私の読む「枕草子」 46段ー60段
【四六】
廂の間の細く通ったとこを仕切って女房の局としたのを細殿というが、そこに女房が大勢いて通る人に小うるさく問いかけなどするのに、爽やかな男、小舎人童(こどねりわらわ)などが、綺麗な衣服を入れる包みや袋に衣を入れて、指貫のくくりなどが見える。弓・矢・楯なども持って歩くのに、
「誰の物だ」
と問うと、膝まずいて
「誰々殿のものです」
と答えて行く者はよし、様子を作ったり、恥ずかしがったりして、
「知りません」
と言い、また、ものも言わないで通り過ぎる者は大変に悔い
ミノムシ(蓑虫)は、ミノガ科のガの幼虫。一般には、その中でもオオミノガの幼虫を指す。
コメツキムシ(米搗虫)は、昆虫綱コウチュウ目に属するコメツキムシ科に属する昆虫の総称である。和名をコメツキムシとする種はない。
仰向けにすると、自ら跳ねて元に戻る能力がある小型甲虫。米をつく動作に似ていることからこの名前がある。
古事記安寧天皇項抜粋
故、此の王、二の女有りき。兄の名は蠅伊呂泥、亦の名は意富夜麻登久邇阿礼比売命。弟の名は蠅伊呂杼なり。
〔読み〕
カレ、このミコ、フタリのムスメありき、イロネのなはハヘイロネ、またのなは オホヤマトクニアレヒメノミコト。イロトのなはハヘイロドなり。
細殿(ほそどの)寝殿造の図参照
一 殿舎の廂(ひさし)の間(ま)で、細長いもの。仕切りをして、女房などの居室として使用した。
二 殿舎から殿舎へ渡る廊。渡り廊下。
【四七】
後宮十二司の一で、灯火・薪炭を掌る主殿司(とのもづかさ)こそ、やはり何といってもよいものではある。下級女官の地位としては羨ましい限りである。身分の高い人にもやらせたいことのようだ。若くて美人が服装など綺麗にしているならば、さらに好いであろう。少し年嵩になり、物事の先例など知っていて、厚かましい様子なのも、いかにも女官らしくて見よいものだ。
主殿司の顔、表情や態度に魅力が出いるのを一人だけ選んで、服装を季節に応じて新調し、裳や唐衣など現代風にして歩きまわらせたい、と思う。
【四八】
男の人は、随身がいるのがよいようだ。
すごく美男子で品のある君達も、随身が無いのは興ざめである。太政官に属する弁官などは、心を惹かれる官職だと思うが、弁官は劇職のために袍の下に長く引く裾’(きょ)は短いし、随身が下賜されない。大変によく無い職である。
(注)
随身は朋廷より賜わる護衛で近衛の舎人などが勤める。上皇・摂政・関白・大臣・大将・納言・参議等に下賜され、それぞれ定員がある。
「袍の下に長く引く裾」束帯で半臂(はんぴ)の下に着る衣を下襲という。後方にキョまたはシりと称する裾を袍の下に長く引く。その長さは官位により定めがあり、弁官は劇職のために短い。(絵参照)
【四九】
中宮職内に設けた仮の御座所の西面の立て蔀のところで、蔵人頭藤原行成が何回も声を掛けるので、出てみて、
「どなたですか」
と言うと
「弁が参上致しております」
と答えられた。
「何か言いたいことがございますの、大弁が見えたらあなたなどほうってしまうでしょうに」
と言うと、大層笑って
「誰がこんなことまであなたに教えたのかな。『決してそうはするな』と言い聞かせているのですよ」
と言われた。
頭弁は、ひどく人前を飾ったりうまいことを言ったりして格別風流を気どることもなく、ただそれだけの人のようであるのを、みんなは知っているのに、私だけはやはり行成の奥深い気だてを理解しているので、
「凡庸な人ではございまぜん」
など中宮にも申し、中宮もそう御承知になっているのだが、常に
「『女は、自分を愛してくれる者のために容姿を美しくする。男は自分の心を知る者のために死す』という言葉がある」
」史記、刺客伝、晋の予譲の
「士為知己者死 女為説己者容」
(士は己を知る者のために死し、女はおのれおのれを喜ぶ者のために容づくる)
古人の詞を引き合いにされては、私をよく理解しておられた。
万葉集、七、旋頭歌「霰降り遠つあふみのあど川柳、刈れ(離れ)れどもまたも生ふ(逢ふ)ちふあど川柳」(あられが降る遠江の国の吾跡川(あどがわ)の柳よ刈ってもまた生えるという吾跡川の柳よ)(1293)
妨げられても間は絶えない、と言い交わしてあるのに、若い人たちは一途に見苦しいことなどを直そうとしないで言う、
「実際あの方はいやに交際しにくいこと。かの方のように歌を詠い興じなどもされず、面白くもないわ」
などと非難する。
行成は全然女房の誰彼に話しかけなどもせず。
「私は、目は縦の方向につき、眉は額の方向に生え上がって、鼻は横に広がっているが、口だけは愛嬌があって、あごの下や頚がきれいで、声が感じ悪くない女性だけが好きになれそうな気がする。とは言いながらも顔が憎そうなのは気に入らない」
