私の読む「枕草子」 81段ー85段
【八一】
十二月十九日より三日間、三世の諸仏の名号を唱えて六根の罪障を繊悔消滅する法会、御仏名(おぶつみょう)の二の日、地獄変相の図を描いた屏風を上の御局に運んで、中宮がご覧になる。気味わるいことはこの上もない。
「これを見よ、見なさい」
と仰せになるが、
「もうこれ以上は見ること出来ません」
と、疎ましくて嫌だから御座所に近い上の局に下がって隠れて横になった。
雨がひどく降って退屈であるので、殿上人を清涼殿北廂にある弘徽殿の上の御局。当時中宮定子の上局であった。そこへ参集させて音楽会を催された。
左大臣源重信の子道方(みちかた)少納言の琵琶演奏が素晴らしい。大納言源時中の子
済政(なりまさ)十三弦の箏(そう)の琴、
平行義(ゆきよし)笛、左大臣源高明の四男
経房(つねふさ)少将笙(しょう)の笛などが上手であった。
一通り楽を奏でて琵琶を弾き終えたところで伊周(これちか)大納言が、泊楽天の琵琶行の一節、
「忽聞水上琵琶声 主人忘帰客不発」
(忽ち聞く水上琵琶の声 主人帰るを忘れ客は発せず)
をもじって、
「琵琶の声やんで物語せんとすること遅し」 と誦された。隠れ伏していた外ならぬ私が
起きて出て、
「なほ、罪おそろしけれど、もののめでたさはやむまじ」
と、笑われた。
【八二】
頭中将藤原斉信(ただのぶ)。太政大臣為光の二男、と私の間の他愛もない噂を聞いて
ひどく私をけなされて、
「何だって人間なみに褒めたのだろう」
と、殿上の間でひどく私を悪く言われると
聞くも恥ずかしいけれど、噂が事実ならともかく、嘘なのだから、そのうち誤解をとかれるにきまっている、と笑い飛ばしていると、
清涼殿北廊にある黒戸の部屋の前を斉信はそこを通る時に、中で声がすると袖で顔をふさいで全然こちらに目を向けず、大変に憎んでおられて、物も言わず目も合わさず、二月つごもり頃になって雨が降って、することもなくて退屈していると、帝が御物忌みに入られたために侍臣は殿上に籠もる。斉信は、
「やはりどうも物足りないな。何か言ってやろうか」
と言っておられますよと人が言うが、
「まさかそんなこと」
と答えて、終日自分の局に居て、夜、中宮のお側にあがると、もう御寝所に入ってしまわれていた。
母屋と廂との間の下長押。その下は廂の間で一段低くなっている。そこで、宿直の女房達が灯を近くに引き寄せて、みんな集まって
扁つぎ遊びをする。
「あら、うれしいわ、次早く」
と答えを見付けて言うが、つまらない気がして、何で参上したのかと思う。炭櫃(すびつ)の側にいると、そこに女房達が大勢来て坐って、話しかけていると、
「なにがしが、さぶろう」
参上の際の挨拶を華やかな声で言われる。
「可笑しい、どこかに異常があるのか」
と侍女に問わせると、主殿寮の者であった。
「直接御自身に、人を介せず申し上げたい」
と言うことで、出て何用かと問うと、
「これを頭中将殿があなた様にさし上げられます。ご返事を早く」
と言う。
あんなに私を憎んでおられるのに、何を書いて寄越したんだろうと思うが、ここですぐ見るような文、ではないであろう
「帰って。今すぐに返事は書けない」
と蔵人に言って文を懐に入れて局に戻った。
それから女房達と話し合う。
使いの蔵人はすぐに戻ってきて、
「そんなことで、先刻のあのお手紙を返して貰って来い、って言われますので、すぐにお願いします」
と言う、何となく含みがありそうだ。伊勢物語にこんなことが書いて有ったと思い出しながら文を開けてみると、薄い紙にとても美しい筆使いで書かれてあった。どんな文かしらと期待に胸がときめいたがそれ程のこともなかった。
平 行義(たいら の ゆきよし、生年不明 - 寛仁元年7月6日(1017年7月31日))
平安時代中期の貴族。桓武平氏高棟王流、参議・平親信の子。官位は従四位下・武蔵守
長保6年(1004年)当時、武蔵守を務めていた。長和4年(1015年)禎子内親王着袴の儀に於いて、左大臣・藤原道長に召し取らた際に横笛を一品式部卿・敦明親王に授ける。その演奏を聞いた右大臣・藤原顕光、大納言・藤原道綱は感涙したという。位階は寛弘8年(1011年)7月当時五位、長和5年(1014年)3月当時四位であった。
寛仁元年(1017年)6月12日に父・親信が疫病のため薨去。同年7月6日に行義も疫病により後を追うように卒去した。享年不明。武蔵守以後の任官は見られず、散位であった。
源 経房(みなもと の つねふさ、安和2年(969年) - 治安3年10月12日(1023年11月27日))
平安中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣・源高明の五男。官位は正二位・権中納言。
