私の読む「枕草子」 201段ー257段
万葉集(1465)藤原夫人の歌
「ほととぎすいたくな鳴きそ汝が声を
さつきの玉にあへぬくまでに
(時鳥よ、ひどくは鳴くな、おまえの声を五月の玉に、交ぜて緒に通す日まで)」
私は、仲忠の生い立ちを悪くいう人と、時鳥が鴬に劣るという人は実に癩で憎らしく思っている。
【注】宇津保物語。清原俊蔭は王族出の秀才で若年にして遣唐使一行に加わり渡唐の途上,波斯(はし)国に漂着,阿修羅に出会い秘曲と霊琴を授けられて帰国し,それを娘に伝授する。俊蔭の死後,家は零落,娘は藤原兼雅との間に設けた仲忠を伴って山中に入り,大樹の洞で雨露をしのぎ仲忠の孝養とそれに感じた猿の援助によって命をつなぐ。
【二二七】
陰暦八月の末頃、太秦(うずまさ)にある広隆寺に参詣しようと出かけると、穂先に実が結んだ田を、大勢の人がわいわい騒いで動いているのは、稲刈りであった。
古今集、四秋上(172)
「昨日こそ早苗とりしかいつの間に稲葉そよぎて秋風の吹く(つい昨日苗代の苗をとって田植えをしたばかりと思っていたのに、いつの間に稲葉をそよがせて秋風が吹くようになったのだろう)」
本当に、つい先頃賀茂に詣でる折に見た田圃が、もう収穫のときになってしまっているのだ。前回の田植えは女達、今回は男ども。真っ赤に熟れた稲の穂先根本だけはまだ青いのを掴んで刈り取る。何か分らないが道具を使って根元を易々と切る様子など、いかにもして見たいような様子だ。どうしてそのようにするのだろう。穂を揃えて綺麗に並べているのも面白い光景である。田守の仮屋。番小屋の様子も興味がある。
【二二八】
九月廿日過ぎに、長谷寺に参詣してほんのちょつとした小家に泊まったところ、大層疲れて、ただひたすら寝込んでしまった。
夜更けに月の光が窓から指してきて、人が幾人も寝ていたその着物の上に、白々と映りなどしていたのは、ひどくしみじみとした情景であった。そのような折こそ人は歌を詠むものだ。
【二二九】
清水寺に詣でようと坂の口を登る時分に、
柴を焚く香がひどく身にしむのはいいものだ。
【二三〇】
五月五日の節日に飾った菖蒲で秋や冬の過ぎる時分まで残っているのが、ひどく白っぽくなり、枯れて見苦しい、それを引き折ってとり上げたところ。五月のおりの香がそのまま残っていてあたりに漂った、それは実にいい。
【二三一】
十分たきしめた。薫物は香炉でたき、伏籠
(ふせご)の上に衣服をかぶせてしみこませる。それを昨日、一昨日、今日と忘れていたのを、籠から取り上げると薫物の余香が残っていて、忘れなかったのよりもいい香りがした。(写真はネット 風俗博物館から)
【二三二】
月が大層明るい夜に川を渡ると、車を引く牛の歩みとともに水晶が割れるように水が散っていくのが綺麗で見事である。
【二三三】
大きいのがよいもの。
家。餌袋(ゑぶくろ)、弁当を入れる袋。
法師。くだもの、菓子、今いう水菓子。牛。松の木。硯の墨。
男が目の細いのは、女めいている、女性的だ。といって金属製の椀のように大きいのもおそろしくていげない。
火桶。酸漿(ほほづき)山吹の花。桜の花びら。
【二三四】
短いのがよいはずのもの。急ぎの仕立物をする時の糸。召使など下賎の女の髪の毛。
娘さんの声。口数の少ないことをいう。
室内用の燭台。丈の低いことを短いという。灯台は低い方があたりがあかるい。
【二三五】
人の家にふさわしいもの。
肱(ひじ)折りたる廊、廻廊のこと。
円座(わらふだ)藁。菅・蒲などで渦巻状に編み、腰の下に敷くもの。ヱンザとも。
