私の読む「枕草子」 86段ー92段
【八六】
ところで中宮が陽明門奥の中宮職に居られたときに「左右衛門の陣」を見ようと出かけた後に、許しを得て里に帰っていた頃のこと、
「早く参上しなさい」
と、中宮側近の女房がお言葉そのままを書いて寄越した文の端に、女房が、
「左右衛門の陣に見に行こうと行ったときの貴女の後ろ姿が常に思い出されます。何であなたはあの時にそっけなく無関心に振舞ったのでしょう。さぞや素晴らしいこととわたしは思いましたよ」
なんて書き添えてあった。
かしこまりましたと返事をして、端書きを書いた女房に、
「どんなに目出度いことと思っていることでしょう、宮さまにも『なかなるをとめ』と涼がほめたように、朝ぼらけを面白く御覧になりましたでしょうと、思った次第でございます」
と中宮への伝言を頼むと、使者はすぐに戻ってきて、中宮のお言葉、
「あなたは仲忠がひいきだそうなのに、涼の歌など挙げて仲忠のために不面目でしょう。今宵のうちに万事すべて始末をして参上せよ」
という伝え、さらに使いの者は、
「もしそうでなければ中宮様は大変お憎しみですよ」
と付け加えたので、
「一通りのお憎しみでもおそれ多い。まして「大変」とのお言葉に命も身も捨ててしまおう」
という思いで参上した。
【八七】
中宮が職の御曹司においでの頃に、西廂の間で、僧十二人を輪番に、大般若経・最勝王経・法華経等を昼夜間断なく読誦させる、不断の御読経の会が催されたが、仏の画像などをおかけ申し、僧侶達が伺候しているのはいうまでもないことだ。
二日ばかりの後、縁側に下賎な者の声で、
「なおまだ仏のお供えのお下がりはあるだろう」
「まだこんなに早く、何であるものですか」
と、答える声がするので、何者が言っているのかしらと思って、外に出てみると年寄じみた尼法師がすごく煤けた衣を纏って猿みたいな顔で言っていた。
「お前は何を言っているのだ」
と言うと、気取った声で、
「
「私は仏の御弟子でございますので、お供え物を食べたいと申しますのに、この御坊達は惜しみなさる」
と、言う。陽気で優雅に見える。こういう者はしょんぼりしているのが哀れなのだ、それを馬鹿にはしゃいでいるな。
「異物はは食べないでただ仏壇のお下がりだけを食べるか」
と言うと、様子を見てこの老尼法師は、
「何としてほかの物も食べないことがありましょう。それがございませんからこそ、おさがりを頂くのですよ」
と言うので、果物、のし餅などを物に入れて与えると、馬鹿に親しくなって世間の色々なことを話し出した。
若い人達が出てきて、
「夫がいるの」
「どこに住んでいるの」
などと尋ねる。おかしな冗談を言うと、
「歌を唄うのか、、踊りが出来るのか」
色々と果てしなく質問をするのが終わらないうちに、汚れた尼法師は、
「夜は誰とか寝ん 常陸の介と寝ん 寝たる肌よし」
と歌い出す、この歌の終わりの句はたくさんの言い方がある。また、
「男山峰のもみぢ葉、さぞ名は立つや、さぞ名は立つや」
と俗歌を唄い踊って頭を振り乱す。本当に下手な歌と踊りに苦笑をして若者達は
「帰れ帰れ」
と言う。私は、
「かわいそうに、この人に何かあげたら」
と言うのを中宮はお聞きになって、
「何とまあひどい、なぜそんな聞き苦しいことをさせたのですか。聞いていられない、耳を塞いでいますよ。その衣一つをくれて早くここから立ち去らせなさい」
と仰せになるので、
「これを賜ったぞ。着物が煤けているようだ、これを着てさっぱりおなり」
と言って投げて与えると、伏し拝んで、殿上人が頂き物をした時のように、肩において拝舞するとは、呆れたことだ、とみんなが内に入ってしまった。
当時の風習、成年に達した女子は毛抜で眉を抜き、その上に眉墨を引く。
「なかなるをとめ」
宇津保物語、吹上の下、源涼「朝ぼらけほのかに見れば飽かぬかな中なるをとめしばしとどめん」と言う歌がありそれをヒントにしている。宇津保物語「吹上」下は、
神泉苑の紅葉の賀の夜、仲忠と涼が琴を弾き競うと、天女が降りて舞う。仲忠が琴に合わせて、「朝ぼらけほのかに見れば飽かぬかな中なる乙女しばしとめなむ」と詠ずると、天女はさらに一舞いして天に昇った。
【職の曹司】しきのぞうし
中宮職の一局。内裏の東北,左近衛府の西,梨本の南にあり,皇后・中宮の移御のほか,内裏焼失の際などには天皇の渡御があった。職の御曹司。
「夜は誰とか寝ん 常陸の介と寝ん 寝たる肌よし」
「男山峰のもみぢ葉、さぞ名は立つや、さぞ名は立つや」
