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私の読む「枕草子」 133段ー156段

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「それを申しあげようと存じまして、宴も途中に参上したのでございます。本当にお見事と、感心いたしました」
 と、申し上げると、中宮は、
「ましてあなたはそう思うでしょうね」
と、私の齋信崇拝をご存じなので、仰せられた。

頭中将はわざわざ呼び出しまでして、私と逢う所はどこででも、
「何でわたしと本気で親しんで下さらぬのか。
それでも嫌いだと思っているのでないことは分るのだがね,実に不思議な気がする。これほど長年たった馴染が、他人のままでいるほうはない。やがて自分は殿上にあがるのが毎日ではなくなるでしょう、そうなった時に何を思い出とすればいいのでしょう」
 と、仰るので、
「申すまでもありません。別に難しいわけでもありませんが、そうした間柄になって後は、あなたのことをお褒め出来ないのが残念なのです。陛下の御前でも役目のようにとりしきってお褒めしていますのに、そうなったらとても。ただ大事にお思い下さいませ。きまり悪く、気が咎めて、あなたのことが口にしにくくなりましょう」
と、言いますと、

「何でそんなことが。そういう人をこそ妻(め)以外にほめる例はあるものだ」
 と、言われるので、
「それが厭でないなら別ですよ。男も女も、
身近の人をひいきし、ほめ、人が一寸でも悪くいうと腹立ちなどするのが、やりきれないのです」
 と、さらに言うと、
「頼りない言いぐさてすな」
と仰られるのが可笑しかった。

【一三六】
 頭の弁藤原行成が御曹司に来られて、話などをするうちに、夜が更けてしまった。
「明日は内裏の物忌でそれに籠もらなければならぬから、丑の刻(午前二時頃)になっては悪いだろう」
と言って内裏に行かれた。

 翌日、校書殿内蔵人の詰所で、紙屋紙を広げて重ねて、
「今日は何となく心残りが多いような気がする。夜通し昔のことを話して夜を明かそうと思ったのに、鶏の声にせきたてられまして」
と、多くのことを言葉を尽くしてお書きになった、目出度いことである。そのお返しに、
「夜遅くに鳴いた鳥は、孟嘗(まうそう)君の鶏、即ち、にせの鶏でしょう」
と、申し上げると、重ねてただちに返事が来た。
「孟嘗君の鶏は、騙して函谷関(かんこくかん)の関を開いた。わずかに三千人の孟嘗君の食客が逃げ出しただけである、と記されてある。私の言う関は、貴方と逢った夜の逢坂の関であります」
 と書いてあるので、私は、

「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも
  世に逢坂の関はゆるさじ
にせの鶏声は深夜に函谷関の番人をだましたとしても、逢坂の関はそうは参りません。
巧いことを言われても私は決して逢いません。逢坂には利口な番人がおります」
と返事をした。また、すぐに返事が来た。

「逢坂は人越えやすき関なれば
  鳥鳴かぬにもあけて待つとか
逢坂は人が越え易い関だから鶏が鳴かぬうちにも戸を開けて待つそうですよ」
 とあった。二通の行成の文を、初めの文を定子中宮の弟君円僧都、熱心に額をこすりつけまでして、捕ってしまった。二通目は中宮がお取りになった。藤原行成は能書家の聞こえ目出度い人であった。



藤原道隆 【ふじわらのみちたか】
生年: 天暦7 (953)
 没年: 長徳1.4.10 (995.5.12)
 平安中期の公卿。中関白町尻殿と称される。摂関兼家と藤原中正の娘時姫の嫡男。寛和2(986)年権力を掌握した父の策により,非参議から権中納言を10日余り経験しただけで権大納言という異例の昇進をした。正暦1(990)年,父から関白を譲られて氏長者となり,この年に一条天皇に入内した娘の定子が中宮に冊立された。その後次女の原子も東宮の居貞親王(のちの三条天皇)に入っている。しかし中関白家の春も長くは続かなかった。病を得た道隆は嫡男の伊周を内覧として,関白を譲ろうと図ったが実現できず,道隆の早死にが中関白家の失墜につながった。死因は深酒による糖尿病といわれる。上品で優美な容貌をしており気だてもよく,父の手になる法興院の一郭に積善寺を創建した。『枕草子』に彼の人となりや華やぐ中関白家の様子が活写されている。
(朧谷寿)


藤原斉信 【ふじわらのただのぶ】
生年: 康保4 (967)
 没年: 長元8.3.23 (1035.5.3)
 平安中期の公卿で歌人。名は「なりのぶ」ともいう。太政大臣為光と藤原敦敏の娘の子。長徳2(996)年参議となり,5年後には兄の誠信を越えて権中納言に進んだ。『大鏡』によると,兄は貪欲で人望がなく,自分が任官したいばかりに弟斉信に中納言の申請をやめさせた。しかし,道長から誠信に見込みのないことを告げられ,人望の厚い斉信は中納言を申請し,これに任じられた。恨んだ兄は悶死したという。寛仁4(1020)年大納言に進む。道長の信任も厚く,その娘の彰子,威子の中宮大夫や外孫敦成親王(のち後一条天皇)の東宮大夫を務めた。手紙のやりとりをしたのち頭中将斉信と対面した清少納言は,その輝くばかりの直衣姿をみて「物語などに素晴らしい描写のある貴公子とはこのことか」と感嘆している(『枕草子』)。朝儀に明るく一条天皇下の四納言のひとり。
(朧谷寿)


孟嘗君 もうしょうくん
?‐前279ころ
 中国の戦国時代,斉の公族。靖郭君田嬰(でんえい)の子で,姓は田氏,名は文。父の領地を受けつぎ,門下に食客数千人を養い,魏の信陵君,趙の平原君,楚の春申君とともに戦国四君の一人に数えられる。秦の昭王は彼の賢なることを聞き,前299年に宰相とするために秦に招き,ついで殺そうとしたが,食客のはたらきで危地を脱し,無事斉に帰り着いた。これが有名な鶏鳴狗盗(けいめいくとう)の故事である。のち斉のみならず魏の宰相にも任ぜられたが,前284年以後は自立して諸侯となり,薛で没した。
(ネット コトバンク)


さて。逢坂の歌は頭弁(行成)に圧倒されて、わたしは返歌も出来ずしまい。甚だ具合わるい。ところが、
「あなたの手紙は殿上人がみな見てしまいましたよ」
と行成が私に言う。 
「真実私を愛して下さるのだと、これでよく分りました。すばらしい事など、人が宣伝してくれないのは、甲斐のないことですものね。私は、あなたの見苦しい歌が散るのは厭なので、お手紙はひた隠しにして、誰にも全然見せません。あなたの御厚意とくらべれば同等でしょう」
と、行成に言うと、

「そう万事を理解して言われるのが、やはり他の人とは違っていると思われます。『思慮のない困ったやり方だ』、などと普通の女のように言うかと思いましたよ」
と、言って笑われる。
「これはまあどうしてでしょう。お礼を申したいくらいですわ」
と言い返す。
「私の文はお隠しになった、また、やはりしみじみ嬉しいことですよ。人に見せられたらどんなに不快で厭だろう。今後ともそうお願いしますよ」
などと仰られた後に、源経房中将がお出でになって、
「頭弁があなたを絶讃しておられるのを御存知ですか。先日の手紙に、あの時の行成から清少納言への文、のことを書いてありました。想う人が、人に褒められるのは、大変に嬉しいことです」
 など、真剣に言われるのも面白い。私は、