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私の読む「枕草子」 46段ー60段

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 <参考文献>清水好子「政治家藤原行成とその環境」(『国文学』50号) (朧谷寿)
                ( ネットから)


 行成は中宮に何か申しあげようとする場合も、最初に取次を依頼した私を探し求め、局に私が下がっているときは、私を呼び出し、里の家に帰らしてもらっているときは文を送りそして自分も来て、
「もしあなたの参上が遅れるなら、行成がこう申していると(中宮に)申しあげに人をさし上げてくれ」
と、おっしゃられる。
「それは別の方がおられましょう」
 と、私が言って、私は辞退するが、行成は決してそのまま承引などされずにいる。
 
「九条師輔の遺誡に『衣冠ョリ始メテ車馬ニ及ブマデ有ルニ随ヒテ之ヲ用ヰョ。美麗ヲ求ムルコト勿レ』とあります。規則や型を定めずに何事でも行うことを、古人もよいこととしているようでございます」
私はお世話を焼くのだけれど、行成は、
「これが私の性分でして」
とおっしゃって、さらにまた、
「これが私の性分でして」
 と言われるので、
「そうでしたら、論語の学而篇「過則勿憚改」(過ちては改むるに憚ること勿かれ)。過失が犯したときには、ためらわずにすぐに改めよ。とは何を言っているのでしょう」
 と言ってやると、笑いながら、
「あなたと私は仲が良いなどと人にも言われる。これ程親しくする上は何で恥かしがるのです。顔を見せなどもしなさいよ」
と、おっしゃる。
「私はひどく醜いので、あなたがそんな女は好きになれまいとおっしゃったために、お目にかかれないのです」
と、言うと、
「成程それでは嫌いになるといけない。では見せるな」
と、自然と私を見ることができる折も、自分から顔を覆いなどして御覧にならないのも、真実うそはつかれなかったのだと思っていたところ、三月の終わり頃は直衣は裏を夏秋はつけず冬春につける。それが着にくいと見えて、多くは束帯の袍をつけて、殿上の宿直姿もある。束帯の袍は冬以外は裏をつけない。宿直の時はそれに下襲を略して指貫をはく。


その翌朝、陽が昇るまで、式部のおもとと
廂の間の小さい所に寝ていたところ、奥の遣り戸、引き戸を開けられて主上(一条天皇)と中宮(定子)とが入ってこられて起きることもできないで混乱しているのを大変笑われなされた。下着の上に唐衣を着て宿直の道具が何もかもうずたかく乱れて積んである、主上には出御されて、侍者の溜まりの陣から人が出て来る人も見る。殿上人で、何も知らないで来て言葉を掛ける者もいる。
「けどられるなよ」
 と言われて主上は笑われた・

 そうして、
「二人揃ってこれへ」
 と仰せになるが
「おっつけ、顔など直しましてから」
 とお答えして参らなかった。

 御座に戻られてからも、主上と中宮の御立派な事などを話し合っていたが、南の遣り戸のそばの几帳の棹の横木「手」が出ているのに触れて簾が少し開いているところから黒っぽいものが見えるのでよく見ると、紫式部の夫の藤原宜孝の兄説孝(のりたか)居たのだろうと、見もしないでなおも話を続けていると、笑い顔で「私たちのところに近づいて来るので説孝だろうと見て見ると別人の顔であった。あきれたことだと大笑いして几帳を引っ張り直して隠れると、頭の弁行成であった。

 あれ程顔をお見せしまいとしたのにと悔しかった。一緒にいた式部のおもとは向きが違って顔を見られなかった。

 立ち去りがちに、行成は、
「余す所なくすっかり拝見しましたなあ」
 と言われるので、私は、
「説孝と思っていましたので、見くびって見られてしまったのですわ、何でまあ、見まいとおっしゃりながら、そうつくづくと御覧になりましたか」
 と言いかけると、
「女の寝起きの顔はめったにないほど素晴らしい、と言うので、ある人の局に行って、隙間から見て見ると、また他に見えはしないかと思ってやって来たのだ。まだ主上がいらっしゃつた時からいたのを、あなたは一向気づかなかった」
 と言って、それより後には局の簾をくぐって中に入って来られるようになった。


九条殿遺誡 くじょうどのいかい
 右大臣藤原師輔が公卿としての心得を記した家訓。10世紀中ごろの成立。毎日起床後に行うべき事柄をはじめとする日常生活の作法,宮廷に出仕する際の心得など,公卿の生活全般にわたって細かい訓誡をのべており,子々孫々にまで重んじられた。書名は師輔の第宅が九条にあったことに由来する。東洋文庫に〈制誡〉と題する室町初期の写本1巻を伝える。《拾芥抄》にも収載されている。《群書類従》所収。【吉岡 真之】(ネットから)
藤原宜孝
天暦6(952)年ごろ、出生
天元5(982)年1月10日、蔵人として叙位に奉仕  1月17日、射遺の準備を命ぜられる  3月11日、実資・済時の中宮大夫・亮となるに際し奏慶す  7月16日、蔵人左衛門尉として丹生社祈雨奉幣使となる
  10月17日、院判官代蔵人に補す
11月27日、賀茂臨時祭に駒引きを怠る
 11月29日、駒引懈怠の件で召問せらる
  12月1日、実資、駒引懈怠の件で奏上

寛和元(985)年  5月29日、御錫紵を除き給うことに関して延喜の例を述べる
 7月13日、丹生使蔵人左衛門尉宣孝の小舎人ら地元民に陵轢される

正暦元(990)年3月晦日ごろ、御獄詣。
  8月30日、筑前守。

正暦3(992)年  9月20日、少弐兼筑前守(993年8月28日説も)

長徳元(995)年、この年帰京

長徳3(997)年ごろ、近江介源則忠女に求婚?

長徳4(998)年1月23日、右衛門権佐に任ず  3月20日、石清水臨時祭試楽で舞人として奉仕  7月2日、病悩  8月27日、山城守兼任  11月3日、慣例の官掌以下給禄の行事に参加  11月30日、賀茂臨時祭に舞人として参加  秋ごろ、紫式部と結婚

長保元(999)年、8月18日、所領田中荘の凶党早米使を殺害し逃走  11月7日、中宮定子の御産に奉仕  11月11日、賀茂臨時祭調楽に人長として妙技をふるう  11月27日、宇佐使として西下

長保2(1000)年2月3日、帰京  4月1日、平野臨時祭勅使となる  7月27日、相撲節会に列席  10月15日、殿上音楽に奉仕  この年、紫式部、娘大弐三位を出生?

長保3(1001)年1月2日、供御薬事に奉仕  2月5日、春日祭代官を命ぜられるも痔病のため辞退  4月25日、没(流行していた疫病のため?)

藤原氏(勧修寺流説孝家系)
藤原説孝 
 生没年:
 父:権中納言藤原為輔 蔵人 正四位下  左大弁
 妻:(父:陸奥守 源信明)
 尚之 頼明 定輔 定通

馬は真黒で、ただ、すこし白いところなどあるのがよい。紫の斑点がついている。
白毛に青色または黒色の差し毛のあるもの
蘆毛(あしげ)薄い紅梅の毛で髪と尾などが際だって白い。なるほどこれこそ木綿髪(ゆふかみ)とも呼べば呼べよう。
黒馬で足が四つ白いのは大変面白い。

【五一】

 牛は、額(ひたひ)がとても小さくて、全体に白っぽいのが、腹の下も足も尾の毛筋も、そのまま全部白いのがよい。

【五二】

 猫は、上の方だけ黒くて腹は真白なのが。

【五三】