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私の読む「枕草子」 133段ー156段

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「嬉しいことが二つできて、あの方がおほめ下さるという上に、またあなたの愛する人の中にはいっていたとはまあ」
と言うと、
「そんなこと、今初めてお知りになったように言われることよ」
 と、仰った。

【一三七】
 五月のある月のない暗い夜に
「どなたか女房方おいでですか」  
 と言う声と共に幾人かの気配がしたので、
「出てみなさい、いつにない言い方は誰でしょう」
と言われるので、
「そこに居られるのは何方ですか、大層大勢で突然お出でになって」
と言う。返事がなく、御簾を持ち上げて、
がさっ、と入って来たのは竹であった。
「おやまあ、呉竹の君でしたか」
と言ってやるのを聞いて、
「さてさて、このことをまず殿上に登って話そう」
村上天皇の皇子為平親王式部卿宮の次男、源頼定中将と六位の蔵人達など、同行者は皆出ていった。
頭弁行成はそのまま残られて、
「不思議なことに皆行ってしまったわい。清涼殿のお庭の竹を折り取って歌を詠もうとしたが、同じことなら中宮の許に参って女房など、お呼び出ししてと思って、と竹を持って参ったのに、『呉竹の君』、とすぐ言われて、行ってしまったとは気の毒な。人が普通知りそうもないことを言ったのだが」
などと仰るので、
「竹の名とも知らないものを。無礼だとお思いになったのでしようか」
というと、
「ほんとうに、そんなことは知るまいよ」
と、言われた。

 世間のことを話していると、
「晋騎兵参軍王子猷、種而称此君。唐太子賓客白楽天、愛而為我友。
 晋(しん)の騎兵参軍(さんくん)王子猷(いう) 栽(う)ゑて此の君と称す 唐の太子賓客(ひんかく)白楽天 愛して吾が友となす」倭漢朗詠集(432)
と誦しながら、一同が再び現れ来たので、
行成は、
「殿上で約束した目的も遂げずに、なぜ帰られたのかと、不思議でしたよ」
と言われると
「ああいう名文句には、どんな答ができよう。なまじしない方がましだ。殿上の間でも大騒ぎでしたよ。主上も聞きつけられて興じておられた」
と話される。頭の弁と共に「種而称此君」
の句を何回も誦して楽しそうで、人々それぞれ好きなことを言って、帰途も一声に和して左衛門の陣にはいるまで誦は続いていた。

翌日早く主上付きの女房少納言の命婦という方が、主上の御文を中宮にお届けしたついでに、昨夜の一件を中宮に申されたので、局に下がっていた私を中宮はお呼びになって、
「そんなことがあったのですか」
 と言われるので、
「そんなことがあったのですか。さあ、私は何も気づきませんでしたが、行成朝臣がうまくとりなしたのでございましょぅ」
と申し上げると、
「とりなしたとしてもね」
と言われて、納得したように笑われた。
誰のことを殿上人が褒めたと主上はお聞きになったのか、そういわれる人のことも、喜ばれたとは結構なことである。


源 経房 みなもとのつねふさ
 安和2年(969年) - 治安3年10月12日(1023年11月27日))
 平安中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣・源高明の五男。官位は正二位・権中納言。
 出生と同年に父の左大臣・高明が安和の変で失脚し大宰府に流された(蜻蛉日記に女性の目から見た事件のことが書かれている)が、同母姉・明子の夫である藤原道長が権力者となったことも手伝って順調に昇進した。永観2年(984年)従五位下に初叙。侍従・兵衛佐などを経て、長徳2年(996年)権右中将、同4年(998年)左中将、長保3年(1001年)蔵人頭。寛弘2年(1005年)参議に任ぜられ公卿に列し、長和4年(1015年)権中納言、寛仁2年(1018年)には正二位に昇った。寛仁4年(1020年)大宰権帥を兼ね、翌治安元年(1021年)鎮西に赴任し、同3年(1023年)10月12日任所において55歳で薨じた。
 姉婿道長の猶子でありながらその政敵である中関白家とも近しく、藤原隆家が長和年間に大宰帥として大宰府に赴く際、経房に定子の遺児敦康親王を託したことが『栄花物語』に記されている。隆家の長男良頼は娘婿でもある。
『枕草子』にも「左中将」としてたびたび登場し、特に跋文の「左中将、まだ伊勢守と聞こえし時」の一段には、『枕草子』を最初に世上に広めたのが彼であると書かれ、『枕草子』の成立を考える上で重要な人物である。
『拾遺和歌集』以下、『千載』『玉葉』などの勅撰和歌集に入集。笙の名手であった。

源頼定 みなもとの-よりさだ
 877ー1020 平安時代中期の公卿(くぎょう)。貞元(じょうげん)2年生まれ。為平(ためひら)親王の第2王子。母は源高明(たかあきら)の娘。村上源氏。寛弘(かんこう)6年(1009)参議となり,勘解由(かげゆ)長官,左兵衛督(さひょうえのかみ)などを兼任。正三位。宮宰相とよばれ,一条天皇の女御藤原元子との密通などで浮き名を流した。寛仁(かんにん)4年6月11日死去。44歳。

命婦 みょうぶ
 古代における身分のある女性の称。後宮職員令によれば,五位以上の位を有する女性を内命婦と称し,五位以上の男官の妻を外命婦と称した。一般に命婦という場合は内命婦を指すことが多い。《続日本紀》には内親王,女王,内命婦という序列づけが行われた例があるが,無位の女王を内命婦と呼んだ例もある。彼女たちは必ずしも全員が後宮十二司に勤仕したわけではないが,朝会などの際には朝参を許された。内命婦,外命婦の制は中国のそれに範をとったものであるが,中国の内命婦は皇帝のキサキの一員を指し,日本のそれとは意味を異にする。

和漢朗詠集 竹 432
「晋騎兵参軍王子猷、種而称此君。唐太子賓客白楽天、愛而為我友
晋の王子猷は、竹を植えて「此の君と言い」
唐の白楽天は竹を愛して我が友(実は吾が師)
と言った。菅原篤茂(とくぼ)


【138】
 一条天皇の父圓融院(えんゆういん)が永観二年(984)八月譲位されて、正暦二年(991)二月一二日崩御。喪の期間に入る。翌年正暦三年諒闇(りょうあん)が明け、すべての人が喪服をぬぎなどして、しんみりしたことも宮中をはじめ院に仕える人も、僧正遍昭が仁明天皇の諒闇の明けに詠んだ歌
「みな人は花の衣になりぬなり苔の衣よかわきだにせょ」(古今集847)
などと詠んだ当時のことを思い出しながら、本降りの雨が降る日、藤三位の局(一条天皇の御乳母、右大臣藤原師輔の娘繁子。道兼の室。道兼の没後平惟仲の妻となる)に、大柄の少年で蓑虫のような男童が、白い木に立て文を付けて、
「これを献上します」
と言って来たので、
「何方からですか。今日と明日は物忌みですから蔀も開けていません」
 と、閉じた蔀の下から文を貰い、藤三位に、このように持ってきましたがと渡したのであるが、
「物忌みですので見ません」
 と言われて長押に突き刺しておかれたのを、翌日の朝、手を洗って、
「さて、昨日の巻数(かんず)」
 といって、頼んで取って貰い、伏し拝んで開けてみる。巻数は、依頼によって経や陀羅尼を読誦した際、その巻数を記して寺や僧から願主におくる文書であるから拝んで開封した。