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私の読む「枕草子」 279段ー最終段

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五大尊の御修法
御齋会(ごさいえ)。正月八日より七日間、大極殿で国家護持のために金光明最勝王経を講ずる法会。

蔵人で式部丞を兼ねた者が、正月七日白馬の節会の日に大路を練り歩く姿。その日は、
靭負の佐(ゆげいのすけ)左右衛門佐の、白地の絹に模様を摺り出した衣、摺衣(すりぎぬ)を着る。絹は「やうす(瑩す)」絹を貝で磨りみがき光沢を出してある。
尊勝王(そんじょうおう)の御修法(みずほう)。仏頂尊勝陀羅尼経により息災滅罪を祈る法。
季の御読経。春秋二季二月と八月に宮中で大般若経を読誦する法会。
熾盛光(しじょうこう)の御読経。大聖妙吉祥菩薩説除災教金輸法、一名熾盛光仏頂軌により鎮護国家を祈る天台の大法。

【二九六】
雷がひどくなるときに、清涼殿・紫宸殿の前に臨時に警固の陣が布かれるときは恐ろしい。左右近衛の大将・中将・少将が格子の外に侍するのは大層いたいたしい。
鳴り止んだ時、大将が命をくだして「下り
よ」と言われる。

【二九七】
坤元録(こんげんろく)の屏風こそ興味を引くものである。坤元録は中国の地誌の名で、
そこに書かれてある漢書に見える事蹟を描いた屏風は、雄々しく描かれている。
正月より十二月までの年中行事を描いた屏風も面白い。

【二九八】
節分は・立夏・立秋・立冬に移る折の称で、立夏節分の方違をして夜遅くに局に下がる。
寒いことはいいようもなく、あごなども落ちてしまいそうなのをやっとの思いで戻って、火桶を引き寄せると、炭は赤々と黒くなったところが無く十分であるのを、細かな灰の中より取りだし出来たときは本当に嬉しい。

 また、話に夢中になって火が消えてしまっているのも知らずにいると、別の人が来て、炭をついでおこすのは恥ずかしい。しかし、周りに置いて中に火を残していたのはよろしい。火を四方に分けて中に炭をおき、その頂に赤い炭火を置く、どうもうっとうしい。

【二九九】 
雪が高くに積もった日、いつもの通りに格子を引き上げて、炭櫃(すびつ)に火をおこして女房達が集まって暖を取りながら、色々と話しをしていると、中宮が、
「少納言よ、香炉峰の雪はどうかな」
 と、言われたので、格子を上げさせて、御簾を高く上げて中宮の目に雪の景色が見えるようにすると、お笑いになった。女房達も、
「そういうことは私達も知っているし、歌などにも歌うけれど、全然思いつきませんでしたよ。あなたはやはりこの宮の女房として相当な方なのでしょう」
という。


近衛の大将が先払いをしているさま。
 前駆は随身が弓箭を帯して奉仕し、摂関十人、大臣・大将八人、納言・参議六人等と規定されていた。

 孔雀経は仏母大孔雀明王経の略。三巻。その読経は一頭四臂の孔雀に駕した孔雀明王を本尊として三・四月及ぴ九月に宮中で行われる。 

 五大尊の御修法 。五壇の御修法ともいい、
不動明玉(中央壇)・隆三世明王(東壇)・大威徳明王(西壇)・軍茶利夜叉明王(南壇)・金剛夜叉明王(北壇)の五大尊を五壇に請じて行う修法。(写真はネットから)

白氏文集、十六「香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁 云々」
(香炉峰下 新たに山居を卜し草堂初めて成り偶東壁に題す)詩、
日高睡足猶慵起
小閤重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香鑪峯雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷可獨在長安

日高く睡り足るも猶起くるに慵(ものう)し
小閣に衾を重ねて寒さを怕(おそ)れず
遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聽き
香鑪峯の雪は簾を撥(かかげ)て看(み)る
匡廬(きょうろ)は便(すなわ)ち是れ名を逃のがるるの地
司馬は仍(な)お老を送るの官たり
心泰(やす)く身も寧(やす)らかなるは是れ帰する処(ところ)
故郷何ぞ独り長安にのみ在らんや
(もう日はすっかり高く、十分に眠ったというのに、なお起きるのがかったるい。小さな部屋で布団を重ねて寝ているので寒さの心配は無い。遺愛寺の鐘は枕から頭を上げて聴き入り、香鑪峯の雪は簾を引き上げて眺める。
ここ廬山は名利や名誉を求めず引きこもるには、ちょうどいい。司馬という役職も、老後の隠居生活のためにはうってつけだ。心が落ち着き、体も安らかなら、それこそ帰るべき場所なのだ。故郷はなにも長安だけというわけではない)
香炉峰は江西省庸山の一峰。
(頭注、ネットから)


 陰陽師の許にいる小童こそ、大変に物事をよく知っている。祓いなどに出ると主人の陰陽師が節を付けて祭文を読むと、普通の人なら当たり前のように聞いているが小童はつつうと立ち走って
「酒や水を注ぎかけよ」
 と言われもしないのに、かけて回る様子が、段取りをよく知っていて主人に物を言わせないのが小賢しい。
そういう者がいるとよい、そうしたらぜひ使おうと思うことだ。

【三〇一】

三月に、物忌みのために。ちょっとした知り合いの家に移ると、木々などもこれという程のこともない中に柳と称して、しかも普通のように優雅ではなく、葉が広く見えて不恰好なのを、
「柳の木ではないでしょう、他の木よ」
 と私が言うと、
「こういう柳もあるのです」
 と言うから、

 さかしらに柳の眉のひろごりて
春のおもてを伏する宿かな
(生意気にも柳の眉(葉)が広がって、春の面目を丸つぶしにする宿ですね)

 と言う風に表現してみた。

 そのころ同じようにまた同じ方違え物忌をした折りに、前のような所に出てきたので、
満たされるもののない感じが体中に溢れてきて、たった今にも中宮のお側へ参上してしまいたい気がするその折も折、お便りがきたので本当に嬉しくて、すぐ開いて読む。浅い緑の和紙に宰相の君の筆で中宮のお言葉が書かれている、

いかにして過ぎにしかたを過ぐしけん
くらしわずらふ昨日今日かな
(いったいどのようにして過去の月日を送っ
たのでしょう、昨日今日はどう暮らしてよいか本当に困っています)

と、中宮の歌、宰相の私信として私に、
「今日という今日は千年の心地がしますのに、
明朝はぜひお早くお帰りを」
と、

くるるまの ちとせをすくす ここちして   まつはまことに ひさしかりけり

後拾遺集(667)の歌から書かれていた。

宰相の君がこう言われるだけでも興味ふかいはずだのに、ましてお言葉の趣きは、あだおろそかには考えられない気がするので

雲の上もくらしかねける春の日を
所がらともながめつるかな
(宮中でもお暮らしになりかねた春の日でご
ざいますのに、私はまあ田舎のせいでわびしいのかと思いました)

と中宮に、宰相の君には、
「今夜のうちにも例の少将になってしまうか
もしれません」
と使いの者に持たせて返し、よく暁に参内すると、中宮は、
「昨日のあなたの返歌は『くらしかねける』
の句が気に入らない。皆ひどく悪くいってました」
と、仰せられる、何となく淋しい気がした。
本当にその通りなのだ。

【三〇二】
某年十二月月廿四日、中宮御所における御仏名の
(十二月十九日より三日間、三世の諸仏の名号を唱えて六根の罪障を繊悔消滅する法会。清涼殿母屋の御帳台中に仁寿殿の本尊画像をかけ、廂に地獄絵の屏風を立てる)