三尺の几帳。身辺に置き自由に持ち運びができる。
背の少し高い童女。
よきはしたもの。きれいな「上臈に仕えるる下女」
従者の詰所。折敷。懸盤(かけばん)、膳の一種。中の盤、長台盤と小台盤の間の大きさの台。
おはらき、「はゝき」(帚木)
衝立障子(ついたちそうじ)
かき板、(裁板)・書き板(塗板)の両説がある。
装飾を綺麗にした餌袋。からかさ。棚厨子、厨子で棚になっているもの。
【二三六】
とあるところへ行く道中で、きれいな男(召使)のほっそりしたのが立文を持って急いでいくこそ、どこへいくのだろうと興味がわく。
また、きれいな童女などが、袙(あこめ)の真新しいのではなく柔らかくなったのを着て、つやの良い足駄の歯の間に泥が付いたままで履いて、白い紙に大きく包んだものや、もしくは、箱の蓋に草子などを入れて持って行くのこそ、実にまあ、呼び寄せて顔を見たいほどだ。
前を通るのを呼び止めても、答えもしないで行く者は、使っている人はどんな人か推量できる。
【二三七】
世間の色々のことよりも、貧相な牛車に粗末な服装で祭や儀式の見物をする人は、実にいらだたしく気に入らない。説経など聴聞する場合はそれでよい、本来滅罪のためにすることだから。
それにしてもなお、あまりひどい様子では
見苦しいのに、まして祭の行列などは見ずにすませるべきだ。
下簾もかけずに白い単衣の袖などをちょつと垂らしていることよ。
ただもう祭の当日のためと思って車の簾も新調し、これならそれ程見劣りはしまいと思って出かけたのに、それ以上の車など見つけた時は、いったい何のために出かけてきたのかと思われるものを。まして、どんな気持でそんな車で見物しているのだろう。
よい場所に車を立てようと(連れの者が)急がすので、朝早く出かけて待つ間。坐り込んだり立ち上ったり、なにしろ暑く、疲れるので弱りきっているうちに、祭の直会に参上した殿上人や蔵人所の衆や弁官や少納言などが七台八台と牛車を連ねて斎院御所の方から走らせてくるのを見ると、いよいよお渡りだと、ほっとして嬉しいものだ。
貴人が物見のために作る桟敷、その前に牛車を立てて見るのも大層おもしろい。殿上人が桟敷,何か言ってよこしたり、身分ある人の前駆の人々、乾飯を水や湯に浸した「水飯(すいはん)」を食べようと、馬を桟敷の柱に引き寄せてつなぐ、人望がある人の子息などの場合は、従者などが下りて馬の口をとりなどしてよろしい。おなじ御前駆でも、それ程でない人で見向きもされないのなどは気の毒な感じだ。
斎院の御輿が渡御になると、全部の車が轅(かなえ)を台から下ろして敬意を表し、御通過になると、あわてて又上げるのもおもしろい。
自分の前に立てる車はきつく制止するのを、先方は「なぜ立ててはいけないのか」といって無理に立てるので供人おなじ御前駆でも、それ程でない人で見向きもされないのなどは気の毒な感じだ。が言いかねて主人に申し入れするのは面白い。
隙間もなく車が立ち重なっている所に貴い方のお車がお供の車を何台も引き連れて来るのを、どこに立てるつもりだろうと見るうちに。前駆の人々が次々馬から下りて、その辺に立っている車をどんどんのけさせて、お供の車までずらりと立て並べさせたのは、実に見事なものだ。
追い払わせた車が、牛をつけて空いている所へがたがたゆすって行くのは実にみすぼらしいものだ。威儀を正した立派な車などは、それほどひどく押しやりもしない。
作品名:私の読む「枕草子」 201段ー257段 作家名:陽高慈雨