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私の読む「枕草子」 133段ー156段

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 没年: 寛徳1.1.1 (1044.2.2)
 平安中期の公卿。関白道隆と高階貴子の子。正暦5(994)年,父の威勢により参議となり,翌年権中納言さらに中納言と異例の昇進をする。しかし父の死により,藤原道長と政権の座を争って敗れた兄伊周と共に長徳2(996)年,花山法皇を射嚇したなどの罪で出雲権守に左遷された。翌年許され帰京し,数年後に本位に復したがふるわなかった。眼を患い九州に宋(中国)の医師が来航していると聞き下向,大宰府(太宰府市)の長官を務め善政を行った。寛仁3(1019)年,刀伊の来襲を撃退して功をあげた。剛毅な性格であったという。
(朧谷寿)

敦康親王 (あつやすしんのう) 999~1018
 一条天皇第一皇子。母は皇后藤原定子。長保元年十一月に生まれ、翌年親王宣下。同じ年に母定子が亡くなったため、定子の妹の元で育てられるが、また二年後にその妹も死去するため、道長の娘で一条天皇中宮彰子の元に引き取られる。しかし、これはまだ皇子を生まない彰子と道長の、一条天皇が深く愛した定子の遺児であり、唯一の皇子を「自らの庇護下に置いて将来に備える」という保険にすぎない。それ故に、寛弘五年(1006)に彰子が敦成親王(後一条天皇)を産むと、道長の態度は一変する。
 人徳があり、東宮との声も高かったが、後見である中関白家の没落により、彰子の産んだ異母弟である敦成・敦良親王に阻まれて一度も東宮になることが叶わないまま、二十歳で死去する。
 道長の息子頼通と関係が深く、同じ敷地内に住んだり、敦康の死後、彼の娘が頼通の幼女となって後朱雀天皇に入内している。私見ではあるが、これらも自分の勢力下に敦康を置き、余計な勢力に担がせないための道長の深慮であるか、はたまた道長と対立した三条天皇の皇子敦明親王が、結局は道長の圧力に屈して東宮を辞したことにみえる、道長系ではない皇子が道長天下で生きてゆくための敦康なりの処世術であったかと思われる。
(ネット コトバンクから)


【一四三】
 長徳元年(九九五)四月十日関白道隆薨去の後、嗣子伊周(これちか)が叔父道長と対立し、翌二年正月弟隆家と不敬事件を起し四月下旬流罪と決定、五月配所に赴いた

道隆没後、中宮に関係する事件が起きて、中宮も参内を自粛されて、内裏を出て兄の伊周(これちか)の小二条殿と呼ばれている屋敷にお住まいになっておられるのだが、なんとなく不愉快なことがあったのでそのまましばらく里にお住まいになっておられたが、主上の周りのことに気を遣うことだけは、やはり縁を断っていられそうにない事だった。

右中将源経房がおいでになって、色々とお話をされる、
「今日中宮にお会いしてきました、大変に物寂しく感じています。女房の装束、裳や唐衣が季節にふさわしく、みなさん怠ることなく伺候されておられますな。御簾の隙間からお見受けしますと、八九人ばかり、朽葉(くちば)の唐衣(からぎぬ)、薄い色の裳に、紫苑(しおん)萩襲など、けっこうな様子で居並んでいましたな。前の草が繁茂しているのを何で手入れもせずにおかれるのですか」
 と、言うので、私は。
「晩叢(ばんそう)白露(はくろ)の夕
衰葉(すいよう)涼風(りょうふう)の朝
紅艶(こうえん)久しく 已に歇(やむ)
幽人(ゆうじん)坐(ざ)して相対し
心事(しんじ)共に蕭条(しょうじょう)たり」
と、白氏文集「秋題牡丹叢」を、いつもおそば近くに伺候している女房、宰相の君の声をまねて返事をしたら、興味深く思われたことです。
秋に牡丹園を見て
白露の日のしおれた花壇の夕べ
 枯れしぼんだ葉が涼風に吹かれている朝
 持て囃された我が身は已に枯れてしまった
 浮世を逃れてしずかに暮している人同士が向き合って座り
心に思うことはただ寂しさばかり
(白露は二十四節気の一)
「『里にお下がりになって、こんな寂しい所に御滞在中は、どんな不快なことがあっても、必ずお側におつきしている筈の人に思っておられるのに、そのかいもなく』
と、皆さんが言っていましたよ。あなたに話せと言うつもりなんでしょう。お側に参上なされては。哀れな寂しい様子ですよ。露台に植えられた牡丹などが綺麗ですよ」
 などと仰られる。
「いえ、皆さんが私を嫌っておられたのが私も厭だと思いましたので」
 とお答えする。
「そうきついことを言わないで、どうぞ穏やかなお気持ちで」 
 と笑って言われた。

成程御所の明け暮れはどんなであろうかとお察し申しあげる。今度の里居は中宮の御勘気によるのでなく中宮のお側の女房達が、
「私が左大臣道長方の人と、懇ろにしている」
 と、寄り集まって話などしていても、私が下より登ってくるのを見ると、すっと止めてしまい、のけ者にしたような気配がこれまでになく憎いので、「参れ」と度々ご催促のお言葉も聞かぬふりして過ごして、なるほど、みんなが言うとおり長らく参上しないのを、
お側の人々は一途に私を左大臣方ときめて、あらぬ噂なども起りそうだ。

それから不思議に中宮からの仰せごとがない日が続くので、心細くなって考えにふけっているときに、長女(をさめ)(下級官女の長)が文を持ってきた。
「宮より宰相の君を通して、こっそりと渡されました」
と言って、ここでさえ人目を憚るのもあまりひどい。代筆の御文ではないのだなと胸がどきりとして、さっそく開けてみると、紙には何も書いてなくて、山吹の花ただ一重を包んであり、そして古今六帖五「心には下ゆく水のわき返り言はで思ふぞ言ふにまされる」の第四句「いはで思ふぞ」と書かれてあった。
(2648)

 これを見て本当に、数日来仰せ言のないのがわびしかった、それもみな紛れて嬉しい。
その私を長女(をさめ)がじっと見ていて、
「宮さまにはどんなにかあなたを、何かの折毎にはお偲び申されるそうですのに、皆さん妙な長休みだと思うらしいですよ。どうして参上なさらないのです」
 と言って、
「つい近所にちょっと出かけて又参ります」
と言って去っていったのを、ご返事を差し上げようとするのだが、「いはで思ふぞ」の歌の上の句をなんと思い出せない。

「どうしたのだろう、同じ古歌と言ってこの歌を知らない者はいない。すぐ口許まで思い出しながら言い出せないとは、どうしたわけでしょう」
 なんてつぶやいているのを聞いて、前にいた童女が、
「『下ゆく水』と言いますよ」
 と言った。何でこんなに忘れてしまったのだろう。童に教えて貰うのは可笑しかった。


色彩と色目
http://www.kariginu.jp/kikata/5-1.htm
襲のイメージをネットで見てください。


中宮への返事を差し上げて少し日にちをおいて出仕した。御機嫌はいかがかしらと、いつもよりは気がひけて御几帳に半ば隠れて伺候していると、中宮は、
「あそこに居るのは、新参者か」
 と笑って言われた。
「あの歌は憎い歌であるが、今度の場合はわたしの言いたい通りだったとそう思うのですよ。一体あなたを見ないでいては、すこしの間も気持ちが慰まない」
などと仰って、いつもと変わった様子はなかった。