出生と同年に父の左大臣・高明が安和の変で失脚し大宰府に流されたが、同母姉・明子の夫である藤原道長が権力者となったことも手伝って順調に昇進した。永観2年(984年)従五位下に初叙。侍従・兵衛佐などを経て、長徳2年(996年)権右中将、同4年(998年)左中将、長保3年(1001年)蔵人頭。寛弘2年(1005年)参議に任ぜられ公卿に列し、長和4年(1015年)権中納言、寛仁2年(1018年)には正二位に昇った。寛仁4年(1020年)大宰権帥を兼ね、翌治安元年(1021年)鎮西に赴任し、同3年(1023年)10月12日任所において55歳で薨じた。
姉婿道長の猶子でありながらその政敵である中関白家とも近しく、藤原隆家が長和年間に大宰帥として大宰府に赴く際、経房に定子の遺児敦康親王を託したことが『栄花物語』に記されている。隆家の長男良頼は娘婿でもある。
『枕草子』にも「左中将」としてたびたび登場し、特に跋文の「左中将、まだ伊勢守と聞こえし時」の一段には、『枕草子』を最初に世上に広めたのが彼であると書かれ、『枕草子』の成立を考える上で重要な人物である。
藤原 伊周(ふじわらの これちか)
平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。
天延2年(974年)、藤原北家摂関流の上卿大納言兼家の嫡男・兵衛佐道隆と、内裏の内侍であった貴子の間に生まれる。異母兄に「大千代君」の幼名を持つ道頼がいたため、「小千代君」と名づけられた。
寛和元年(985年)11月20日、12歳で元服し、同日従五位下。翌年7月22日一条天皇の即位式の日に昇殿し、ついで侍従・左兵衛佐に任ず。永延元年(987年)9月4日左少将、翌2年正月15日禁色を聴される。正暦元年(990年)5月8日、祖父兼家の後をついで父道隆が摂政に就任し、さらに同年10月中宮に同母妹定子が立つと、摂関家の嫡男としてその地位は飛躍的に上昇した。同年中に右中将・蔵人頭を経験し、正暦2年(991年)正月26日、参議となって公卿に列し、同7月27日従三位、9月7日には権中納言に昇叙、更に翌3年8月28日、正三位権大納言に進んだ(同日に辞任した舅の源重光から譲られた)。(この後の経歴はネットに詳しい)
びわこう【琵琶行】ビハカウ
十二月十九日より三日間、三世の諸仏の名号を唱えて六根の罪障を繊悔消滅する法会、御仏名(おぶつみょう)の二の日、地獄変相の図を描いた屏風を上の御局に運んで、中宮がご覧になる。気味わるいことはこの上もない。
「これを見よ、見なさい」
と仰せになるが、
「もうこれ以上は見ること出来ません」
と、疎ましくて嫌だから御座所に近い上の局に下がって隠れて横になった。
雨がひどく降って退屈であるので、殿上人を清涼殿北廂にある弘徽殿の上の御局。当時中宮定子の上局であった。そこへ参集させて音楽会を催された。
左大臣源重信の子道方(みちかた)少納言の琵琶演奏が素晴らしい。大納言源時中の子
済政(なりまさ)十三弦の箏(そう)の琴、
平行義(ゆきよし)笛、左大臣源高明の四男
経房(つねふさ)少将笙(しょう)の笛などが上手であった。
一通り楽を奏でて琵琶を弾き終えたところで伊周(これちか)大納言が、泊楽天の琵琶行の一節、
「忽聞水上琵琶声 主人忘帰客不発」
(忽ち聞く水上琵琶の声 主人帰るを忘れ客は発せず)
をもじって、
「琵琶の声やんで物語せんとすること遅し」 と誦された。隠れ伏していた外ならぬ私が
起きて出て、
「なほ、罪おそろしけれど、もののめでたさはやむまじ」
と、笑われた。
【八二】
頭中将藤原斉信(ただのぶ)。太政大臣為光の二男、と私の間の他愛もない噂を聞いて
ひどく私をけなされて、
「何だって人間なみに褒めたのだろう」
と、殿上の間でひどく私を悪く言われると
聞くも恥ずかしいけれど、噂が事実ならともかく、嘘なのだから、そのうち誤解をとかれるにきまっている、と笑い飛ばしていると、
清涼殿北廊にある黒戸の部屋の前を斉信はそこを通る時に、中で声がすると袖で顔をふさいで全然こちらに目を向けず、大変に憎んでおられて、物も言わず目も合わさず、二月つごもり頃になって雨が降って、することもなくて退屈していると、帝が御物忌みに入られたために侍臣は殿上に籠もる。斉信は、
「やはりどうも物足りないな。何か言ってやろうか」
と言っておられますよと人が言うが、
「まさかそんなこと」
と答えて、終日自分の局に居て、夜、中宮のお側にあがると、もう御寝所に入ってしまわれていた。
母屋と廂との間の下長押。その下は廂の間で一段低くなっている。そこで、宿直の女房達が灯を近くに引き寄せて、みんな集まって
