小説が読める!投稿できる!小説家(novelist)の小説投稿コミュニティ!

二次創作小説 https://2.novelist.jp/ | 官能小説 https://r18.novelist.jp/
オンライン小説投稿サイト「novelist.jp(ノベリスト・ジェイピー)」

私の読む「枕草子」 101段ー133段

INDEX|1ページ/8ページ|

次のページ
 
【一〇一】

 お身内の女の方々、貴公子方、殿上人など御前に多くの人が侍しておられるので、私は廂の柱に寄りかかって同僚女房と話をしていると中宮が何か物を投げて寄越された。開いてみると、
「愛してあげたものでしょうか、どうでしょう。もし第一でないならばいかがですか」
と、書いておられた。

 中宮御前でお話をするついでにも、
「ぜんたい人から第一に思われるのでなくては、何のかいがあるでしょう。ただもういっそ憎まれたり悪く扱われたりする方がましです。第二第三では死んでもいや。どうしても第一でありたい」
などと言うと、
「一乗の法というわけでしょう」
と人々は言って笑うのも道理である。

【一乗の法】いちじょうのほふ
 この世のすべてのものを悟りに導き、成仏させる唯一無二の教え。「法華経(ほけきやう)」をさす。比類のない物事のたとえにも使う。
◆仏教語。「乗」は衆生(しゆじよう)を彼岸(ひがん)に運ぶ乗り物の意で仏の教えのたとえ。「一乗」は唯一の乗り物の意。
(ネットより)


 筆や紙を賜って、
「十方仏土之中。以西方為望。九品蓮台之間。雖下品応足。極楽寺建立願文 慶滋保胤
 十方仏土(じつぱうぶつど)の中(なか)には、西方(さいはう)を以(もつ)て望(のぞみ)となす、九品蓮台(くぼんれんだい)の間(あひだ)には、下品(げぼん)といへども足(た)りぬべし
 仏の国土は十方にあるけれども、そのなかで西方の阿弥陀如来の極楽浄土に生まれることを望みとしたい。その西方浄土の九つの種類の蓮のうてなのうち、下等の下品往生であっても満足である」

 などを書いてお見せしたところ、
「ひどく悲観してしまいましたね。不満足です。一旦言い切ったことは、そのまま押し通すのがよいのです」
中宮は仰る。私は、
「それは相手によってちがいます」
 と、申し上げると、
「そこが可笑しいのです。第一の人からまた第一に思われようとそう思うものですよ」
 と仰せになるのも、面白い。

【一〇二】
関白道隆の子藤原隆家中納言が参上してこられて、扇を差し上げなさろうと、
「隆家は素晴らしい扇の骨を得て参上いたしました。その骨に扇の紙を貼らせようと思うのですが、普通の紙では格が落ちます、探しております」
 と、中宮に申し上げる。中宮は、
「いかなる扇の骨ですか」
 とお問いになると、
「何もかもたいしたものでございます。『このような骨をまだ見たことがない』とみんなは申しております。まことの処このような骨は見付けにくい物です」
 と、声を大にして隆家中納言は言われる。そこで、私は、
「それでは扇の骨ではなくて海月(くらげ)の骨というわけでしょう」
 と、申し上げると、
「これは私の言葉にしてしまおう」
 と、中納言が言われるので、どうしようもない。こんなことこそ聞き苦しいことの中に入れておくべきだけれど、一つもぬかすなと皆さんが言うので、どうしようもない。