とだけ言われたので、おとがいが細くて愛嬌のない顔の人などは、わけもなく敵視して、中宮にまでも行成のことを悪く申しあげる。
下襲の裾の長さは、村上天皇の頃は袍の襴(らん)から出ること、大臣一尺、納言八寸であったが、後一条天皇の延久頃は、腰より大臣七尺、納言六尺、参議五尺、四五位四尺となり、鎌倉時代以後天皇のほかは裾を下襲と切り離し、その長さも建暦の頃には大臣一丈、大納言九尺、中納言八尺、参議七尺となった。一条天皇の頃は大体後一条天皇の頃に准じて考えてよいであろう。
中宮職内に設けた仮の御座所。定子は長徳二年(九九六)二月廿五日から三月四日まで、および長徳三年六月廿二日から長保元年(九九九)八月九日まで、ほとんどここに住まわれた。
藤原行成 【ふじわらのゆきなり】
生年 天禄3 (972)
没年 万寿4.12.4 (1028.1.3)
平安中期の公卿。義孝と中納言源保光の娘の子。生後2年で父と死別し不遇な青年期を送った。長徳1(995)年、24歳の若さで蔵人頭に抜擢されたが、これには藤原実方と殿上で口論となった際冠を投げすてられても冷静さを失わなかった行成の態度に感じ入った一条天皇が重用したとか。前任者源俊賢の推挙によるといったことが挙げられる。俊賢の恩を感じ、一時期位階が上になったとき上席に座らなかったという。長保3(1001)参議となり、19年後権大納言に任じられている。権者藤原道長の信任は厚く、彰子上東門院の立后に際しては大いに画策したことに気をよくした道長は子の代まで兄弟のような処遇をすると約束した。道長家への奉仕に余念なく、道長の子長家を女婿とした。道長と同日に死去した。和歌だけは少し劣っていたと『大鏡』に記される。能書家として知られ、その筆跡は「権跡」(極官にちなむ)といわれ,小野道風・藤原佐理と共に三蹟とうたわれた。現存の真蹟は国宝の「白氏詩巻」ほか少ない。その日記『権記』は道長時代の政治を知るうえで重要である。『枕草子』にも実直ながら茶目っ気のある蔵人頭時代の行成が顔をみせる。邸宅は平安京左京の一条大宮にあった母方の桃園第で、この一郭を寺院としたのが世尊寺。行成の書の流派を世尊寺流と呼ぶのはこれにちなむ。
廂の間の細く通ったとこを仕切って女房の局としたのを細殿というが、そこに女房が大勢いて通る人に小うるさく問いかけなどするのに、爽やかな男、小舎人童(こどねりわらわ)などが、綺麗な衣服を入れる包みや袋に衣を入れて、指貫のくくりなどが見える。弓・矢・楯なども持って歩くのに、
「誰の物だ」
と問うと、膝まずいて
「誰々殿のものです」
と答えて行く者はよし、様子を作ったり、恥ずかしがったりして、
「知りません」
と言い、また、ものも言わないで通り過ぎる者は大変に悔い
ミノムシ(蓑虫)は、ミノガ科のガの幼虫。一般には、その中でもオオミノガの幼虫を指す。
コメツキムシ(米搗虫)は、昆虫綱コウチュウ目に属するコメツキムシ科に属する昆虫の総称である。和名をコメツキムシとする種はない。
仰向けにすると、自ら跳ねて元に戻る能力がある小型甲虫。米をつく動作に似ていることからこの名前がある。
古事記安寧天皇項抜粋
故、此の王、二の女有りき。兄の名は蠅伊呂泥、亦の名は意富夜麻登久邇阿礼比売命。弟の名は蠅伊呂杼なり。
〔読み〕
カレ、このミコ、フタリのムスメありき、イロネのなはハヘイロネ、またのなは オホヤマトクニアレヒメノミコト。イロトのなはハヘイロドなり。
細殿(ほそどの)寝殿造の図参照
一 殿舎の廂(ひさし)の間(ま)で、細長いもの。仕切りをして、女房などの居室として使用した。
二 殿舎から殿舎へ渡る廊。渡り廊下。
【四七】
後宮十二司の一で、灯火・薪炭を掌る主殿司(とのもづかさ)こそ、やはり何といってもよいものではある。下級女官の地位としては羨ましい限りである。身分の高い人にもやらせたいことのようだ。若くて美人が服装など綺麗にしているならば、さらに好いであろう。少し年嵩になり、物事の先例など知っていて、厚かましい様子なのも、いかにも女官らしくて見よいものだ。
主殿司の顔、表情や態度に魅力が出いるのを一人だけ選んで、服装を季節に応じて新調し、裳や唐衣など現代風にして歩きまわらせたい、と思う。
【四八】
男の人は、随身がいるのがよいようだ。
すごく美男子で品のある君達も、随身が無いのは興ざめである。太政官に属する弁官などは、心を惹かれる官職だと思うが、弁官は劇職のために袍の下に長く引く裾’(きょ)は短いし、随身が下賜されない。大変によく無い職である。
