私の読む「枕草子」 101段ー133段
髪の短い人が何かを取り下ろして髪をとかしている後姿。
老人が頭に何もかぶらないでいる。
相撲に負けた後ろ姿。
人妻がむやみな嫉妬をして身を隠したのを、夫が必ず探しまわることと思ったのに、そうでもなく、のんぴり振舞っているので、いつまでそうして外泊してもいられずに、自分の方から姿を現わした。
何となく軽蔑が生じた愛人と、気ままなことを言い争って、一緒に臥すのもいやだと身動きするのを、相手が引き寄せるがしいて強情を張るので余り度が過ぎると、相手も勝手にしろという気になり、夜具をかぶってねてしまう。
後、冬であれば単衣の下着だけを着ているので、意地を張っていた間こそ寒さも気づかなかったが、夜も更けてくるとやっと、寒さを感じてくるが、他の人々もみな寝ているので、さすがに起きてゆくこともできず。あの時寄ってしまえばよかったなあと目が冴えて思いに眠れないで居ると、さらに奥の方から何やらぎしぎし鳴るのも、ひどく恐ろしくて、そろっと相手のそばによろめき寄って、衣を引きかぶるときは、まことに恰好のつかないものだ。相手は強気に構えているのだろう、狸寝入りをして気づかぬふりをしているよ。
【一二六】
加持祈祷の法「修法」は、比叡山に対して奈良の興福寺の方式。仏の「御真言」真言陀羅尼を誦し奉る。優雅で尊い。
【一二七】
どちらつかずでまの悪いもの。
他の人を呼ぶのに自分だと思って出しゃばった。何か与える折はなお間が悪い。
自然と人の噂などして悪口をいったのに、幼い子連が聞きとって、その当人がいる時に口に出した。
哀れな話が人から語られて、聞いて涙を流して泣くのに、成程哀れなことだと思って聞くのに、涙が急に出て来ない、大変に失礼なことである。泣き顔を作って、変った様子を作っても全くかいがない。
その反対に、すばらしいことを見聞きするときは、真先にただやたらに出てくるものだ。
【一二八】
石清水八幡宮行幸、翌日還御される、女院
東三条院詮子(一条天皇の母)の桟敷の所に輿を停めて、ご挨拶を申しあげる。主上が母君に御挨拶申しあげられて、それがたとえようもなく立派なので、本当に涙がこぼれるほどで、化粧が落ちて素顔が現れ、なんと見苦しいことであろう。
勅旨を伝える「宣旨」の役として藤原斉信
参議(宰相)が女院の桟敷に向かわれるのが立派に見えた。随身四人が大層立派に着飾ったのと、馬副の男がほっそり白装束したのだけを従えて二条大路の掃き清められた広い道を立派な馬を早めて急いで参り、少し離れたところで馬から下りられて女院の傍の御簾の前に伺候された様などは、優雅である。お返事を承って主上の御輿の所で奏上された時の様子は、今さらいうまでもない。
そうして後、主上が御通過になる、それを見送られる女院のお気持を拝察すると、じっとしておられず飛び立ちそうに思われたことだ。感激して長泣きをする私は女房同僚に笑われてしまった。
普通なみの身分の人でさえ、やはり子供が立派なのは実に素晴らしいものを、まして女院の場合はいかばかり、と思うだけでもおそれ多いことだ。
東三条院詮子(せんし)
962-1002 平安時代中期,円融天皇の女御。
応和2年生まれ。藤原兼家の娘。母は藤原時姫。藤原道長の姉。貞元(じょうげん)3年入内(じゅだい)。天元3年懐仁(やすひと)親王(一条天皇)を生む。一条天皇が即位すると,皇太后となる。正暦(しょうりゃく)2年(991)出家。皇太后宮職(しき)を廃止し,太上天皇に準じて女院号の最初である東三条院をさずけられた。長保3年閏(うるう)12月22日死去。40歳。名は詮子(せんし)。
藤原斉信 【ふじわらのただのぶ】
生年: 康保4 (967)
没年: 長元8.3.23 (1035.5.3)
平安中期の公卿で歌人。名は「なりのぶ」ともいう。太政大臣為光と藤原敦敏の娘の子。長徳2(996)年参議となり,5年後には兄の誠信を越えて権中納言に進んだ。『大鏡』によると,兄は貪欲で人望がなく,自分が任官したいばかりに弟斉信に中納言の申請をやめさせた。しかし,道長から誠信に見込みのないことを告げられ,人望の厚い斉信は中納言を申請し,これに任じられた。恨んだ兄は悶死したという。寛仁4(1020)年大納言に進む。道長の信任も厚く,その娘の彰子,威子の中宮大夫や外孫敦成親王(のち後一条天皇)の東宮大夫を務めた。手紙のやりとりをしたのち頭中将斉信と対面した清少納言は,その輝くばかりの直衣姿をみて「物語などに素晴らしい描写のある貴公子とはこのことか」と感嘆している(『枕草子』)。朝儀に明るく一条天皇下の四納言のひとり。
(朧谷寿) (ネットことバンクより)
藤原道隆関白殿、清涼殿北廊西の黒戸から出られるときに女房が隙間なく居並び伺候しているのを、
「ああ、素晴らしいおもと方よ、この老人をどんなに可笑しいとお思いでしょう」
と言って女房達の中を過ぎて出て行かれるのを、戸口に近い女房達が、色様々な袖口を露わにして御簾を引き上げたところ、道隆の子供の伊周が沓を取って履かせになった。大層重々しく下襲の裾を長く引きずってあたりも狭い程立派な様子で伺候される。ああすばらしい、大納言ほどの人に沓をとらせておられるよ、と見ていた。
道隆の長男道頼山の井の大納言、官位がこれに次ぐ方々で、お身内ではない人々、黒色の袍を散らばらしたように藤壺と呼ばれている清涼殿西北の飛香舎の築地塀のもとから北へ登華殿のところまで並んでいる中に、関白がすっきりとひどく優雅なお姿で御佩刀など取り直されて佇んでおられる。中宮大夫道隆の弟道長は戸の前に立たれてそこで膝まずきはなさるまいと思ううち、関白がすこし歩み出されると、急に下座なされた、関白という方は前世にどれ程の善業を積まれたのかと拝するにつけひどく感動したことだ。
中宮女房の中納言の君は、他人の命日なのに奇特にも勧行しているのを、
「貸して下さいその数珠をしぱらく。お勤めして関白様のような結構な身になりたい」
と言って、みんなが集まって笑うのであるが、それは立派なことである。中宮がそのことをお聞きになって、
「仏になれば、関白よりも素晴らしいことですよ」
と言って微笑まれるのを素晴らしいお言葉と感じていた。関白道隆の弟道長中宮大夫が跪いてお迎えになったことを何回も中宮様にお伝えすると、中宮は例のあなたのお贔屓の
人ねと言われてお笑いになった。
もし中宮がその後の道長公の御繁栄ぶりを御覧になったならば、私のその言葉も道理とお思いになったであろうに。
【一三〇】
九月のある日、夜中雨が降り続いたが朝になると止まって、今朝は日差しが爽やかである。昨夜の雨でびしょ濡れになった前栽が実に趣が有る。透き垣の上部の「羅文」と言われている細い木や竹を菱形に交叉した物から軒下に向けて張り渡した蜘蛛の糸が雨がかかって白い玉を貫いたようなのこそ何か哀れであって面白い。
作品名:私の読む「枕草子」 101段ー133段 作家名:陽高慈雨