小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

私の読む「枕草子」 133段ー156段

INDEX|5ページ/8ページ|

次のページ前のページ
 

を歌い、周囲を目の粗い垣を巡らした清涼殿前、承香殿寄りにある呉竹の台のもとに歩み寄って蔵人所の雑色が二人で運んできた和琴を楽人が打つようにして弾き出した。どのような展開になるのだろうと見守っていた。

 第一の舞い手がしっかりと両袖を合せて、二人が出てきて、西によって向かい合って立つ。次々と登場して足踏みを拍子に会わせて
半臂(はんぴ)の緒を直して、休みなく冠。衣の首筋を正して、駿河舞の一節、
「千鳥ゆゑに、浜に出で遊ぶ干烏ゆゑに、あやもなき小松がうれに、網な張りそ」
と歌いながら舞う全てが本当に見事に立派であった。

大輪という駿河舞の手振りなどを観賞して一日中見ていても飽きないのが、終わってしまった。本当に口惜しいが、また次の舞があるはずだと思えば登場が待ち遠しい。

雑色が琴を運び返して、今度はそのまま呉竹台の後から舞って出た、その様子は実に見事だ。練って柔らかくした絹、掻練の艶、下襲が乱れあいながら、此方から彼方へ、彼方から此方へと舞渡る、いやもう口にすれば一通りのほめ方でしかない。

駿河舞 
 駿河舞で検索、動画が見れます。
http://www.youtube.com/watch?v=JlBzou53C3c
(You Tube)


これでもう舞はないと思うせいか、終ることはひどく残 念だ。上達部達ちが続いて出てこられるので、物足りなくて残念だが賀茂の臨時祭りは、社頭の儀が終り、勅使や舞人等が帰参して再ぴ御前で神楽を秦する「還立(かえりだち)の神楽こそが、見物である。
庭でたかれるかがり火の炎が細く上がる中で神楽の笛が巧みにふるえながら澄んだ音で吹きのぼると、歌の声がしみじみと寒さの中を通り抜けて、砧で打った衣も冷え、扇を持つ手もかじかんで冷えるのを気づきもしない。芸達者な歌人を呼び寄せて、声を引き立たせる神楽の指揮者、満足した顔は印象に残る。

 里に下がっているときには、行列が通過するのを見るだけでは飽きたりないので、賀茂の社まで行って見送るときもあり。大きな木の脇に車を止めると、松明の煙が棚引いて、明かりの陰で、半臂(はんぴ)の緒、衣の艶、昼間見るよりも優れて見える。舞台となる橋の板を踏みならして合唱して踊るのも見事であるが、下を流れる水の音と笛の音が和音となって本当に神様も素晴らしいとお喜びであろう。

頭中将と呼ばれていた人が、毎年の舞人であった。心から素晴らしい舞手であると思っていたのであるが、亡くなられて、賀茂社の上の社の橋の下に霊魂が留まっていると聞いている。何となく気持ちが悪い、そうは深く物に執着しまいと思うが、やはりこうした素晴らしいことは、全く思い棄てられそうもない。

「石清水社臨時祭りの日は、終わった後気きが抜けたように寂しいですね。どうして、宮中に戻ってもう一回舞うことしないんでしょう。もし舞うなら面白いでしょうにね。舞が終わって褒美の禄を貰って後ろの人から退場するのは本当に悔しいです」
 などというのを主上がお耳になさって、
「舞わせよう」
 と仰せになった。

「本当でございますか。もしそうなりましたらどんなに素晴らしいことでありましょう」
 と申し上げる。中宮にもみんなで、
「やはり舞をするように主上に仰ってくださいませ」
などと申し上げる、その結果、この度は舞人が戻ってきて舞を見せてくれたのは本当にうれしかった。

まさかそんなことはあるまいと油断した舞人が、「主上のお召し」と触れたところ、大あわてにあわて騒ぐのも、いよいよ狂気の沙汰だ。
局に下がっていた女房達が聞きつけて大あわてに参上してくる様子はまあ可笑しい。
 従者や殿上人が見ているのも忘れて腰に付ける裳を頭から被ってくるのを見て笑うのも可笑しかった。


少し「草子」から離れて。

 中宮定子は十四歳で三歳年下の一条天皇の女御として正暦元年(990)一月二十五日に内裏に上った。父親の藤原道隆が勢力を振るった長徳元年までは華麗な生活を送っていたのであるが、父の死とともに、父の弟道長が勢いを増してきて、そこに兄伊周(これちか)隆家二人が花山法王を弓で射て、太宰府と出雲に流罪になって後ろ盾が消えてしまった。

どういう理由で伊周・隆家兄弟が花山法王を射殺そうとしたのか公式な記録はないけれども、うわさ話としては女のもつれと言うことである。

「蜻蛉日記」で有名な藤原兼家の弟に為光というのがいて、その娘の三の君と言われているのが絶世の美人と言うことであった。四の君というのも居たのであるが、美貌の点で、四の君には父親は期待していなかった。

 伊周はこの三の君の許に通っていたのであるが、花山法王は親があまり期待していない
四の君の許に通い出した。これを聞いた伊周は、てっきり自分の女の三の君を狙っていると間違えて、弟の隆家と相談して、弟の従者に矢を射させた。

矢は法王の袖を通過して法王は難を逃れたが、お付きの男童二人が射殺されてしかも首をはねられて持って行かれるという大事件になった。

法王の訴えで検非違使の役人が伊周の屋敷に来て、隆家ともに、ちょうど第一子の出産で里に帰っていた中宮定子の目の前で逮捕した。

そのころ、定子は中宮の位を従姉妹の道長の娘彰子に奪われて、皇后の位につけられていた。一条天皇は定子が忘れられず、彰子の入内を拒んでいたが、母親の道長の姉詮子の涙ながらの懇願で渋々従って妻とした。
一条天皇は「一帝二后」という前代未聞の后持ちとなった。しかしこれは、定子の父道隆が定子を女御にしようと当時の律令制度を曲げて后制度を作った余波であった

 そのような過程を経て【一四三】段が書かれているので、少し情報を得ていた方が、私の駄文でもある程度了解していただけるとおもい、「閑話休題」状況説明としました。詳しいことはネットに何人かが書かれていますので参考として下さいませ。


藤原伊周 【ふじわらのこれちか】
 生年: 天延2 (974)
 没年: 寛弘7.1.28 (1010.2.14)
 平安中期の公卿。帥内大臣,儀同三司と称す。関白道隆の嫡男で母は高内侍こと高階貴子。18歳で参議,次いで中納言,正暦5(994)年21歳で内大臣となり,翌年に父の病を機に関白になるよう父子で画策したが失敗,病の間という条件で内覧になった。父の死後,叔父の藤原道長と政権の座を争って敗れ,会議の席で道長と激しく口論したり,従者同士が争うなどしたが,長徳2(996)年,23歳のとき女性問題から花山上皇を威嚇したこと,東三条院詮子を呪詛したことなどで大宰府(太宰府市)に左遷。翌年の大赦で帰京し,本位に復したが,二度と権力の座につくことはなかった。『大鏡』にはある人相見から「雷の相」,つまり一時は権勢を持つが最後まで成しとげることがないといわれた話や,若いときの道長と弓射を競い道長はすべて的を射たが,伊周は外した,といったエピソードを伝える。漢詩の才能があり,高貴な容貌の持ち主で,対面した清少納言の当惑ぶりが『枕草子』にみえる。歌集に『儀同三司集』がある。
(朧谷寿)

藤原隆家 ふじわらのたかいえ
 生年: 天元2 (979)