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私の読む「枕草子」 279段ー最終段

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「人の心くらい呆れ果てたものはない」
と、世間が呆れている時分に、七月十五日
孟蘭盆の供養をするのを急いでいるのを見て、藤原道綱の長男で歌人の天王寺別当、寛弘元年(一〇〇四)十二月阿闍梨となった、道命(どうめい)阿闍梨(あざり)

わたつ海に親おし入れてこの主の
     盆する見るぞはれなりける

  と歌を詠んだのは意味が深い。

【三〇八】
小原の殿の母親が東山の普門寺で八講を催した。そのことを聞いて翌日小野殿に人々が多く集まって音楽をしたり詩を作ったりした時に、文を書かれたことに、

 薪こることは昨日に盡(つ)きにしを
いざ斧の柄はここに朽(く)たさん
(法華八講は昨日で終りましたものを、さあ今からこの小野で斧の柄も朽ちる程、時間を忘れて遊びましよう)

と詠まれたこと大変に目出度いことである。
ここのとこは聞き書きである。

【三〇九】
また、在原業平中将の許に、母親の桓武天皇の皇女伊登内親王(阿保親王の妃)が、

老いぬればさらぬ別れのありといへば
   いよいよ見まくほしき君かな

と言う文を送られた。大変に哀れを誘う趣である。
封を開けて見た時の業平の気持が思いやられる。

【三一〇】
これはと思う歌などを草子に書いて置いていたところ、とるに足りない召使などがふと口ずさんだのは、大層がっかりするものだ。

【三一一】
相当な男子を召使の女などがほめて、
「ひどく魅力的なお方です」
などと言うので、さっそく当の男性に対し軽蔑の念がわくというものだ。悪く言われる
方がかえってましだ。
下衆(げす)に褒められるのは女にしたって甚だよくない。
また、褒めるうちに、うっかりととんでもないことを言ってしまうとは、まあ。
【三一二】
左右の衛門の尉(じょう)を判官(ほういかん)と名付けて非常に恐ろしく大した者に思っている事よ。
夜歩きして細殿の女房の局に寝ているのは実に見苦しいことだ。布の白袴を几帳に脱いで架けて、表着の長くて仰山なのを折ってかけたのは大層不似合だ。太刀の尻に引っ掛けてうろうろするのは、それでもまあいい。青色の麹塵の袍をいつも着ていたら、本当に可笑しいことである。
「見し有明ぞ」
 誰が言ったのだ。


前回今回にわたって清少納言は船旅をしたこと、海女の潜るのを見たこと、など、子細に書いているが、いつ何処へ旅をしたのか事実が分からない。資料お持ちの方、教えてください。屏風絵なんかを見て想像で書いたのでしょうか。

 孟蘭盆は梵語、救倒懸と訳す。地獄に落ちて倒懸(さかさ釣り)の苦を受ける者を救う法会。七月十五日行う。

道命(どうみょう)
 天延2年(974年)ー 寛仁4年7月4日(1020年7月26日は、平安時代中期の僧・歌人。父は藤原道綱。母は源近広の娘。阿闍梨、天王寺別当。中古三十六歌仙の一人。
 若くして出家し、天台座主・良源の弟子となった。長和5年(1016年)天王寺別当。
 花山上皇と親しく、上皇の死を悼む歌が残されている。『宇治拾遺物語』などには、和泉式部と親しかったという説話がある。『後拾遺和歌集』(16首)以下の勅撰和歌集に57首が入集。家集に『道命阿闍梨集』がある。読経の声に優れていたという。
(ウイキペディア)

古今和歌集900
 業平朝臣の母の内親王、長岡に住み侍りける時に、業平、宮仕へすとて、時々もえまかり訪はず侍りければ、師走ばかりに母の内親王のもとより、とみの事とて文をもてまうで来たり。開けて見れば、言葉はなくてありける歌