(注)
随身は朋廷より賜わる護衛で近衛の舎人などが勤める。上皇・摂政・関白・大臣・大将・納言・参議等に下賜され、それぞれ定員がある。
「袍の下に長く引く裾」束帯で半臂(はんぴ)の下に着る衣を下襲という。後方にキョまたはシりと称する裾を袍の下に長く引く。その長さは官位により定めがあり、弁官は劇職のために短い。(絵参照)
【四九】
中宮職内に設けた仮の御座所の西面の立て蔀のところで、蔵人頭藤原行成が何回も声を掛けるので、出てみて、
「どなたですか」
と言うと
「弁が参上致しております」
と答えられた。
「何か言いたいことがございますの、大弁が見えたらあなたなどほうってしまうでしょうに」
と言うと、大層笑って
「誰がこんなことまであなたに教えたのかな。『決してそうはするな』と言い聞かせているのですよ」
と言われた。
頭弁は、ひどく人前を飾ったりうまいことを言ったりして格別風流を気どることもなく、ただそれだけの人のようであるのを、みんなは知っているのに、私だけはやはり行成の奥深い気だてを理解しているので、
「凡庸な人ではございまぜん」
など中宮にも申し、中宮もそう御承知になっているのだが、常に
「『女は、自分を愛してくれる者のために容姿を美しくする。男は自分の心を知る者のために死す』という言葉がある」
」史記、刺客伝、晋の予譲の
「士為知己者死 女為説己者容」
(士は己を知る者のために死し、女はおのれおのれを喜ぶ者のために容づくる)
古人の詞を引き合いにされては、私をよく理解しておられた。
万葉集、七、旋頭歌「霰降り遠つあふみのあど川柳、刈れ(離れ)れどもまたも生ふ(逢ふ)ちふあど川柳」(あられが降る遠江の国の吾跡川(あどがわ)の柳よ刈ってもまた生えるという吾跡川の柳よ)(1293)
妨げられても間は絶えない、と言い交わしてあるのに、若い人たちは一途に見苦しいことなどを直そうとしないで言う、
「実際あの方はいやに交際しにくいこと。かの方のように歌を詠い興じなどもされず、面白くもないわ」
などと非難する。
行成は全然女房の誰彼に話しかけなどもせず。
「私は、目は縦の方向につき、眉は額の方向に生え上がって、鼻は横に広がっているが、口だけは愛嬌があって、あごの下や頚がきれいで、声が感じ悪くない女性だけが好きになれそうな気がする。とは言いながらも顔が憎そうなのは気に入らない」
とだけ言われたので、おとがいが細くて愛嬌のない顔の人などは、わけもなく敵視して、中宮にまでも行成のことを悪く申しあげる。
下襲の裾の長さは、村上天皇の頃は袍の襴(らん)から出ること、大臣一尺、納言八寸であったが、後一条天皇の延久頃は、腰より大臣七尺、納言六尺、参議五尺、四五位四尺となり、鎌倉時代以後天皇のほかは裾を下襲と切り離し、その長さも建暦の頃には大臣一丈、大納言九尺、中納言八尺、参議七尺となった。一条天皇の頃は大体後一条天皇の頃に准じて考えてよいであろう。
中宮職内に設けた仮の御座所。定子は長徳二年(九九六)二月廿五日から三月四日まで、および長徳三年六月廿二日から長保元年(九九九)八月九日まで、ほとんどここに住まわれた。
藤原行成 【ふじわらのゆきなり】
生年 天禄3 (972)
没年 万寿4.12.4 (1028.1.3)
平安中期の公卿。義孝と中納言源保光の娘の子。生後2年で父と死別し不遇な青年期を送った。長徳1(995)年、24歳の若さで蔵人頭に抜擢されたが、これには藤原実方と殿上で口論となった際冠を投げすてられても冷静さを失わなかった行成の態度に感じ入った一条天皇が重用したとか。前任者源俊賢の推挙によるといったことが挙げられる。俊賢の恩を感じ、一時期位階が上になったとき上席に座らなかったという。長保3(1001)参議となり、19年後権大納言に任じられている。権者藤原道長の信任は厚く、彰子上東門院の立后に際しては大いに画策したことに気をよくした道長は子の代まで兄弟のような処遇をすると約束した。道長家への奉仕に余念なく、道長の子長家を女婿とした。道長と同日に死去した。和歌だけは少し劣っていたと『大鏡』に記される。能書家として知られ、その筆跡は「権跡」(極官にちなむ)といわれ,小野道風・藤原佐理と共に三蹟とうたわれた。現存の真蹟は国宝の「白氏詩巻」ほか少ない。その日記『権記』は道長時代の政治を知るうえで重要である。『枕草子』にも実直ながら茶目っ気のある蔵人頭時代の行成が顔をみせる。邸宅は平安京左京の一条大宮にあった母方の桃園第で、この一郭を寺院としたのが世尊寺。行成の書の流派を世尊寺流と呼ぶのはこれにちなむ。
作品名:私の読む「枕草子」 46段ー60段 作家名:陽高慈雨