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私の読む「枕草子」 81段ー85段

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 唐の白楽天の歌行体の詩。七言古詩で八八句から成り、楽天が江州司馬に左遷された翌八一六年の秋の作。もと長安の名妓であった女が舟中で琵琶をひき身の上を語るのに同情し、左遷の身につまされて作ったもの。「長恨歌」と併称。

 藤原斉信(ふじわらの ただのぶ、967~1035)とは、平安時代の貴族である
藤原忠平の曾孫で、藤原道信の兄。藤原道隆、藤原道長、藤原義孝はいとこにあたる。

 藤原為光の次男として生まれる。和歌や管弦などの教養に優れ、政務にも長けていたため、道長の信頼を得た。最終的に大納言にまで昇進し、藤原公任・藤原行成・源俊賢と共に四納言と呼ばれた。清少納言とも交流があり、「枕草子」の中にもたびたび登場する。藤原公任の記事でも説明されているように、公任は斉信をライバル視していたようで、彼に官位を追い越されたことが原因で、引きこもってしまったこともある。

 ところで、斉信には誠信という兄がいた。この誠信は幼少期こそ公任のようにその才能を期待されていたが、二十歳過ぎるとただの人どころか、素行が悪い問題児になってしまった。このため、道長はダメな兄より優秀な弟の官位を引き上げ、これに怒った誠信は絶食したあげく、握りしめた指が手の甲を突き破って死んでしまったという。ただ誠信がボンクラだったせいか、斉信は兄の祟りを受けることもなく、無事に一生を送ることができた。

 扁つぎ(扁つきともいう)。
 漢字の扁を出して旁(つくり)を当てさせる遊戯。旁を出して扁を当てさせるともいう。
(ネット参照転載)


文を開くと

 蘭省花時錦帳下
(蘭省(らんしやう)の花の時 錦帳(きんちやう)の下(もと))
 と書いてあって、
「この後はどう続くのですか」
 と、問われている。さあどうしたらよいだろう、中宮がおられるならば御覧に入れることもできように、この続きを知ったかぶっておぼつかない漢字で書こうのも、本当に見苦しいこと、などと思いあぐねていると、使いにたった主殿司はしきりにせき立てるので、
その手紙の奥の余白に、炭櫃に消えた炭があるのでそれで、
「草のいほりをたれかたづねん」
 と藤原公任の歌をもじって書き付けて主殿司に渡したが、再び文は来なかった。

 みんなと寝て翌朝早く局に下ったところ、源宜方中将の声で、
「もし、草の庵はいますか」
 と大層もったいぶった声で言うので、
「変なこと、どうしてそんな人並でないものがおりましょう、『けふみれば玉の台もなかりけりあやめの草の庵のみして』、お尋ねになるならお返事しましょう」
と言う。
「嬉しいこと、局にいたな。御前で探そうとしたのだが」
 と、昨夜にあったことを

「頭中将の宿直室に多少人並な人ばかり、六位の蔵入までが集まって、いろんな方の昔今とを話が始まったついでに『やはりあの女、全く絶交して後は、よけいどうもほうっておけない』と、頭中将が話し始められ『なんか言ってくるかと待っているのだが、少しも何とも思っておらず、平気でいるのも癪なので、今夜という今夜、悪くもよくもどちらかにきっぱりきめてしまいたいものだ』

 と、言われまして、みんなで相談したあの手紙を、貴女は、
『今すぐには見ませんよ、と言って入られました』
 と、使いの主殿司が言いましたので、もう一回行ってこい、
『袖を掴んででも、有無をいわさず返事を貰って、持って来い、それが駄目であれば先ほどの文を奪い返してこい』
 ときつく言いつけて、ちょうどひどく降ってきた雨の中を使いに出しましたが、すぐに帰ってきて、
『これです』
 と、差し出したのが先ほどの文であったので、取り返してきたのだなと開けてみると、

と同時に頭中将はあっと声をあげたので、どうしたのだとみんなが寄って見てみると、
『これは大した曲者だ、やはり見捨てることはできまい』
 と、みんなが中を見て騒ぎ、
『この句の上の句をつけてやろう。源中将付けてみなさい』
 などと言いながら深厚までなかなかよい句がつけられず、結局つけずにすんでしまったこのことは、この先の語りぐさとなることは必定である」
 と、ひどく苦々しい程に言って聞かせられて、
「貴女の名前を、草つ庵、と言うことにしました」

 と言われて源中将は急いで立ち去られましたので。
「そんな体裁悪い名が末代まで伝わるなんて残念というものですわ」
と言っていると、修理亮(修理職の次官)
橘則光が、
「大変に喜んで、中宮の前にお行きになったようですよ」
 と言うので、
「官吏任免の除目も終わらないのに、何の職になられたのであろう」
 と質問すると、
「いや、大変嬉しいことが昨夜有りまして、
待ち遠な思いで夜を明かしたのだ。これ程面目を施したことはなかった」
 と言われて。源中将が話した同じことを言う。そして、
「『ただこの返事に従って、草の庵なんて呼ぶと、そんな人間がこの世にいたとさえ思うまい』
と、頭中将がおっしゃるので居合せた人皆で考えて使いを送られたので、素手で帰ってきてなかなか好かった。

二度目に持って来た時は、どんな返事かと胸がどきりとして、本当に悪いのは兄貴のためにも悪いことだと思いましたが、並々どころではない、多くの人が感心して
『兄よ、こっちへ来。これを聞けよ』
 とおっしゃいますので、気持ちは嬉しいのだけれど
『さようの(文学の)方面には、一向お相手仕れそうにない身でして』
 と言いますと、


蘭省花時錦帳下
白氏文集一七「廬山草堂雨夜独宿」の詩
(廬山(ろざん)草堂(さうだう)に、夜雨(やう)独り宿し)

丹霄攜手三君子 白髮垂頭一病翁
蘭省花時錦帳下 廬山雨夜草庵中
 丹霄(たんせう)に手を携(たづさ)ふ三君子(さんくんし)
白髪(はくはつ)頭(かうべ)に垂(た)る一病翁(いちびやうをう)
蘭省(らんしやう)の花の時錦帳(きんちやう)の下(もと)
廬山(ろざん)の雨の夜 草庵の中(うち)
通釈
 朝廷に手を携えて仕えている、三人の君子たちよ、
 こちらは白髪を垂らした病身の一老人。
 君たちは尚書省の花盛りの季節、美しい帳のもとで愉しく過ごし、
 私は廬山の雨降る夜、粗末な庵の中で侘しく過ごしている。

清少納言は
蘭省花時錦帳下
この後に続く詩句を知っていたのであろうが、当時の女性は仮名文字を使い真名(漢字)は使わなかったから下手な書体を見られるのが恥ずかしかったのではないか。


草のいほりをたれかたづねん

 公任卿集に連歌の一句として見える。
藤原公任(ふじわらのきんとう)
(九六六~一〇四一)平安時代中期の歌人。関白藤原頼忠(よりただ)の子。詩歌・管弦・書道などにすぐれ、藤原道長を感心させた逸話が『大鏡(おおかがみ)』にある。『和漢朗詠(わかんろうえい)集』の撰者(せんじや)で、家集に『前大納言公任卿集』がある。この歌の全文
くさのいほりを たれかたつねむ 
ここのへの はなのみやこを おきなから (公任集401/404)


 源宜方。
 左大臣重信の子供。正暦五年右中将
源重信 【みなもとのしげのぶ】
 生年 延喜22 (922)
 没年 長徳1.5.8 (995.6.8)