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私の読む「枕草子」 133段ー156段

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【一三四】
「何ではじめて任官した六位の蔵人の笏に職の御曹司の東南隅の土塀の板を使ったのでしょう。それなら西や東のもすればいい」
 と言うことを言い出して、 
「おもしろ味のないことばかりですよね。衣などに、いい加減な名をつけたのは。何でだろう。衣の中で細長はそうもいえるでしょう。何だってまあ、汗衫(かざみ)は尻長といえばよい」

「男童の着る物で、なんで唐衣を短衣(みじかぎぬ)というのかしら」
「そうは言うが、それは唐土(もろこし)の人が着る物だから」
「上の衣、束帯の袍とその時用いる礼装用の袴はそうは言うだろう。下襲もよい。大口袴は長さよりも口が広いから呼び名は当たっている」

「袴はどうにもならない。指貫は何だってまあ、足の衣というべきですよ。むしろそのような物を袋というのです」
 などと、その当たりの色々のことを大声で言うので、わたしが、
「ああ何てうるさい。もうやめましょう」
と言うのに夜居の僧が、

「それはいかん。一晩中でもお話しなさい」
と、苦々しく言うのが可笑しいし、突然言い出したので驚きもした。


(一寸一言)
清少納言と惟仲の会話は間に人を通してのことか、または直接向かい合って話しているのか、わかりにくい。今までにも、直接か間接か、わかり難くて困ったが、この段のように二人の会話が長く続くところは初めてのような気がするので、読むのに困った。

 当時の人は、男と女が直接会話することはまれなことで、と言うことは常識なので困らなかったであろうが、現代の私には、会話が直接か間接か惑わされる。

 当時は女性は扇で顔を隠しているのが普通であるから、仕事で男女が話すときは女性は扇で顔を隠して横を向いて話をする、これが常識であるから、女が男の顔を見るなんてあり得なかったであろうし、男も相手の女子が美人かどうかは分からなかったであろう。

こんなことを考えて読んでいますので、分かりにくい点が多々あることをお許し下さい。
 
 この段では、清少納言の夫である?、あった?、橘則光のことが話に出てきます。彼女が書いているのは後年のことであるので、分かれた後であるが、話題の当時はどうであったのだろうか。紫式部の旦那様も出てきました。旦那同士の交流はあったのだろうか。想像すると面白いです。二人の女性、もう少し旦那のことを書いていればと残念です。


職御曹司 (しきのみぞうし)
 大内裏にあった中宮職の曹司。内裏の東、建春門を出てすぐの北側にあり、四面を築垣で囲まれていた。舎や倉庫など、いくつかの建物から成る。元々は中宮職の事務所だが、后宮の御産場所や内裏焼失時の天皇の避難場所に使われたり、除目なども行われた。一条天皇の定子皇后は数年に渡りここを在所とし、枕草子にも度々登場する。
(ネット有職故実)



平惟仲 【たいらのこれなか】
生年: 天慶7 (944)
 没年: 寛弘2.3.14 (1005.4.25)
 平安中期の公卿。美作介珍材と備中国(讃岐国とも)の郡司の娘の子。24歳で文章生となり大学頭,蔵人頭を経て49歳で参議。長徳4(998)年中納言に進む。俊才であったが藤原公任から「故実を知らず」といわれたことがある。摂政藤原兼家の家司となり藤原有国と共に「左右の眼」といわれ重用された。左京の三条高倉にあった邸宅で,一条天皇の中宮定子は長女の脩子内親王を出産,清少納言も滞在した。一条天皇の生母東三条院(詮子)も惟仲邸を御所とし,ここで死去した。一条天皇の乳母藤原繁子(右大臣師輔の娘)を妻としたが,晩年に大宰府(太宰府市)の長官となって下向したときも,この妻を伴っている。任地での3年目,宇佐神宮の宝殿を封じたことで訴えられ解任された。厠で倒れ腰を悪くし大宰府で死去。宇佐宮の祟りと噂された。遺骨は弟の生昌によって京へ運ばれた。
(朧谷寿)(ネット コトバンク)

橘 則光(たちばな の のりみつ)
 康保2年(965年) - 没年未詳
 平安時代中期の官人。橘氏長者・中宮亮・橘敏政の長男。官位は従四位上・陸奥守。清少納言の夫として知られる。
『江談抄』3、『今昔物語集』23の15、『宇治拾遺物語』11では盗賊に襲われてかえって取り押さえた話が伝えられ、武勇に優れた人物とされる一方、『枕草子』78・80ではやや気弱な人物として描かれている。

『金葉和歌集』に1首が入首(第360歌)。『後拾遺和歌集』1156の詞書の中にもその名が見られる。
『宇治拾遺物語』の記述によれば、複数の盗人に襲われた際の対処は、一度、走って逃げ、賊の一人が頭を狙ってきたため、ただちに制止し、勢い余って走り抜けて隙が生じた(太刀の一撃が空ぶった)一人の頭を叩き斬り、二人目の足速い賊が迫ってきたため、刀を脇に挟み、再び走り出し、再び頭を狙われぬよう、とっさ的にしゃがみ込み、それに対処できず、二人目の賊が則光の体に蹴っつまずいたところを、起きあがり様に頭を叩き斬った。
 則光のとっさ的な行動だが、この戦法は、自ら走ることで複数の敵が追いかけて来て、結果としてバラバラになり、複数を個別に撃破する手段としては理にかなった戦い方である。同時代の兵の道では、賊を前にしての逃亡は考え難く、武士でない則光らしい行動といえる。
 三人目では、さすがに殺されると覚悟し、神仏に祈りながら、決死になって、斬りかかってきた相手にむかって刀を鉾(ほこ)をもつようにして体当たりをする。あまりに近すぎて賊は則光を斬りかかれなかいが、槍のように持った則光は3人目を刺し、柄を返し、そのまま仰向けに倒れる賊の体を斬り裂く。
 のちに賊の死体が見つかり、その鮮やかな太刀使いが評判となるが、則光自身は、人斬りを騒がれたくなかったので、黙っていると、他人が勝手に自分が行ったと主張したので、彼の仕業として、事実を隠した。老いてからこの真実を子供達に語ったと『宇治拾遺物語』ではしており、則光の人間性がわかる内容である。 (ネット ウィキペディア)


【一三五】
関白藤原道隆は長徳元年四月十日に薨去。
道隆のために毎月の十日、娘の中宮は経供養や仏供養を営まれ、写経をし仏像・仏画を作らせ故人の供養をする。
九月十日の供養を職の御曹司(ざうし)で営まれた。上達部に殿上人多く集まった。
当時の説経の名人清範が講師となっての講話が大変に悲しみを持った題材で話が進んだので、格別人生の無常を深く感じそうもない若い人までもが感激して涙を流した。

 法要が終わって、酒を飲み詩を誦したりすると、頭中将齋信(ただのぶ)が、
「金谷酔花之地 花毎春匂而主不帰
 南楼嘲月之人 月与秋期而身何去
金谷(きんこく)に花に酔(ゑ)うし地(ち) 花春毎(はなはるごと)に匂うて主(しゅ)帰らず 南棲(なんろう)に月を嘲(あざけ)つし人 月秋(つきあき)と期(ご)して身何(みいづ)ちにか去(い)んじ」(和漢朗詠集745)
と朗詠された。実に見事である。どうしてそううまく思い出されたのだろう。

中宮がおいでになる所に、人群を分けて参上すると、中宮も立ち出て来られて、
「結構ですね、実にまあ、まるで今日のために作ってあった詩のようですね」
と、仰られたので、