私の読む「枕草子」 101段ー133段
と。三月に紫色の濃い指貫、白の狩衣、山吹襲(表黄、裏青)のひどく仰山な色の衣なんかを着て、宜孝の長男隆光(たかみつ)主殿の助は、青色の狩衣、紅の衣、乱れ模様を摺着けた水干袴を着用させて、続いて詣でたのを、参詣が終わって帰る人も今から参詣に登る人も珍しい服装であると不思議なこととし、昔からこの御嶽にこういう姿の人は見えなかったと驚きあきれたのだったが、四月の一日に帰ってきて、六月十日に筑前守が死んだ、その後任になったことは、なるほど彼が言ったことに違いはなかったと、評判されたことだった。これは有り難い話ではないけれども御嶽の話のついでに。
男も女も、年若くきれいな人が真黒な喪服を着たのは感動を受ける。
九月の晦日に、十月の一日にほんのあるかないかの程度に聞きつけたこうろぎの声。
鶏が卵を抱いて伏している。
秋が深くなって庭の浅茅に露が五色の玉のように光って置いている。
夕暮れ、暁に真竹が風に吹かれる音を、目を覚まして聞いている。夜中も。
山里の積雪、愛し合っている若い男女の間が、邪魔がはいって思うようにならない。
【一二〇】
正月に寺にお籠りをすると大変に寒くて雪が降ってそこらが凍ってしまうのも風情がある。雨がばらついた様子なのは甚だよくない。
清水寺に詣でて、本堂の仏前に座席をとる交渉を僧にする間に、階段のついた長廊下のもとに車を止めると、帯を肩に回して片帯姿の若い法師達が、足駄という物を履いて少しの用心もせず、階段を上下するとて、何と定ってもいない経文の一部分を口にしたり、阿毘達磨倶舎諭の略を四旬一喝で諷誦しながら歩くのは、場所が場所だけに面白いものである。
階段の付いた「呉階」を我々が登る場合は大層危っかしい気がして片一方に寄って勾欄を押さえて登っていくのであるが、これを板敷きのようにして歩くのであろうか。
「お席の用意が出来ました。どうぞお早く」
と言うのを聞いて供の者が上沓を持って来て車からおろす。衣の裾をまくり上げなどしたのもいる。裳に唐衣と仰山に着飾ったのもいる。
下部を革で作り上部を錦で作る深い靴「深沓」。上部のない「半沓」などを履いて、すり足で歩くのも宮中のような感じで、これもまた面白い。
出入を許されている若い男達や一門の者が
大勢立ち並んで、
「そこは低くなっております。そこは高くなっております」
などと注意しながら行く。誰なのか、貴人のすぐそばを歩んだり先に立ったりする者などを、
「しばらく、偉い方がおられるのにそうはしないものだ」
などと言うと、なるほどと思ってすこし注意する者もいる。それでも聞き入れないで、自分こそ一番に仏様の前にと思って行く者もいる。席に座ろうとしても人が居並んでいる前を通って入るとしたら、至極いやなものだが、仏堂の内陣と外陣を仕切る造りつけの格子「犬防(いぬふさぎ)」の内側内陣にはいると気持ちは非常に尊い気持ちになり、どうして今まで何ヶ月も参詣せずに過ごしたのだろうと、まず信心の心が沸いてくる。
常に使用している寺の灯明ではなくて、誰かの寄進された灯明が内陣に点されて、ものすごい炎をあげて、その間から仏様がちらちらと見えるのは、とても有り難く感じる。
僧達が手に手に願文を捧げて、導師が着座して札拝読経する仏前の高座「礼盤(らいばん)」に向かって誓願するのであるが、何しろあれ程堂内をゆする騒がしさなので、どれが誰の願文と聞き分けられそうにない。だが、しいて法師が絞り出す声だけは、さすがに喚声の中からはっきりと聞こえてくる、
「千灯を献ずるお志は誰それの御ためでございます」
など、僧が仏前に申す詞は、わずかに聞こえてくる。
懸け帯を一寸して拝む、
「もしもし、御用を承ります」
と、樒(しきみ)の枝を折って持ってきたのに、心地よい香の薫りがするのも尊くもあり、面白くもある。
藤原宣孝(ふじわらののぶたか、生年不詳- 長保3年4月25日(1001年5月20日))
平安時代中期の貴族。藤原北家高藤流、権中納言・藤原為輔の子。紫式部の夫。官位は正五位下・右衛門権佐。
天元5年(982年)蔵人兼左衛門尉に任ぜられる。正暦元年(990年)筑前守、正暦3年(992年)大宰少弐と地方官として九州へ赴任ののち、長徳4年(998年)右衛門権佐兼山城守となる。この頃に紫式部と結婚している。また、任官時期は不明なるも弁官を務めたらしいが、蔵人・右衛門権佐(検非違使佐)とそれぞれ同時には兼帯せず、三事兼帯とはならなかったという[1]。疫病のために長保3年(1001年)4月25日卒去。
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かけおび 【掛(け)帯】
(1)平安以降、物忌みのしるしに用いた赤い絹の帯。胸にかけ肩を越えて背後で結ぶ。社寺参詣の女子や巫女(みこ)が用いた。
(2)近世、女房装束の裳の大腰の左右に付けた紐。肩を越して前で結ぶ。
犬防の方から法師が寄ってきて、
「御祈願の筋は十分申しあげました。畿日くらいおこもりの御予定ですか。こういう方がおこもりです」
と、言い聞かせて立ち去った。そうして火桶や果物を供の者に持参させて、柄が外に半分内に半分ある半挿(はんぞう)に手水を入れて持ち手のない盥などもある。
「お供の方は宿坊に」
と言う。
僧に誦経させる時につく鐘の音は、私のために鳴る鐘である、と聞こえた。傍らには、
かなりの男が至極ひっそりと、ぬかずきなど起ち居振る舞いも心ある人らしく聞える、そんな人が、大層深く思い込んだ風情で、寝もせず勤行をするのは、まことに心を打つものだ。
休息のときは、経を低い声で読んでいるのも尊い方である。声を出させたいくらいなのに、まして鼻などを、耳について聞きにくい程ではなしにそっとかむのは、どんな考えを持った人であるのか、とその願いをかなえさせてやりたい。
数日間こもっている間、昼間はすこしのんびりと以前にはしていた。師の法師に、男達、女や童女、師の側に集まって楽しく語らうのに、側に置いた法螺貝をいきなり吹きだして大変驚かされる。
清らかな立て文の正式書状を持った男らが
誦経を頼む際に布施とする装束や布吊を置いて、堂内で雑事を扱う堂童子(どうどうじ)を呼ぶ声が堂内に谺して華やかに聞こえる。
鐘が響いて、さて何を言われるかときいていると、ある貴人の名をあげて、
「お産が無事に済みますように」
など、霊験あらたかに申し上げるなど、なんとなく、こんなので安産できるのかと、気づかわしく祈念せずにいられないことだ。
これは普段のことである。正月などは大変な騒動である、念願をする人などが途切れることなく参詣して法師に願いの言葉を告げるので、仏前の誦経のお勤めもゆっくりとしていられない。
日が暮れて参詣に登るのはお籠もりする人達である。小法師らが持ち歩けそうもない高い屏風をうまく動かして畳の上に置くと見ると、堂内に小さな局を造り、犬防に簾をさらりと懸けて、と実に慣れた行動である。
ざわざわと音がして大勢の参詣人が堂外に降りてきた。年かさらしい人が、卑しくない声で、あたりを憚りながら、
作品名:私の読む「枕草子」 101段ー133段 作家名:陽高慈雨