私の読む「枕草子」 201段ー257段
この親は公卿などではなかったようだが、よくも中将などを子として持ったものだ。賢くて世のこと万事をよく知っていたので、この中将はまだ若いが大層評判がよく思慮のある人で、帝も大事な人に思っておられるのだった。
唐国の帝が、我が国の帝を何とかだましてこの国を討ち取ろうとしていつも知慧試しをし競争事をしてよこされた。つやつやと丸く削った二尺ほどの木があるのを、
「これの本と末とはどちらか」
と問題をつけて献上してきたところ、誰も判断がつかないので、帝は心痛されたところ、中将はお気の毒なあまり親に相談をしようと二親の許に帰って
「こんなことを言われて困っています」
と言うと、親は、
「流れの比較的に速い川にその棒を投げ込んで、方向を変えて先になって流れる方に末印を付けて、送り返しなさい」
と息子に教えた。
中将はそれを聞いて宮中に戻り、自分が考えついたように言って、
「試してみるか」
と人を誘って川岸に行き投げ入れて、先になって流れる方に末印を付けて送り返したところ、真実その通りだった。
(写真はネットから)
蟻通(ありどほし)の明神の言い伝えは、貫之集第十雑部に次の記述がある。
紀の国に下りてかへりのぼる道にて、俄に馬のしぬべくわづらふ所にて、道行人立とまりていふやう、是はこゝにいましつる神のし給ふならん、とし比やしろもなくしるしもなけれど、いとかしこくていましける神也、さきざきかやうにわづらふ人々ある所也、いのり申給へよ、といふにみてぐらもなければなにわざすべくもあらず、たゞ手をあらひてひざまづきて、神いますかりげもなきかたにむかひて、そもそも何の神とかいふといへば、ありとほしの神となん申、といひければ、
是を聞てよみて奉る歌也、そのけにや馬の心ちもやみにけり
かき曇りあやめもしらぬ大空に
ありとほしをば思ふべしやは
かきくもり あやめもしらぬ おほそらに ありとほしをは おもふへしやは
(異同資料句番号:00646 00830 未入力)
(日本古典文学大系補注、本歌ネットから)
また、二尺ほどの同じ長さの蛇を二匹送ってきて、
「これの雄か雌か区別してみよ」
と言って回答を迫られた。前回同様だれも見分けがつかない。中将は親の許に行って相談すると、
「二匹並べて尻尾の方に細いまっすくな若枝を差し寄せたときに、尾を振る方が雌とすればよい」
宮中に戻って言われた通りにすると、本当に一匹は動かず、もう一方は動かした。印を付けて送り返してやった。
しばらく日を経て、幾重にも曲がりくねった玉の中が通しで左右に口がある小さいのを送ってきて、
「これに緒を通してごらん、我が国では誰でも出来ますよ」
と申し出た。
「どんなにすぐれた名人でも役に立たぬ」
と、多数の公卿・殿上人をはじめ世間の人がみんな言うので、中将が三度親の許に行く
「また。こんなことを言って来ました」
と相談すると、親たちは、
「大きな蟻を捕まえて二匹ほど、腰に細い糸をつけて、その糸に少しだけ太い糸を繋ぎ、穴の口に蜜を塗ってみよ」
と言うので、帝の御前にそう申しあげて指示して蟻を入れたところ、蟻は蜜の香りを嗅いで本当に瞬く間に管の穴から出てきた。そこで、曲がりくねった管に緒を通したのを送り返した。数日して、はじめて、やはりどうも日本の国は賢明であったといって、その後はそうした事もしなくなった。
この中将を帝は感心な者とお思いになって、
「どのような恩賞をし、どんな官位を授けたらよかろうか」
と、仰せになるので、中将は、
「全然官も位も頂くまいと存じます。ただ父と母が行方知れずになっておりますのを探し出しまして、都に住まわせることをお許し下さいませ」
と、申し上げると帝は、
「至極造作もないことだ」
と、お許しになったので、このことを聞いた多くの人の親は大変に喜んだ。帝は中将を
上達部・大臣になされたそうである。
さて、その人が神になったのであろうか、その神前に詣でた人に夜現れて仰せられたことは。
「七曲にまがれる玉の緒をぬきて、ありとほしとは知らずやあるらん
(七曲りにくねった玉の紐を蟻が貫いたので、この社を蟻通明神と呼ぶとは世間は知らずにいるらしい)」
と、お告げになった。と言うことを誰かが語っていた。
【二四五】
一条院を、今の内裏(仮の内裏)という。
長保元年(九九九)六月十四日内裏炎上のため十六日ここに遷幸され、翌二年二月十二日、中宮は三条の宮からここに入御された。
主上がお住まいになる御殿は清涼殿で、中宮はその北方の御殿においでになる。
酉と東は渡殿になっていて、主上が北殿にお出向きになり、中宮が清涼殿に参上される通路としてある。前は中庭であるので前栽があり竹や木で粗く編んだ垣は大変趣がある。
二月廿日頃のうららかに陽が射しているのどかな日に、主上が笛をお吹きになる。御年廿一歳。
藤原高遠(たかとう)兵部卿、主上の御笛の師であられたが、この人と二本の笛で催馬楽の高砂という曲を繰り返し合奏なさる、それは何とも実に素晴らしいと言ったくらいでは表わせない。
主上の御笛についての御指南を申し上げられる、光栄なことである。
自分達女房が御簾の際に集まり出てこれを拝見する折は、「芹摘みし」(当時の諺。不満・不如意の意をあらわす)など思うことはすこしもない。
藤原輔尹(すけただ)は木工寮の第三等官、七位相当で蔵人になった。ひどく武骨で困るので、殿上人も女房達も彼のことを「あらはこそ」(露骨、無遠慮者)とあだ名を付けたのを歌にして、
「さうなしの主 尾張人の種にぞありける」
と歌う。
この歌を主上が御笛に吹かれるのを、高遠はお側に伺候して
「もっと高くお吹きなされませ。聞きつけることは出来ますまい」
と申し上げると、
「どうかな。それでも聞きつけてはいけまい」
と言われていつもただ内密に吹いておられるのに。今日はいつもとは違った方向からお出でになって、
「あいつは、居ないぞ。今日は思い切りに吹くぞ」
と主上は仰せられて高音で笛をお吹きになる。たいそう印象に残った。
藤原高遠。小野宮実頼の孫。正暦三年(九九二)から長徳二年(九九六)まで兵部卿。寛弘元年(一〇〇四)大幸大弐となり、長和二年(一〇一三)六十五歳で薨じた。
すけただ。未詳。一説に藤原輔尹か。もしそれならば尾張守興方の子で、中納言懐忠の養子。とすれば紫式部日記に
(十一月二十八日下酉の日、臨時の祭)のところに、本文では
御物忌みなれば、御社より丑の時にぞ帰りまゐれば、御神楽などもさまばかりなり。兼時が去年まではいとつきづきしげなりしを、こよなく衰へたる振る舞ひぞ、見知るまじき人の上なれど、あはれに思ひよそへらるること多くはべる。
(宮中は物忌みであるので使者は賀茂社より丑刻(午前二時)に帰還したので、帰還の神楽「還立ちの神楽」はほんの印ばかりであった。左近將監尾張兼時が去年舞われたときは素晴らしい舞で、さすが舞の名手と思ったのであるが、今年は歳を取られたせいか舞の勢いがなかった、関わりのない他人ではあるが我が身と引き比べられることが多々ある。)
作品名:私の読む「枕草子」 201段ー257段 作家名:陽高慈雨