私の読む「枕草子」 101段ー133段
襲の色目。表紅、綾の糸を固くしめて文様を織り出した固紋。裏紫、糸を浮かせて織り出した浮き紋。の衣装などは、紅の打衣を袿三枚の上に直接重ねて召しておられる。
「紅梅の衣には濃い紅の打衣がうつりますね。それが着られないのは残念です。尤も今の季節では紅梅は着ないでもよいはずですね。でもわたしは萌黄などがきらいなのでね。どうも紅に合わないわ」
などと仰ってますが、ただただ大変に美しく見えた。
お召しになる衣裳の色が格別な上に、そのままお顔の美しさがてり映えておられる、それを見ると、もうお一方もやはりこのようにお美しいのかと心がひかれることだ。
そうして、中宮が膝行して入られたので私もそのまま屏風にひっついて見ていると、
「いけません。まあ心配なこと」
と、聞えよがしに女房達がいうのも面白い。
障子が広く開いているので大変好く見える。
道隆の夫人責子、上は白い衣であるが、紅の板張りして光沢を出した衣二つほどに、娘とはいえ中宮への礼儀として女房の裳を借りて着た様である。奥で東向きでお座りになっておられるので、ただ着ている衣装だけが見える。
淑景舎は北に少し寄って南向きに坐っておられる。紅梅がさねの衣を何枚も濃淡に重ねて上に濃い紅の綾織物、少し赤みのある小袿
、蘇枋の織物、萌黄若やいだ固紋の衣。扇をじっとかざして顔を隠しておられる。とても目出度く美しく見えた。
殿の道隆さまは、薄紫色の直衣、萌黄の織物指貫、紅の衣などに直衣のえりもとの紐を留めて、廂の柱に背中をあてがって此方向きに坐っておられる。目出度い光景を笑顔でいつもの冗談を言われる。
淑景舎が大変美しく絵に描いたようにして坐っておられるのに、中宮はとても穏やかな姿、妹に比べると少し大人びて見える、そのお顔が紅の衣に一段と映えておられ、これ程の方は到底他にあるまいと私は思った。
十二単についてはネット「十二単 資料 Maccafushigi」
http://www.bb.em-net.ne.jp/~maccafushigi/mac/1.htm
に詳しい説明が絵入りでありますので是非ご覧下さいませ。
この段で言われている、中宮の住んでいる登花殿(登華殿)妹の原子の住む淑景舎は、淑景舎から廊下を渡って西へ、宣耀殿、貞観殿と渡廊を渡って行けば何のことはない身近いところに二人は住んでいた。それが文通だけとは、私たちは想像できない。そうして、いよいよ面会。姉妹がしかも隣に住んでいる者同士が・・・・この仰々しい準備、親もやってくる。
何やってんだろうと読みながら平安の昔を思っています。
御手水をお使いになる。あちらのお方(淑景舎)の御手水は、宜耀殿・貞観殿を通って童女二人下仕え四人がかりで運んでくる。唐風の庇で屋根が反っている登花殿東面の貞観殿に通ずる反渡殿の廊下に女房六人ばかりが控えている。場所が狭いというので、淑景合方の女房のなかばは送りだけして皆帰ってしまった。桜がさねの汗衫に萌黄や紅梅の衣を重ねて汗衫の裾を長く引いて御手水をお取次ぎする、大層優稚でよい。
織物の唐衣を脇に脱ぎ垂らして、藤原師輔の四男遠量の子供、右馬頭藤原相尹の娘、少将の女房、藤原師輔の七男遠度の娘、宰相の君が中宮の側近くに侍している。
少し惹かれる光景だなと眺めていると、中宮方の御手水は当番の采女が青色で裾濃に染めた裳に、唐衣、裙帯、領布の正装で、顔を真っ白に塗って下仕などがお取次する間、これまた格式ばり支那風で面白い。
