私の読む「枕草子」 86段ー92段
二くくりを与えられるとして、縁に並べたのを一人づつ次々に取って、拝礼して戴いた巻き絹を腰に差してみんなは退出した。いつも束帯の袍を着ている人々(宮司等)は、先刻狩衣に着かえたそのままの服装で控えていた。
「この雪山はいつまで融けずに有ろうか」
みんなが言うので、女房達は、
「十日はあるでしょう」
「十日以上あるはよ」
これ位の期間を全部の女房が申しあげると
中宮は、
「どうですか、清少納言」
と問いかけられたので、私は、
「正月の十日すぎまではございましょう」
とお答えしたのに、中宮にも、まさかそれ程はあり得まいとお思いになった。
女房達全員が年内大晦日までも持たないであろう、と申すので、自分の答えはあまりにもかけ離れていると思い、なるほど皆のいう通り、それまではとてももつまい、正月一日位にいうべきだった、と内心思うけれども、
ままよ、そうまではなくても、一旦言い出したことは引っ込められないと思って、頑固に争った。
師走の二十日頃に雨が降ったが消えそうな様子もない。少し高さが低くなったかな。凡河内躬恒が北陸国に下った時、白山を見て詠んだ詠
消えはつる時しなければ越路なる
白山の名は雪にぞありける
を思い出して、(古今集414)
『加賀国白山の十一面観音、この雪を消さないでください』
と、祈るが常軌を逸している。
師走の十日過ぎに大雪
長徳四年(九九八)十二月十日。この日大雪だったことは伏見宮家蔵権記に見える。
白山の観音
加賀国白山の十一面観音。古今集、九羈旅、躬恒の歌(414)
(岩波書店日本古典文学大系)
ところで、その雪山を造った日、主上の御使として式部省の三等官源忠隆(ただたか)
が参上して来たので、簀の子に褥を差し出して話をすると、
「今日は雪山をお造りにならなかったところは有りません。清涼殿の西の中庭にもお造りなされた。居貞親王(冷泉天皇第二皇子)、後の三条天皇当時は春宮であった。東宮殿にも女御義子が住まわれる弘徽殿にも造られました。左大臣道長の邸京極殿にも造られました」
などと言うと、
ここにのみめづらしとみる雪の山
所々にふりにけるかな
(雪の山は此処だけに作ったと思いましたら、さては方々で作られ、一向珍しくもなかったのですね)
と、私が傍の女房の口から伝えさせると、忠隆は何度も首をかしげて不審がり、
「めったな返歌をして御作をけがすのは慎しみましょう。風流なものだな。御簾の前で皆さんにご披露いたしましょう」
と言って、立たれた。忠隆は大層歌が好きだそうなのに妙な事だ。中宮はお聞きになって、
「特別上手にと思ったのでしょう」
とおっしゃられた。
晦日の日に雪山は少し小さくなったようではあるがそれでもまだ高々と有った。
お昼頃に簀の子に人々が出て居たところに、老尼法師の常陸の介がやって来た。
「どうした、久しぶりに現れたな」
と言うと、
「いやなに。不愉快なことがありましたので」
と言う。
「どんなこと}
と尋ねると、
「やはりこう思いましたのです」
と言って、長々と語尾を引いて詠い出す
うらやまし足もひかれずわたつ海の
いかなる人にもの賜ふらん
(ああ羨しい、あの尼がどんな人だからといって、足も引かれぬくらい沢山の下され物をしたのでしょう)
あの常陸の介が来た後に来た尼法師はびっこだったのだ。と言うのを憎み笑いしながら聞いて、誰もが常陸の介を見ようともしないので、雪の山に登りあちこちと踏み歩いて出ていった後で、右近の内侍にこういうことがありましたと話すと、
「どうして人をつけて此方へおさし向け下さいませんでしたか。あれがきまり悪い恰好で雪の山まで登り歩いていったとはまあ実にかわいそうな」
と言うのでまた笑う。
さて、問題の雪の山は平気な様子で。依然消えなくて、新年を迎えた(長徳五年)。
正月一日の夜に雪が多く降ったのを、
「嬉しいこと、また雪が積もる」
と見ていると、中宮が、
「これはいけない。はじめの分だけそのままにして、いま降り積もる分は、払い捨てなさい」
と、仰せになる。
宿直して翌朝大層早く局へ退出すると、斎院司の侍の頭が、ゆずの葉のように濃緑の宿直着袖の上に、松の枝に付けた青い紙を置いて寒さにふるえながら出てきた。
「それはどこからのお手紙ですか」
と問うと、
「加茂の齋院からです」
というので咄嗟にすばらしく思って,それをうけ取り中宮の前に参上した。
中宮はまだ御就寝中なのでまず御帳台に面した御格子を、碁盤などひき寄せて台にし、ひとりで我慢してかき上げる、大変に重い。
一人では片方しか上げられないので格子がきしきし鳴るのである。そのきしむ音で中宮は目を覚まされて、
「どうしてそんなことをするのですか」
と、仰っしゃられるので、
「斎院からお手紙がございましたからは、どうしてみ格子を急いで上げずにいられましょう」
と申し上げると
「なるほど早いお手紙でしたね」
と言われて起床された。
お文を開かれると、五寸ばかりの卯槌(うづち)二個を、卯杖の先に頭を包んで山橘。日かげ・山菅(やますげ)かわいらしげに飾りつけて、文はなかった。何もないわけはなかろうとしっかりご覧になると卯杖の頭を包んでいる小さな紙に
山とよむ斧の響きを尋ぬれば
いはひの杖の音にぞありける
(山も鳴り渡る斧の響は何かと調べると、それはほかならぬ卯杖の音であった)
源忠隆(みなもとのただたか、生没年未詳) 平安時代中期の武士・官人。源満政の次男。兄弟に忠重、忠国らがあり、子に斉頼、忠清、重隆、隆仲、重明、義経らがある。官位は正五位下、検非違使、左衛門尉、蔵人、駿河守(『尊卑分脈』)。
『枕草子』第7段及び85段に一条天皇に仕える六位蔵人として登場し、同書三巻本の勘物によれば長保2年(1000年)正月に蔵人に任ぜられたとある。翌同3年(1001年)からは右衛門少尉を兼帯(『権記』)。寛弘元年(1004年)正月には蔵人式部丞となり、翌同2年(1005年)正月に叙爵(三巻本『枕草子』)。寛弘5年(1008年)頃には相模権守となっている(『御産部類記』)。
卯槌 う‐づち
平安時代、正月初の卯の日に中務(なかつかさ)省の糸所(いとどころ)から邪気払いとして朝廷に奉った槌。桃の木を長さ3寸(約9センチ)、幅1寸四方の直方体に切ったもので、縦に穴をあけ、5色の飾り糸を5尺(約1.5メートル)ばかり垂らし、室内にかけた。
(ネットから)
ご返事を中宮がお書きになるのもご立派なことである。やはり斎院には、此方からさし上げられる場合もお返事の場合も、格別念入りに、何度も書き直しをされ、心づかいの程が知られる。御使いに白の織物の単衣、蘇枋色の梅がさね(表裏蘇枋)らしい。雪が降りしきる時肩にかけて帰参するのもきれいに見える。ただ、斎院に宛てられた中宮の御返歌を知らずにすんでしまったとは残念なことだ。
作品名:私の読む「枕草子」 86段ー92段 作家名:陽高慈雨