私の読む「枕草子」 201段ー257段
車の中には、大層きれいだけれどまた田舎びて賎しい召使などを、絶えず呼び寄せ、見張りに出しなどしているのもあることだ。
【二三八】
細殿の女房の局に、不審な男が出入りするという噂が立った、よく聞いて考えてみると
それは私に関する噂であった。その男は昇殿が許されていない地下(ぢげ)の者とは言っても無難な人で、他人にとやかく言われそうな程度の人でもないのに、妙なことだと思うところへ、御前から文を持ってきて、使者は、
「すぐにご返事を希望されています」
と、仰せになったと言う。
何事かと文を開いてみると、ただ手だけに傘を握らせてその下方に
山の端明しあしたより
歌の第二、三句が書かれてあり、第一句は大傘の絵によって「三笠山」を示された、と読み取った。やはりちょつとしたことでも、中宮はただもうすばらしく感ぜられるお方なのに、きまり悪く厭なことはどうかしてお目にかけまいと思うのにこういう嘘ごとが生ずるのは、苦しいのであるが反面可笑しくて、
紙に雨をひどく降らせた絵をかき、下に、
ならぬ名の立ちにけるかな
と書いて、
「そうしたわけで、あの濡れ衣とはなったのでございましょう」
と、申し上げると、帝お付き女房の右近内侍らに話されてお笑いになったそうである。
この歌のやりとりは拾遺和歌集に、
十八雑賀、藤原義幸 藤原義孝
つらからば人に語らむ敷妙の
枕交はして一夜寝にきと
(1190)
同じ少将通ひはべりける所に、兵部卿致平の親王まかりて、「少将の君おはしたり」と言はせはべりけるを、後に聞きはべりて、かの親王のもとに遣はしける
あやしくもわが濡れ衣を着たるかな
三笠の山を人に借られて
(1191)
による。
【二三九】
中宮御殿が消失して中宮大進平生昌の三条の邸を皇后御所としていたころ、五月五日菖蒲の節の当日、宮殿の屋根や薬玉に用いる菖蒲を積む輿形のものが衛府から送られてきた。
若い人々や中宮の妹の御匣(みくしげ)殿達が、薬玉を脩子内親王(五歳)、敦康親王。一条天皇第一皇子。この年二歳。付けて差し上げる。変わった薬玉も他所から送られてきたが、「青ざし」という、青麦のもやしを煎って製する菓子も持ってきたので、薄紙を美しい硯箱の蓋の裏に敷いて、
「これをませ越しに献上いたします」
と、言って差し上げたところ、
みな人の花や蝶やといそぐ日も
わが心をば君ぞ知りける
(すべての人が権勢に赴く花やかな節日の今日、あなただけはさびしい私の心を知っているのですね)
硯箱の蓋に敷いた紙を引きちぎられて、
お書きになった。大変に目出度いことである。
この歌の発端になった、「ませ越し」は万葉集、十二
馬柵(うませ)越しに麦食む駒の
罵(の)らゆれど
猶し恋ふらく思(しぬ)ひかねつも
(3096)
古今和歌六帖 三
ませこしに むきはむこまの はるはるに
およはぬこひも われはするかな
「ませ」は間塞または馬塞の義とされ、竹や木で作った目の粗い垣。
【二四〇】
中宮の御乳母、大輔の命婦が日向に下るのに、中宮から下賜された幾つもの扇の中に、片面は日が大層うららかにさした田舎の建物を多く描き、もう片面は都の然るべき所の絵で、雨がひどく降っている、そこに
あかねさす日に向ひても思ひい出でよ
都は晴れぬながめすらんと
(日向に下ってもどうか思い出して下さい、
都では私が長雨に閉じこめられて心も晴れず
に暮しているでしょうとね)
御自筆でお書きになった。大変に感情がこもっている。
これ程慈愛深い主君をお残しして、とても遠方へなど行けるものではあるまい。
【二四一】
私が清水寺に参寵した時中宮からわざわざお使を遣されて下し賜わったのが、唐の紙かそれに摸した紙かのようなのに、万葉仮名の草書体で、
「山ちかき入相の鐘の声ごとに
恋ふる心の数は知るらん
(山に近い寺のタ暮の鐘の音を一つ一つ聞くにつけても、あなたを慕う私の心の程はお分りでしょうに)
この上もない長逗留ですね」
と言う文面をお書きになっていた。
お返事の用紙の失礼でないのも持って来な
かった旅先のこととて、法会の散華に用いる造花の紫色の蓮の花びらに書いてお返事をお送りした。
【二四二】
道中馬の乗り継ぎをする所、宿駅は。
梨原(なしはら)近江国栗太郡。
望月(もちづき)の駅(むまや)。信濃国佐久郡望月の牧附近。
山は駅(むまや)は、哀れな昔話を聞いていた所へまたも、哀れことがあったのでいよいよ重ねて哀れだ。
【二四三】
社(やしろ)は。
布留(ふる)の社。石上(いそのかみ)神宮。大和国山辺郡布留
生田の社。摂津国武庫郡。今神戸市。
旅の御社(みやしろ)。御旅所。祭礼の時神輿が仮に鎮座する所。
花ふちの社。陸前国宮城郡花淵浜の鼻節神社という。
杉の御社(みやしろ)は、大和国磯城郡の三輪神社。霊験があるかと有り難い。
古今集、十八雑下に
我が庵は三輪の山もと恋しくは
とぷらひ来ませ杉立てる門
(私の住まいは三輪の山の麓にあります。恋しく思ったならば、訪ねてきて下さい、目印に杉が立っているこの門口へ)(982)
貫之集に
いにしへの ことならすして みわのやま
こゆるしるしは すきにそありける
(異同資料句番号:00111・ 00226 未入力 (xxx))
ことのままの明神。近江国小笠郡日坂町。「ことのまま」は「任事」即ち、思いのまま、所願成就の意、大変に頼もしい。
古今集、十九誹詣歌に
ねぎ言をさのみ聞きけむ社こそ
果てはなげきの森となるらめ
(お参りに来た人の願いの言葉をそれほど多く聞いてきた神社こそ、しまいには人々の歎きが集まって、歎きの木の森になってしまうことだろう)(1055)
作者は讃岐守であった阿倍安倍清行の娘
というように言われるのか、と思うと愛おしい。
【二四四】
蟻通(ありどほし)の明神、和泉国泉南郡。 紀貫之が馬が病に罹った時に、歌を詠んで奉ったと言う話がある。面白い話である。
この蟻通(ありどほし)と名を付けたのは
事実あったことだろうか。
昔、ある帝が、若者のみを大事にして、若者が四十歳になれば、必要がないと処分をされたので、歳に近い人々は田舎に隠れてしまい、さらに都には相当する者が居なくなったのであるが、何々の中将という人が非常に時めいた人である上に心のしっかりした人物で、七十近い両親が健在で、こう四十歳でさえ禁制するのに、まして恐ろしいと親達は恐れ騒いだが、中将は極めて孝心深い人で親と離れては住めない、一日に一度は見ないですまされまい、と内密に自分の住まいの庭を掘り下げて家を建てて、密かに親を住まわせて世話をする。
他人にも朝廷にも失踪したと報告してある。
何でまあこう厳しいのか。家に籠もっている人など知らぬふりをしておられればよいものを。厭な世の中になったものだ。
作品名:私の読む「枕草子」 201段ー257段 作家名:陽高慈雨