老法師が唄い踊るのは当時の俗歌か、男山の方は、古今集、十七雑上、読人しらず「今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを」(今はこんな年寄りだが、私だって以前は男山の坂を登っていくように、男盛りで栄えていく時もあったのだよ)(889)、またはこれに類した俗謡による隠語か。
(ネット参照)
老尼法師はその後馴れ馴れしく常にわざと人目につくように歩きまわる。唄い踊った文句のまま「常陸の介」と言う呼び名を付けられた。着物も白いのに着かえず前と同じ煤けたのでいるので、一体何処へやったのかと憎らしがる。
主上附きの女房、右近の内侍が中宮の許に参られたので中宮は、
「皆はこんな者を手なずけて大事にしてるんですよ。うまいこと言ってはよくやってくること」
と、言われてあの時の様子などを小兵衛という女房に真似させてお聞かせになると
「私も何とかしてそれを見とうございます。皆さんの御ひいきと見えます。まさか私が横取りなど決して致しません」
と言って笑う。
それから後また尼の乞食が大層品よく現れたのを呼んで話などをすると、この乞食は、
恥ずかしそうにしてとても哀れに見えるので
、例の通り中宮から衣一枚下されたところ、ふし拝むのはまだよい、はては嬉し泣きに泣いて出ていったのを、老尼法師の常陸の介が
偶然出てきてそれを見てしまった。そうしてそのまま久しく現れないが、誰もそんな乞食の尼法師を思い出さない。
さて、師走の十日過ぎに大雪が降ったのを
下級の女官達が力を合わせて端の方に雪を寄せるのを、
「同じ事なら、庭の中に雪の山を造ったら」
ということで、侍達を多く呼ぶ。中宮様のお言葉です、と言うと大勢が集まってきて、雪山を庭に造る。主殿寮の役人でお庭の清掃に参上した者なども参加して高い山を造った。
中宮職(ちゅうぐうしき)の役人達も来て助言や批評などして興ずる。始めは三四人だった主殿寮(とのもつかさ)の者も出来上がったときには二十人ばかりになっていた。非番で自宅に退出していた侍を呼出しに使いを出したりまでした。
「今日この雪山を造るのに参加した人には、三日の休暇を下さるはずだ。また、参加しなかった者には同じ日数(三日)休暇を取り上げよう」
などの話が伝わると聞きつけた者は、あわてふためいて参上するのもいる。里の遠い者には通知が届かなかった。
雪の山をすっかり作り上げたので宮司を参上させて参加した者に当座の褒美として巻絹
ところで中宮が陽明門奥の中宮職に居られたときに「左右衛門の陣」を見ようと出かけた後に、許しを得て里に帰っていた頃のこと、
「早く参上しなさい」
と、中宮側近の女房がお言葉そのままを書いて寄越した文の端に、女房が、
「左右衛門の陣に見に行こうと行ったときの貴女の後ろ姿が常に思い出されます。何であなたはあの時にそっけなく無関心に振舞ったのでしょう。さぞや素晴らしいこととわたしは思いましたよ」
なんて書き添えてあった。
かしこまりましたと返事をして、端書きを書いた女房に、
「どんなに目出度いことと思っていることでしょう、宮さまにも『なかなるをとめ』と涼がほめたように、朝ぼらけを面白く御覧になりましたでしょうと、思った次第でございます」
と中宮への伝言を頼むと、使者はすぐに戻ってきて、中宮のお言葉、
「あなたは仲忠がひいきだそうなのに、涼の歌など挙げて仲忠のために不面目でしょう。今宵のうちに万事すべて始末をして参上せよ」
という伝え、さらに使いの者は、
「もしそうでなければ中宮様は大変お憎しみですよ」
と付け加えたので、
「一通りのお憎しみでもおそれ多い。まして「大変」とのお言葉に命も身も捨ててしまおう」
という思いで参上した。
【八七】
中宮が職の御曹司においでの頃に、西廂の間で、僧十二人を輪番に、大般若経・最勝王経・法華経等を昼夜間断なく読誦させる、不断の御読経の会が催されたが、仏の画像などをおかけ申し、僧侶達が伺候しているのはいうまでもないことだ。
二日ばかりの後、縁側に下賎な者の声で、
「なおまだ仏のお供えのお下がりはあるだろう」
「まだこんなに早く、何であるものですか」
と、答える声がするので、何者が言っているのかしらと思って、外に出てみると年寄じみた尼法師がすごく煤けた衣を纏って猿みたいな顔で言っていた。
「お前は何を言っているのだ」
と言うと、気取った声で、
「
「私は仏の御弟子でございますので、お供え物を食べたいと申しますのに、この御坊達は惜しみなさる」
と、言う。陽気で優雅に見える。こういう者はしょんぼりしているのが哀れなのだ、それを馬鹿にはしゃいでいるな。
「異物はは食べないでただ仏壇のお下がりだけを食べるか」
と言うと、様子を見てこの老尼法師は、
