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私の読む「枕草子」 101段ー133段

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少し陽が昇ってくると、萩の枝が雨露で折れそうなのが、露が落ちる度に枝が動いて人手も借りずに急に上の方へはね上ったのも、とても面白い、と言っても他の人の心には全然面白くあるまいと思う、その自分がまたおもしろい。

【一三一】
 正月七日の七種の菜を前日の六日に人が持ってきてくれて、大騒ぎをしてより分け散らしていると、見たこともない草を子供が手にして持ってくる、
「これは何という草ですか」
 すぐに答えられず「さあ」と言って互いに顔を見合わせて、
「耳なし草というの」
 と誰かが言う、
「本当に、聞いたことがない顔なのは」
 と言って笑うと、また大きく育った菊を持ってきたので、

つめどなほ耳無草こそあはれなれ
あまたしあればきくもありけり 
(いくらつねっても聞く耳がない以上困ったものだ。けれど大勢いるから聞き分ける子もまじっていたことよ)

と言いたいところだけれど、子供のこと故これもまた聞き分けられそうにない。

【一三二】
 二月、太政官庁において定考ということをするそうだが、どんなことだろうか。
〔注〕定考は「上皇」との同音を避げてカウヂヤウと読み毎年八月。
孔子並びに十哲の画像をかけてする行事であろう。聡明(そうめ)と言って、主上にも中宮にも、変わった形のものを、土器に持って差し上げる。

【一三三】
 蔵人頭兼左中弁藤原行成の許より、主殿司(とのもつかさ)に不審な物が贈られてきた。白い色紙に包まれて満開の梅の花の枝に付けられて持ってこられた。何であろうか、急いで開けてみると、「餅餤(へいだん)」という物を二つ並べて包んであった。添えられて正式な文には「解文(げぶん)」の形式で、
 進上 餅餤一包
 例に依て進上如件
 別当 少納言
と書いてあって、「みまなのなりゆき」と名が記され、奥書に、
「この男は、自分で参りたいのですが昼は、葛城の一言主のように、昼は容貌がよぐないとの理由で参らないのでしょう」
 と、非常に可笑しく書いてあった。
〔注〕」
 解文(げぶん)解状(げ‐じょう)
 *解(げ)に同じ。
 *鎌倉・室町時代、原告から差し出した訴状。
 *身分の下の者から上の者に提出する文書。解文(げもん・げふみ)。
 *犯人召捕りの書状。浄、大経師「京のお役所からここの代官所へ―が着いて」
(広辞苑)


藤原行成 【ふじわらのゆきなり】
生年: 天禄3 (972)
 没年: 万寿4.12.4 (1028.1.3)
 平安中期の公卿。義孝と中納言源保光の娘の子。生後2年で父と死別し不遇な青年期を送った。長徳1(995)年,24歳の若さで蔵人頭に抜擢されたが,これには,藤原実方と殿上で口論となった際,冠を投げすてられても冷静さを失わなかった行成の態度に感じ入った一条天皇が重用したとか,前任者源俊賢の推挙によるといったことが挙げられる。俊賢の恩を感じ、一時期位階が上になったとき上席に座らなかったという。長保3(1001)年参議となり,19年後権大納言に任じられている。権者藤原道長の信任は厚く,彰子上東門院の立后に際しては大いに画策したことに気をよくした道長は子の代まで兄弟のような処遇をすると約束した。道長家への奉仕に余念なく,道長の子長家を女婿とした。道長と同日に死去した。和歌だけは少し劣っていたと『大鏡』に記される。能書家として知られ,その筆跡は「権跡」(極官にちなむ)といわれ,小野道風,藤原佐理と共に三蹟とうたわれた。現存の真蹟は国宝の「白氏詩巻」ほか少ない。その日記『権記』は道長時代の政治を知るうえで重要である。『枕草子』にも実直ながら茶目っ気のある蔵人頭時代の行成が顔をみせる。邸宅は平安京左京の一条大宮にあった母方の桃園第で,この一郭を寺院としたのが世尊寺。行成の書の流派を世尊寺流と呼ぶのはこれにちなむ。<参考文献>清水好子「政治家藤原行成とその環境」(『国文学』50号) (朧谷寿)

一言主神 【ひとことぬしのかみ】
『古事記』『日本書紀』などに登場する託宣の神。『古事記』によれば,雄略天皇が葛城山に登ったとき,天皇の一行と何から何までよく似た一群が山に登ろうとしていた。誰かと問うと,凶事も吉事も一言でいい放つ葛城の一言主神だと答えたので,天皇が畏れて種々の物を献上すると,神は喜んでそれを受け,山の入り口まで天皇を見送ったという。なお,役の行者が鬼神らに金峯山と葛城山の間に橋を架けろと命じたときに,役の行者が朝廷を傾けようとしていると一言主神が託宣したので,一言主神は役の行者によって呪縛されたという話が『日本霊異記』『今昔物語集』にみえ,この神に対する人々の意識の変遷を知ることができる。現在の奈良県御所市森脇の一言主神神社に祭られる。<参考文献>松村武雄『日本神話の研究』4巻,西郷信綱『神話と国家』
(佐佐木隆)
(ネット・コトバンクより)


中宮の前に参上してお見せすると、
「上手に書いてある、おかしなこと」
 褒められて、行成の解文は手元に納められた。私が、
「返事はどうしよう、このような餅餤などを持参した時は、何か禄など与えるものかしら。誰か知っている人はいないか」

 と言うのをお聞きになって、
「惟仲の声がしましたよ。呼んで聞きなさい」
 と中宮が仰るので、端に出て、
「左大弁に申し上げます」
 と、惟仲の官職名を名乗って控えている女房に呼ばせる。惟仲は威儀を正してやってきた。控えの女房を通して、
「ごめんなさい、これは私の私用です。もしこの弁官や少納言などの所にこうした物を持参する下部などには禄を与えるのですか」
と質問すると、

「別にそうしたこともございません。ただうけ取って食べます。どうしてそのようなことをお聞きになりますか、もしや太政官の役人からでもおよこしになりましたか」
と、反対に尋ねられるので、
「いいえ、どうしてそのようなことが」
と答えて、少し紅い薄紙に、

「自分で持ってこない下部は、冷淡(餅餤)
だと思われます。いかがですか」
 と書いて綺麗な梅の咲く枝に付けてお渡しする。惟仲はすぐに側に来られて、
「下部が参上致しました。下部が参上致しました」
 と言われるので、惟仲の前に出て行ったところ、

「歌を詠んでお答えになるかと思っていましたが、餅餤と冷淡、うまく言われたものです。女ですこし自信のあるのは、すぐ歌をよみたがるものだ。そうでないのがずっと親しみ易いものだ。わたしなどにそんなことをいう人は、かえって心なしというものだろうよ」
などと仰る。橘則光の様なお答えですねと言って笑われた。則光は歌が苦手の人であったから。

このことを主上の御あたりに大勢が伺候されていたので頭弁(行成)がお話し申されたところ、主上が、
「うまいことを言った」と言われた、と人つてに聞いて、これこそ聞きぐるしい自慢話でおもしろい。