私の読む「枕草子」 93段ー100段
卯の花が見事に咲いている、車の簾の横側などにさしきれず、余りを屋根の覆いや棟などに長い枝で葺いたようにさしたところが、ほんに、卯の花の垣根を牛にかけたように見えた。供の男たちが笑いながら、
「ここがまだだ、ここがまだだ」
卯の花を差して回った。
誰かが訪ねて来てくれないかなと思うに、、賎しい法師や下僕のつまらないのばかりがひょっこり見える程度で、情けなくて、御所に近づいたけれども、
「たったこれだけですまされましょうか、この車の飾りを人に評判させて、それで終りにしましょう」
と、いうので、一条大宮にある故太政大臣藤原為光の邸に停めて、
「侍従殿は御在宅ですか、時鳥の声を聞いて今帰り道です」
と使いに言わせた。
*注 侍従とは為光の六男公信。長徳二年(九九六)九月侍従。後権中納言となり万寿三年(一0二六)薨去
使いに出した者戻ってきて、
「即刻参ります、暫くお待ちを。あなた」
という風におっしゃられた。侍所(従者の詰所)にくつろいでおられましたが、急いで立って指貫を召されました。と使者は言う。
待つこともないと思って車を土御門の方へ向けると、いつの間にか装束をきちんと着て、帯は道々結びながら、「しばらく、しばらく
」と追いかけてこられた。供の侍は三四人ばかり袴もはかずに走ってくる様子だ。
「速く走らせよ」
ますます急がして土御門に到着した丁度その時、侍従殿が息せき切ってやって来られて
、車を見て大笑いされる。
「正気の人が乗っているとは全然見えません。まあ下りて見てごらんなさい」
などと笑われるので、供の侍たちも同じように笑う。
「歌はいかがなされた、それをお聞きしたい」
と仰られるので、
「おっつけ、宮さまに御覧に入れましてから」
などといっているほどに雨が本降りとなってきた。公信は、
「何で他の多くの御門とはちがって、この土御門に限り、こう屋根をつけなかったのかと、今日という今日は実にくやしい」
などと言って、
「何として今更帰れよう。此方へ来る時はただ遅れまいの一心で人目もかまわず走られたが、この上帰ってゆくことは実際面白くもない」
と、仰られたので、私は、
「それでは、さあどうぞ御所へ」
と言う。
「烏帽子では何として参れましょう」
一般侍臣の参内は束帯または衣冠を着用し、冠をかならずつける例であったから。私は、
「取りに行かせたらどうです」
などという。両が本降りになったので傘もない男たちはずんずん牛車を門内に引き入れてしまう。
一条殿から傘を持ってきたのを侍従は供人にささせて後を振り返りながら、この度はゆっくりと何となく気がすすまない様子で、卯の花をちぎっておられるのが面白い。
そうして、中宮の御前に参上すると、いかがだったかとお聞きになる。同道できずにくやしがった人々は、うらんだり文句を言ったりしながら、藤侍従が一条大路を走って追っかけてきたことを話すと、みんなが笑い転げた。
「ところで、歌は何処ですか」
と中宮が問われるので、これこれの次第ですと申しあげると、
「まあ残念なこと。殿上人などが聞きつけるでしょうに、どうして一つも面白い歌がなくてすむでしょう。その沢山聞いたという所ですぐに詠めばよかったのに。あまり格式ばったのがいけないのですよ、ここでもよいから詠みなさい。ほんとうにつまらないこと」
と、仰せになるので、本当にと思うと大変に辛い、相談などしている時に、藤侍従が、
先刻持ち帰った卯の花に結びつけて、卯の花色の薄様に歌を書いてよこした。この歌は記憶にないが多分、
郭公なく音たつねに君行くと
きかば心をそへもしてまし
こんな歌であったろう。
この歌の返歌をまずしないとと硯を取りに局へ行かせると、中宮が、
「これを使って早く書きなさい」
硯の蓋に紙を置かれて差し出された。
「宰相の君書きなさいよ」
私は一緒に行った才女の名が高い同僚の宰相の君に言う。彼女は、
「あなたがどうそ」
と言っていると一天にわかに曇って雨が降り出してひどく雷鳴が響きだしたので、何も考えられず唯恐ろしく、格子をあわてて次々下ろすうちに、返歌のことも忘れてしまった。
だいぶん立って少し雨が小降りになると、暗くなる。やはり侍従殿への返歌をお届けしようとして机に向うところに、女房達や上達部などが雷見舞いに参上されたので、わたしは西の間に坐って応接などするのに紛れて返歌のことなど忘れてしまった。
他の女房にしても、歌を貰った当人(すなわち私)が返歌すればよいというのでそのままになってしまう。やはり歌に縁のない日らしいと気が塞いで。
「今後はもう時鳥を聞きに行ったとさえ人にはあまり知らせますまい」
など言って笑う。
中宮は、
「今からだって、何でその一緒に行った人皆で詠めないわけはないでしょう。それでもう詠むまいと思っているのですね」
と、不快そうな御様子なのも大層おもしろい。そうであっても、
「もう興味がさめてしまったのでございます」
と、申し上げる。
「興ざめしてよいことですか」
と、色々と仰るがそれで一応すんでしまった。
二日ばかりして先日のことなどを話していると、宰相の君が
「どうでしょう、あの『自分で折った』と言った下蕨は」
と言うのをお聞きになって
「何を思い出すかといえばまあ」
と中宮は笑われて、そこらに散った紙の一つに、
「下蕨こそこひしかりけれ」
と書き付けられて、
「本を言いなさい」
と仰せられるのも大変味のあることだ。
「ほととぎすたづねて聞きし聲よりも」
と、書いて差し上げると、中宮は、
「ずい分思い切って言いましたね。何でこれ位でも時鳥のことを気にかけたのでしょう」
と、お笑いになるのも恥ずかしいのであるが、
「どういたしまして。私はもうこの歌というものを詠みますまいと、そう思っているのでございますもの。何かの折など、人が詠みますにも、もし私に詠めなどおっしゃいますと、とてもお仕えできそうにない気がいたすのでございます。もちろん私といたしましても、どうして歌の字数を知らなかったり、春は冬の歌を、秋は梅の花の歌を詠むわけがございましょう。そうであっても歌よみといわれた人の子孫であれば、すこしは人並以上の歌を詠んで『その折の歌はこれが最上だった、それは何といってもあの人の子なのだから』など評判されるのでしたら、それこそ詠みがいもある気持もいたしましょう、私のように何一つとりえもなく、そのくせいかにも歌らしく、我こそはといった風に、最初に詠んでお出しするなんて、亡き父のためにも気の毒な次第でございます」
と、本気になって申し上げると、お笑いになって
「では好きなようにしなさい。わたしはもう詠めともいうまい」
中宮が仰られるので
「大層気楽になりました。今後は歌のことを気にいたしますまい。」
と言っている頃に庚申をすると言われて、
伊周の大殿(おおいどの)主催者としてひどく心用意をしておられた。
夜が更けてくる頃、中宮は題を出されて女房に歌を詠むようにと言われる。一同様子ぶって苦吟するのに、私だけは中宮のお側近く伺候して何やかや申しあげ、別の事ばがりいうのを、大臣が見とがめて、
作品名:私の読む「枕草子」 93段ー100段 作家名:陽高慈雨