 
【一〇三】

 雨がひき続き降る頃、今日も亦雨で、主上のお使いとして藤原信経式部の丞が参上された。常のように褥を出したのだが、遠くに押しやって信経は坐っているので、
「いったい誰がこれに坐るのですか」
 私が言うと彼は笑って、
「このような雨の日に参上いたしましたならば、足跡がつき甚だ具合悪く汚くなりましょう」
 と、言うので、
「なんの。それこそ洗足、氈褥(せんぞく敷物の意)の用になりましょう」
と、私がさらに言うと、
「その言葉はあなたがうまくおっしゃったのではない。もし私が足跡(洗足)のことを申さなかったら、とてもおっしゃれなかったでしょう」
と言うので可笑しかった。
「早く中后の宮(村上天皇の皇后安子。藤原師輔の女)の処に『犬抱き』という有名な下仕えがいる。美濃の国の守で亡くなった藤原時柄(ときがら)が蔵人でいた頃に下仕えが休憩所に立ち寄って、『これこそはあの有名なえぬたきさん、なぜその名のように抱いてお見せなさらぬ』と言う。答えは、『それは時がらでそうも見えるのでしょう、時柄様』
と、答えたそうだ。競争相手に選んでも、どうしてそれ程の秀句があろうかと、上達部、殿上人までがいい答えであると仰った。

「またその通りだったのでしょう、今日までこうして言い伝えているのは」
 と私は信経に申した。

「それはまた時がらがよくて言わしめたのでしょう。万事ただ題がら(題次第)で、詩文でも和歌でもうまくゆくのです」
と言うので、
「なるほどそれもそうです。では題を出しましょう。歌を詠んでください」
 と私は言う。
「それは宜しいことで」
「御前で、同じことなら沢山詠みましょうよ」
などと言っていると中宮から主上へのお返事が出来て来たので、
「やあ、これはやられました。退散退散」
と言いながら信経(のぶつね)が帰ろうとするので、思い切り笑って、
「あの人は漢字も仮名も下手なのを、人が笑いなどするので、ひた隠しにしているのですよ」
と言ってやったのも、面白かった。

作物所の別当をしている頃に、誰の所に頼んだのか、絵がうまいと言うことで、
「この通りに調進しなさい」
と書いた漢字の書風や字体がまたとなく変なのをわたしが見つけて、その文の端の方に「この通り調進したならさぞ妙な事でしょぅ」
と記入して、殿上に送ると、みんながそれを見て、大いに笑ったので、大変腹を立てて憎まれたことであった。

【一〇四】

関白道隆の二女原子。長徳元年(九九五)正月十九日東宮の妃となり淑景舎(しげいさ)(桐壷)に住む。「東宮」冷泉天皇の皇子居貞親王。後の三条天皇。何ひとつすばらしくないことはない。正月十日に東宮の御もとへまいられて中宮にお手紙などは頻繁に交されたが、まだ姉妹が会って話されることはなかったのだが、二月十余日、淑景舎原子は中宮の御殿にお渡りになる旨のおたよりがあり、いつもよりも室内の御設備や装飾など格別念を入れて立派に仕上げ、女房なども一同心用意をした。
夜中に主上がお出でになり、しばらくして夜が明けた。

 当時中宮定子の御居所である登花殿の東廂の二間を仕切って設備や飾りつけをした。

淑景舎は宵に来られて翌日御滞在の予定なので、我々女房は御厨子棚を据え御膳を納める所「御物やどり」に面した渡殿に伺候することになる。

暁に父親の関白道隆(四十三歳)とその夫人貴子とが同車で参上された。
その翌朝、はやばやと御格子を全部上げて
中宮はお部屋(二間)の南側に西東にお席を設けて四月の屏風を北向きに立てて、畳には褥だけを置いてお火鉢を御用意した。
屏風の南、帳台の前に、女房多数が侍す。

 此方で中宮が御理髪などなさる時分に、
「淑景舎をお見あげしたことがありますか」
 と言われるので、
「いえ、まだとても・・・・。積善寺(さくぜんじ)供養の日に、ただ後ろ姿だけをちょっと」
 とお答えすると、中宮は、
「その柱と屏風の間に坐って、私しの後ろからそっと見なさい。大層綺麗な方ですよ」
 と仰られたので嬉しくて、拝したさが募って早く早くと思う。