お食事の時になって、理髪の女官が参上して、女蔵人などお給仕役の髪を結び上げてさし上げる間は。仕切りの屏風も押し開けているので、それを垣間見ている私は、鬼が持っているという着ると姿が見えなくなる隠れ蓑を剥がれた感じがして、面白くないので、御簾と几帳のあいだで、柱の外から見ていた。衣の裾、裳などが御簾の外にはみ出されているので、殿の関白道隆は端の方から順に、
「あれは、誰それである。あの御簾の間から見えるのは」
と一つ一つ言われるのを、
「清少納言が見たがっておりますのでしょう」
と中宮が道隆に申される。
「なんと恥ずかしいことで。あれは古馴染なのに、大層醜い娘達を持っているとでも思うぞ」
なんって道隆様は言われる。いかにも得意な御様子だ。
淑景舎方でもお食事をされる。
「ご満足できるように、方々のお食事はみなまいったようですな。早く召し上って、爺婆(関白夫妻をさす謙辞)にせめておさがりでも下さいませ」
中宮、淑景舎姉妹の父母は冗談を言って一日を過ごされるほどに、伊周、道隆の嗣子、この年二十二歳、隆家、伊周の弟。正暦五年従三位左中将、この年十七歳。松君(伊周の長男道雅の幼名)を連れて参上された。
(清少納言はこの年三十歳)
殿は松君を待ちかねたように抱き取られて膝にお据え申された、実に愛らしい。狭い縁に仰山な束帯の下襲がひろげられている。大納言殿は重々しく綺麗だし、中将殿は大層品がよく、どちらも立派なのを拝するにつけ、殿は勿論として、奥方の御運勢こそ実にたいしたものだ。
「さあ御円座を」
殿がお勧めになるけれど。
「陣の方で職務に就きます」
と言って立ち去りなされた。
しばらくして、式部省の第三等官の某が、
主上のお使として参上したので「御膳やどり」の北に寄った部屋に褥を用意した。ご返事は今日はすぐに出された。
その褥を片付ける前に東宮のお使い、道隆の六男。長徳元年(九九五)正月少将、周頼(ちかより)が参上した。東宮の文を戴いて、渡殿は細い縁であるので此方の縁に褥を用意した。東宮の文を開いて殿・主上・宮と次々とご覧になる。
「お返事を早く」
と言われるが、淑景舎は急にはお書きにならないのを道隆は
「わたしが見ているのでお書きにならないのでしょう。さもない時は此方から始終お上げなさるそうですのに」
などと言われるので、淑景舎はお顔をすこし赤らめて、少し微笑まれる。可愛らしい。
母親の貴子は、
「本当に早く」
など言うのを中宮も聞かれるので、淑景舎は奥の方を向いて書き始めた。中宮も寄り添って二人して返事をお書き上げになり、淑景舎は一層きまり悪そうだ。
中宮方より周頼少将への禄として。萌黄の織物の小袿、袴を出されたので三位の中将が
肩におかけになる。周頼少将はいかにも頚が苦しそうにいただいて席を立った。
松君が片言まじりに愛らしく口をきかれるのを、誰も彼もかわゆくお思い申される。
「宮さまのお子様として人前に出したとしても、不似合ではありますまいな」
祖父の道隆が言われるのを、成る程どうして中宮には今(長徳元年)に至るまで皇子御誕生の事がないのかと気がかりなことだ。定子の初の御産は翌二年(九九六)十二月
(写真はネット風俗博物館から転写。「仰山な束帯の下襲がひろげられている」)
未の時(午後二時)頃に、
「筵道(えんどう)筵の用意を」
というほどもなく、主上が衣ずれの音を立てて入御されたので中宮も同じ部屋にお入りになる。そのまま御帳台に入られたので、出仕の女房達は全員南面すなわち正面の部屋へざわざわと入って坐った。廊には殿上人が多数侍していた。殿道隆の御前に中宮職の役人を召し寄せて、
作品名:私の読む「枕草子」 101段ー133段 作家名:陽高慈雨