「何としてほかの物も食べないことがありましょう。それがございませんからこそ、おさがりを頂くのですよ」
と言うので、果物、のし餅などを物に入れて与えると、馬鹿に親しくなって世間の色々なことを話し出した。
若い人達が出てきて、
「夫がいるの」
「どこに住んでいるの」
などと尋ねる。おかしな冗談を言うと、
「歌を唄うのか、、踊りが出来るのか」
色々と果てしなく質問をするのが終わらないうちに、汚れた尼法師は、
「夜は誰とか寝ん 常陸の介と寝ん 寝たる肌よし」
と歌い出す、この歌の終わりの句はたくさんの言い方がある。また、
「男山峰のもみぢ葉、さぞ名は立つや、さぞ名は立つや」
と俗歌を唄い踊って頭を振り乱す。本当に下手な歌と踊りに苦笑をして若者達は
「帰れ帰れ」
と言う。私は、
「かわいそうに、この人に何かあげたら」
と言うのを中宮はお聞きになって、
「何とまあひどい、なぜそんな聞き苦しいことをさせたのですか。聞いていられない、耳を塞いでいますよ。その衣一つをくれて早くここから立ち去らせなさい」
と仰せになるので、
「これを賜ったぞ。着物が煤けているようだ、これを着てさっぱりおなり」
と言って投げて与えると、伏し拝んで、殿上人が頂き物をした時のように、肩において拝舞するとは、呆れたことだ、とみんなが内に入ってしまった。
当時の風習、成年に達した女子は毛抜で眉を抜き、その上に眉墨を引く。
「なかなるをとめ」
宇津保物語、吹上の下、源涼「朝ぼらけほのかに見れば飽かぬかな中なるをとめしばしとどめん」と言う歌がありそれをヒントにしている。宇津保物語「吹上」下は、
神泉苑の紅葉の賀の夜、仲忠と涼が琴を弾き競うと、天女が降りて舞う。仲忠が琴に合わせて、「朝ぼらけほのかに見れば飽かぬかな中なる乙女しばしとめなむ」と詠ずると、天女はさらに一舞いして天に昇った。
【職の曹司】しきのぞうし
中宮職の一局。内裏の東北,左近衛府の西,梨本の南にあり,皇后・中宮の移御のほか,内裏焼失の際などには天皇の渡御があった。職の御曹司。
「夜は誰とか寝ん 常陸の介と寝ん 寝たる肌よし」
「男山峰のもみぢ葉、さぞ名は立つや、さぞ名は立つや」
老法師が唄い踊るのは当時の俗歌か、男山の方は、古今集、十七雑上、読人しらず「今こそあれ我も昔は男山さかゆく時もありこしものを」(今はこんな年寄りだが、私だって以前は男山の坂を登っていくように、男盛りで栄えていく時もあったのだよ)(889)、またはこれに類した俗謡による隠語か。
(ネット参照)
老尼法師はその後馴れ馴れしく常にわざと人目につくように歩きまわる。唄い踊った文句のまま「常陸の介」と言う呼び名を付けられた。着物も白いのに着かえず前と同じ煤けたのでいるので、一体何処へやったのかと憎らしがる。
主上附きの女房、右近の内侍が中宮の許に参られたので中宮は、
「皆はこんな者を手なずけて大事にしてるんですよ。うまいこと言ってはよくやってくること」
と、言われてあの時の様子などを小兵衛という女房に真似させてお聞かせになると
「私も何とかしてそれを見とうございます。皆さんの御ひいきと見えます。まさか私が横取りなど決して致しません」
と言って笑う。
それから後また尼の乞食が大層品よく現れたのを呼んで話などをすると、この乞食は、
恥ずかしそうにしてとても哀れに見えるので
、例の通り中宮から衣一枚下されたところ、ふし拝むのはまだよい、はては嬉し泣きに泣いて出ていったのを、老尼法師の常陸の介が
偶然出てきてそれを見てしまった。そうしてそのまま久しく現れないが、誰もそんな乞食の尼法師を思い出さない。
さて、師走の十日過ぎに大雪が降ったのを
下級の女官達が力を合わせて端の方に雪を寄せるのを、
「同じ事なら、庭の中に雪の山を造ったら」
ということで、侍達を多く呼ぶ。中宮様のお言葉です、と言うと大勢が集まってきて、雪山を庭に造る。主殿寮の役人でお庭の清掃に参上した者なども参加して高い山を造った。
中宮職(ちゅうぐうしき)の役人達も来て助言や批評などして興ずる。始めは三四人だった主殿寮(とのもつかさ)の者も出来上がったときには二十人ばかりになっていた。非番で自宅に退出していた侍を呼出しに使いを出したりまでした。
「今日この雪山を造るのに参加した人には、三日の休暇を下さるはずだ。また、参加しなかった者には同じ日数(三日)休暇を取り上げよう」
などの話が伝わると聞きつけた者は、あわてふためいて参上するのもいる。里の遠い者には通知が届かなかった。
雪の山をすっかり作り上げたので宮司を参上させて参加した者に当座の褒美として巻絹
作品名:私の読む「枕草子」 86段ー92段 作家名:陽高慈雨