私の読む「枕草子」 101段ー133段
春の県召の除目は普通正月九日から三日間にわたって行われる。その中の二日目の夜、灯台の油を継ぎ差ししようと、灯台の敷物を踏んで立っていると、打ち敷きは新しい油引きの敷物だったので、方弘のくつ下はしっかり捕えられて引っ付いてしまった。歩いて戻るとそのまま灯台は倒れてしまう、くつ下には打敷がくっついて行くので、大きな音をたてて灯台は倒れた。
蔵人頭。頭中将、頭弁など付き添わぬ限りは清涼殿の臺番所には人は近づかない。それなのに方弘は豆を一盛り取り上げて、小障子の後ろで食べているので人々は小障子を引きあけ丸見えにして、大笑いしていた。
【一〇九】
見苦しい物。
衣の背中の縫い目を片方に寄せてきている。
また、抜き衣紋にしてきている。(後襟を引き下げて、襟足が現われ出るように着ること)。
稀に来た人。又は病人の前に子供を背負って出ること。
法師・御陽師が、祈祷の際用いる三角形の紙烏帽子を被っての祈祷。
色黒で憎そうな女がかもじをしている。痩せた鬚が目立つ男。この二人が昼寝をしているのこそ見苦しい。何の見るかいがあってそのように臥しているのだろう。
夜は顔かたちも分らないし、また誰でも皆寝るものときまっているから、自分は醜いからといって起きているべきものでもない。
そのように夜は寝て、その翌朝は早く起きたのが、至極無難というものだ。
夏に昼寝をして起きる。立派な人の場合ならすこしはよいが、いい加減な容貌では、てらてら光り、寝腫れて、ひょっとすると頬がゆがむこともあるに違いない。
互に顔を見合せた時の生きがいなさよ。
痩せて色黒の女が、軽くて薄い練らない絹で織った単衣もの着ているのは見苦しい。(写真・図ネットから転写)
源俊賢 【みなもとのとしかた】
生年: 天徳4 (960)
没年: 万寿4.6.13 (1027.7.19)
平安中期の公卿。正二位。左大臣源高明 と右大臣藤原師輔の娘の子。一条天皇の蔵人頭を3年経験したのち,長徳1(995)年参議に任じられた。妹明子が藤原道長の妻となったこともあって,道長に追随し,道長から「勤公は人に勝る」といわれたが,口うるさい藤原実資にはその癒着ぶりを「貪欲,謀略その聞こえ高き人」と非難されている。そうした行動をとらせた背景に,父の失脚(969,安和の変)という負い目があったことが考えられる。寛仁1(1017)年権大納言に昇進。能吏であり,藤原行成,公任,斉信と並ぶ四納言。 (朧谷寿) (ネット)
半臂(はんぴ)
束帯着用の際抱と下襲との間 に着る
つけ紐。長さ八尺または一丈二
尺、幅二寸五分。畳んで左腰に
下げる。羅で製し、合せ目は縫
わずにひねり合せたとみえる。
源方弘(まさひろ)
左馬権頭源時明の子。長徳二年正月蔵入。
源時明 みなもとの-ときあきら
平安時代中期の官吏,歌人。
馬内侍(うまのないし)の父。左馬権頭(ごんのかみ),皇太后宮大進(だいじょう),讃岐守(さぬきのかみ)などののち、長徳2年(996)播磨(はりまの)守に任じられたが、辞退し出家したといわれる。天徳4年の「内裏歌合」に参加した。家集に「時明集」。
【一一〇】
言い憎いもの。
人の手紙の中に高貴な人の御伝言などが多くあるのを、始めから終りまで全部は言い憎いものだ。
此方が気おくれする程立派な人が何か届けてよこした時の礼状。
大人になった子が思いがけぬことなどを聞くのに対して、面と向っては答えにくい。
【一一一】
関所は。
逢坂の関。
須磨の関。摂津国武庫郡。
鈴鹿の関。伊賀国鈴鹿郡。上代の三関の一。 岫田(くきた)の関。伊勢国一志郡川口。
白河の関。岩代国西白川郡関山。陸奥への入口。
衣(ころも)の関。陸中國磐井郡関山。
ただごえの関。所在未詳。直越え即ちまっしぐらに越えるという意の名称の興味。
はばかりの関。所在未詳。遠慮の意の名称の興味。直越えと憚りでは較べむのにならない。
横はしりの関。駿河国駿東郡横走郷。
清見が関。駿河国庵原郡。
みるめの関。所在未詳。
【注】八雲御抄に近江国。「みるめ」は海草の名。「見る目」にかけて用いられる。
よしよしの関。所在不詳。この関こそ、何回とどう思い返したのか知りたいものだ。それを勿来の関というのであろう。
逢うことなどをもしそう思い返したなら、さぞ心細いことだろうよ。関の縁で逢坂とした。
【一一二】
森は、山城国久世郡。浮田の森。うへ木の森、所在不明。
大和国平群郡。岩代国岩瀬郡にある、岩瀬の森。たちぎきの森。所在不明。
【一一三】
原は、あしたの原。【一六】にもある。
近江の国、粟津の原・篠原。
紀伊国日高郡。萩原。
園原、【一六】にもある。
【一一四】
卯月の晦日頃に初瀬に詣でて、淀川を渡るということを経験したが、舟に車を担ぎ込んで固定して、菖蒲・菰の短いのを刈らせたが、これが意外と長い。菰を積んだ舟が通るのも興味があった。神楽歌に、
「こも枕高瀬の淀に刈る菰のかるともわれは知らで頼まむ」
【注】淀川が河内国茨田郡高瀬郷を流れるあたりを高瀬川と称し、その淀を高瀬の淀とよぶ。
とあるが、こういう風景を詠んだのだと思われて。
三日目の帰りに雨が少し降り出したのを、菖蒲を刈るといって、小さな傘を頭に被って
すねを長々と出した男の子などがいるのも、屏風の絵にあるのと同じで興味がわいた。
【一一五】
いつもとちがって聞えるもの。
正月の車の音。また、鳥の声。
明け方の咳払い。暁の笛の音は亦格別である。
【一一六】
絵にかくと実物より劣って見えるもの。
ナデシコ・菖蒲・桜。
物語で立派だとほめている男や女の容貌。
【一一七】
絵が勝る物。
松の木・秋の野・山里・山路。
【二一八】
冬は大変に寒い。夏は世の人は知らないが私は熱い。
【一一九】
深くしみじみと心が引かれるもの。
孝心ぶかい子供。
身分のよい男で年若いのが吉野山の高峰金峰山で長期の精進、御嶽精進を勧業した。
家人と間を隔てて住み、勤行している暁の礼拝など大層胸を打つ。
睦まじい人などが目をさまして聞くだろうがそれを思いやる気持。
御嶽参詣中の様子はどんなだろうかと慎ましみ恐れているのに、無事に京に帰者したのは大変に目出度いことである。
烏帽子姿が少しみっともない。偉い方と申してもやはり御嶽はひどく粗末な服装で参詣するものだと聞いている。
右衛門の佐(えもんのすけ)宣孝(のぶたか)は紫式部の夫である。その人が、
「つまらぬ習慣だ。ただもうきれいな衣服を着て詣でるのに何の障りがあろう。まさか必ず粗末な恰好で詣でよとは御嶽は決しておっしゃるまい」
作品名:私の読む「枕草子」 101段ー133段 作家名:陽高慈雨