間近、と言うところから始まっている】
秋の季節が深まると共に、藤原道長殿のお屋敷である土御門殿は、風情が深まって表現する言葉が分からないほど趣が出てくる。池を巡る木々の梢、庭園に水を引く流れの畔の草、めいめいそれぞれに自分の色を出し尽くし、空全体が青く澄み渡って艶っぽく広がっている。そんな雰囲気に包まれた屋敷の中で、絶えることなく聞こえてくるのは僧了が唱えるお経の声明である。やっと暑かった夏が終わりになって涼しい風が吹く気配があり、庭に流れる水路の水の音と声明の聲とが混じり合って夜通し聞こえている。
一条天皇の中宮(皇后)彰子は、御前近くに仕える女房達のとりとめもない話を聞きながら、身重の身であるのでさぞかしお疲れのことと思うが、そのようなことは一つも顔に出さずに居られる。貴人としては今更言うことではないが、色々と気に沿わぬ事の多いこの世の中、こういうお方の御前にお仕えすることが出来るようになれば、この世の辛さに悩まされている私は、現実にその境遇になって悩みは飛んでしまい忘我の心境にひたりながら、同時に一方でこんな事で好いのだろうかと反省するのである。
まだ夜明けにならない時刻、月は雲の中に姿を隠し、地上の木々の下を暗くしている。そのような早朝に、
「そろそろ格子の上を揚げましょうか」
「まだ係りの者が参っておりませんが」
「それなら、縫い物や、装束の支度をする女蔵人を呼びなさい」
とお互いに言い合っているうちに、後夜(午前四時頃)の読経を知らせる鐘が鳴り響く、そうして大がかりな加持祈祷である『五壇の御修法』が定刻に始まった。我も我もと競い合って唱える伴僧の声、遠く近くに聞こえて圧倒されるほどの音量が荘厳に有り難く感じるのであった。
山城の国岩倉にある「観音院」権僧正、勝算、が東の館から二十人の伴僧を連れて館をつなぐ橋を加持祈祷に向かうために渡られる足音が屋敷内に響いてくるのが、いつもとは違って荘厳に聞こえてくる。権僧正は時の僧官の最高位に次ぐ位の名僧である。
中夜の勤めを終えた「法性寺」の座主である大僧都慶円は、僧侶の休息所に当てられた、馬場に面した館へ、「浄土寺」の僧都明教は当てられた休息所の文殿へそれぞれきらびやかな僧衣を着て、訳がありそうな造りの唐橋を渡って、木々の間を縫ってそれぞれ帰って行かれる。その姿をかいま見て今まで勧業されていた修法の荘厳さが伺われる。そこかしこに居座る律師に次ぐ僧位である「阿闍梨」達も前を過ぎる僧都に深々と頭を垂れる。
やがて女官達が集まり出すと、夜はすっかりと明けた。
渡殿の戸口の部屋が私に与えられた部屋でありますが、その部屋は寝殿から東の対へ渡る廊下の東の戸口に近いところにあります。そこから外を見ると、かすかに朝霧が立ちこめ、その露がまだ落ちる前から殿の道長様は庭を歩かれて、供の者を呼び寄せて庭の池に注ぐ水路に溜まった落ち葉や塵を取り除かされ水の流れを良くされた。渡られる池の橋の南側に咲いている満開の女郎花を一枝折って、私の几帳の上から差し入れされる。そのお姿がとても素敵であるのに反して自分の朝起きたままの乱れた姿が恥ずかしくてどうしようと思っているのに
「ほれこのように見事に咲いている女郎花を見て、「女郎花」の歌が遅くなってはいけませんね」
と仰るのに慌てて硯の側により
女郎花さかりの色を見るからに
露の分きける身こそ知らるれ
(女郎花が朝露の恵みを花一杯に受けてこのように咲き誇っているのに較べ、朝露はこの私に分け隔てをして恵みを与えてくれない、我が身の不運を思い知らされます)
「ああ、早速く、よく出来た歌だね」
とほほえまれ、硯をと言われる。
白露は分きてもおかじ女郎花
心からにや色の染むらむ
(白露が分け隔てをして降りているのではないでしょう、女郎花自身の心の持ちようで美しい色に染まっているのですよ)
【一条天皇の中宮(皇后)彰子はお産のために里である道長の屋敷土御門邸に帰っている、紫式部もそれに伴って土御門邸に一部屋頂いて勤めている。無事に出産できるよう加持祈祷が行われていて屋敷内は騒々しい。道長が式部の部屋を覗きに来る。二人の仲が怪しい】
しっとりとして落ちついた気配の夕暮れ、宰相の君と言われる同僚の女房、藤原道綱の娘豊子と二人で色々と話をしていると、私達がお仕えしている殿の道長様の長男である正三位・東宮権大夫である頼道(よりみち)様が、入り口の簾を引き上げて肩に掛け首を中に入れて座っておられる。頼道様は十七歳、お年の割にはおとなしくて奥ゆかしい感じがする。その彼が、
「女の人という者はなんと言っても気だてが大事ですね、でもそれを備えた方はあまりいないようです。」
などと、世の中のことをしみじみとお話になるその様子は、まだ幼い考えしかお持ちでないとみんなが噂するのは、見当違いな気がする。あまり砕けた話にならないところで打ち切られ、
「女郎花多かる野辺に宿りせばあやなくあだの名をや立ちなむ」(女郎花が沢山咲いている野原で泊まったならば、浮気したことになるだろうか)
と古今集(二二九)の小野美材(よしき)の、女達と気を許して打ち解けて話をしていてあらぬ噂を立てられては大変、という歌を口ずさみながら去って行かれた。それは物語に出てくる理想の男性像のようであった。
こんな事でも後になって思い出されることもあり、又反面、その時は大変面白く感じたことでも過ぎてしまえば忘れてしまうこともある。どうしてであろうか。
播磨の守藤原有国様が碁に負けた罰で勝者を招いて宴会をされた日、私は一寸お暇を頂いて里帰りをした。後日その負け碁をなさった時に使われた碁盤を見せて貰った。華形の装飾のある四本の足。側面に訳がありそうな州浜に木石や花鳥などを飾り付けた模様が描かれていた。そこに次のような歌が詠われていた
紀の国のしららの濱にひろふてふ
この石こそはいはほともなれ
(紀の国の白浜で拾ったこの石こそ将来は巌のような大きな物になるのだ)
その席に扇が置かれていたが、その頃は誰もが扇を持っているのが常であった。
八月廿余日
八月の二十日過ぎからは、三位以上の上達部(かんたちめ)、清涼殿に昇殿を許された五位、六位の一部の人たちである殿上人(でんじょうびと)達のなかでこの屋の主人である道長様に近いお方は皆屋敷内にお泊まりになる。あるいは渡り廊下の橋の上や、簀の子の所に皆さん横になられてうたた寝されているか、または楽器を取り出して弾いておられる。琴や笛の音に混じって、あまりうまくない若い人たちの経を読む声、最近のはやり歌である今様の歌や、宮中でない気楽さから勝手に歌うのが面白い。
作品名:私の読む「紫式部日記」 作家名:陽高慈雨