 老いぬればさらぬ別れのありといへば
   いよいよ見まくほしき君かな
( 在原業平の母の伊都内親王が長岡に住 んでおりました時に、業平が宮仕えが忙しいということで、そう何度も訪ねて行くことができないでおりましたので、十二月ごろに母の内親王の所から、急用の事といって手紙を持ってやって来た。開けてみると、手紙の言葉はなくて、書いてあった歌

 年老いると、誰もが避けられない別れ、死別があるということなので、ますます逢いたく思う、あなたですよ)


【三一三】
大納言伊周殿が参殿なされて、漢籍の御進講をされるうちに(伊周このとき二十一歳)
いつもの例で夜深厚になった。主上・中宮の御前に伺候している人たちが、一人二人と退席して、屏風や几帳の後ろに隠れて寝てしまったので、自分一人だけが眠気を押して控えていると、「丑四つ」と言う声がした。
「もう夜が明けた」
 と独り言に言うと、大納言、
「今時分もうおやすみなさいますな」
と言われるので、今更寝ようとは思ってもいないので、しまった、変なことを言ってしまった、と思うが、他に女房がいるならばうまく紛れて寝もしようが、なにしろ一人なのでどうしようもない。

主上(十五歳)は、柱に寄りかかってうたた寝されるのを、
「あれ御覧なさいませ。もう夜が明けましたのに、ああしておやすみ遊ばすとは」
と大納言は中宮に申し上げると、
「本当に」
 中宮におかれてもそれをお笑いになるのも
主上はそれもお気づきにならない、その時長女の使っている童女が昼間鶏を捕まえてきて、
「明日里に持って帰ろう」
 と、言って隠していたのが、どうしたことか犬が見付けて追いかけたので、鶏は廊下の長押の上にある棚に飛び乗って、大声で犬を威嚇して鳴き叫ぶ。その騒動で女房達はみんな目覚めてしまった。

 主上も驚かれて、
「その鶏どうしたのだ」
 と言われるのに大納言は、
「鶏人頑唱 声驚明王眠 鳧鐘夜臨 響徹暗天聴」
(鶏人頑唱 けいじんあかつきにとなふ
声驚明王眠 こえめいおうのねむりをおどろかす
鳧鐘夜臨 ふしょうよるなる
響徹暗天聴 ひびきあんてんのききにとおる)
(夜明けがたにとさかをかぶった官人が暁の時刻を知らせ、その声が聡明な王の眠りをさます。夜ふけには漏刻を知らせる鐘が鳴って、その響きが暗い夜空を伝っで、人々の耳に徹して聞える)(和漢朗詠集524)
という漏刻策、都良香(みやこのよしか)の詩を高らかに吟誦された、その素晴らしさ面白さに、明王ならぬ私の眠かった目も、大層大きく開いてしまった。
「実にうまく折に合った文句だな」
主上も中宮も面白がって言われる。何といってもこういうことは素敵である。

翌日の夜は、中宮は夜の御殿に参上された。
清涼殿内主上御寝の間である。
夜中になり廊下に出て私が人を呼ぶと、
「退出ですか。さあ送って行こう」
と伊周大納言が言われるので、裳と唐衣を脱いで屏風に架けて出て行くと、月がとても美しく、伊周の直衣がとても白く見えるのに指貫を履くのに足を出さず、袋の口をくくったようにして踏み歩き、私の袖を抑えて「転ぶな」って言われて歩き出される、
 佳人尽飾於晨粧。魏宮鐘動。
 遊子猶行於残月。函谷鶏鳴。
(佳人(かじん)尽(ことごと)く晨粧(しんしやう)を飾(かざ)りて、魏宮(ぎきゆう)に鐘(かね)動(うご)く、遊子(いうし)なほ残月(ざんげつ)に行(ゆ)きて函谷(かんこく)に鶏(にはとり)鳴(な)く)【一三六】参照
( 倭漢朗詠集(416)、暁賦 賈島(賈嵩の誤)
 と誦される、とてもいいお声である。お褒めすると、
「こんな事までお賞めになる」