扁つぎ遊びをする。
「あら、うれしいわ、次早く」
と答えを見付けて言うが、つまらない気がして、何で参上したのかと思う。炭櫃(すびつ)の側にいると、そこに女房達が大勢来て坐って、話しかけていると、
「なにがしが、さぶろう」
参上の際の挨拶を華やかな声で言われる。
「可笑しい、どこかに異常があるのか」
と侍女に問わせると、主殿寮の者であった。
「直接御自身に、人を介せず申し上げたい」
と言うことで、出て何用かと問うと、
「これを頭中将殿があなた様にさし上げられます。ご返事を早く」
と言う。
あんなに私を憎んでおられるのに、何を書いて寄越したんだろうと思うが、ここですぐ見るような文、ではないであろう
「帰って。今すぐに返事は書けない」
と蔵人に言って文を懐に入れて局に戻った。
それから女房達と話し合う。
使いの蔵人はすぐに戻ってきて、
「そんなことで、先刻のあのお手紙を返して貰って来い、って言われますので、すぐにお願いします」
と言う、何となく含みがありそうだ。伊勢物語にこんなことが書いて有ったと思い出しながら文を開けてみると、薄い紙にとても美しい筆使いで書かれてあった。どんな文かしらと期待に胸がときめいたがそれ程のこともなかった。
平 行義(たいら の ゆきよし、生年不明 - 寛仁元年7月6日(1017年7月31日))
平安時代中期の貴族。桓武平氏高棟王流、参議・平親信の子。官位は従四位下・武蔵守
長保6年(1004年)当時、武蔵守を務めていた。長和4年(1015年)禎子内親王着袴の儀に於いて、左大臣・藤原道長に召し取らた際に横笛を一品式部卿・敦明親王に授ける。その演奏を聞いた右大臣・藤原顕光、大納言・藤原道綱は感涙したという。位階は寛弘8年(1011年)7月当時五位、長和5年(1014年)3月当時四位であった。
寛仁元年(1017年)6月12日に父・親信が疫病のため薨去。同年7月6日に行義も疫病により後を追うように卒去した。享年不明。武蔵守以後の任官は見られず、散位であった。
源 経房(みなもと の つねふさ、安和2年(969年) - 治安3年10月12日(1023年11月27日))
平安中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣・源高明の五男。官位は正二位・権中納言。
出生と同年に父の左大臣・高明が安和の変で失脚し大宰府に流されたが、同母姉・明子の夫である藤原道長が権力者となったことも手伝って順調に昇進した。永観2年(984年)従五位下に初叙。侍従・兵衛佐などを経て、長徳2年(996年)権右中将、同4年(998年)左中将、長保3年(1001年)蔵人頭。寛弘2年(1005年)参議に任ぜられ公卿に列し、長和4年(1015年)権中納言、寛仁2年(1018年)には正二位に昇った。寛仁4年(1020年)大宰権帥を兼ね、翌治安元年(1021年)鎮西に赴任し、同3年(1023年)10月12日任所において55歳で薨じた。
姉婿道長の猶子でありながらその政敵である中関白家とも近しく、藤原隆家が長和年間に大宰帥として大宰府に赴く際、経房に定子の遺児敦康親王を託したことが『栄花物語』に記されている。隆家の長男良頼は娘婿でもある。
『枕草子』にも「左中将」としてたびたび登場し、特に跋文の「左中将、まだ伊勢守と聞こえし時」の一段には、『枕草子』を最初に世上に広めたのが彼であると書かれ、『枕草子』の成立を考える上で重要な人物である。
藤原 伊周(ふじわらの これちか)
平安時代中期の公卿。摂政関白内大臣藤原道隆の嫡男(三男)。
天延2年(974年)、藤原北家摂関流の上卿大納言兼家の嫡男・兵衛佐道隆と、内裏の内侍であった貴子の間に生まれる。異母兄に「大千代君」の幼名を持つ道頼がいたため、「小千代君」と名づけられた。
寛和元年(985年)11月20日、12歳で元服し、同日従五位下。翌年7月22日一条天皇の即位式の日に昇殿し、ついで侍従・左兵衛佐に任ず。永延元年(987年)9月4日左少将、翌2年正月15日禁色を聴される。正暦元年(990年)5月8日、祖父兼家の後をついで父道隆が摂政に就任し、さらに同年10月中宮に同母妹定子が立つと、摂関家の嫡男としてその地位は飛躍的に上昇した。同年中に右中将・蔵人頭を経験し、正暦2年(991年)正月26日、参議となって公卿に列し、同7月27日従三位、9月7日には権中納言に昇叙、更に翌3年8月28日、正三位権大納言に進んだ(同日に辞任した舅の源重光から譲られた)。(この後の経歴はネットに詳しい)
びわこう【琵琶行】ビハカウ
作品名:私の読む「枕草子」 81段ー85段 作家名:陽高慈雨