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私の読む「枕草子」 39段ー45段

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 白樫というのは、深山の木の中でも特に奥の方にあって、三位や二位の黒袍の束帯を染めるときだけ、やっと葉だけを人が見る程度だから、風情があるとか、目出度いことに取り上げることでもないが、拾遺集で人麿は、「あしひきの山路も知らず白樫の枝にも葉にも雪の降れれば」(252)。万葉集(2315)では第四句を「枝もとををに」として歌とする。人麻呂は見たこともないのに見間違えられ、素戔嗚尊が出雲の国におられた頃を思って、柿本人麻呂が詠んだ歌だと思うと、情けない。(注人麻呂の歌は素戔嗚尊には関係がないが、当時こういう伝説でもあったのであろう)
ちょっとした、折でも何か一点、「あはれ」ともあるいは「をかし」とも心に聞きとめたものは、草木鳥虫、何でもおろそかには思われない。

 ゆづり葉がとてもふさふさとして色つやがあり、茎は赤くきらきらとして見えるのが、嫌らしいが味がある。普通には見ることはないが師走の晦(みそか、つごもり)だけは目立って、亡魂を祭る際に供物の下にゆずり葉を敷く。哀れであるのに、新年に当り長命を祝うことを歯固めといい、餅・猪肉・押鮎などを食べる。ゆずり葉は鏡餅を飾り、歯固めの品の下に敷く、つかい慣れているようだ。

「旅人に宿かすが野のゆづる葉の紅葉せむ世や君を忘れむ」(古今六帖)

 と歌われているが頼もしい。

 柏木は面白い。
「かしは木に葉守の神のましけるを知らでぞ折りし祟りなさるな」。大和物語(68段)
 恐れ多い。兵衛の督(かみ)・佐(すけ)・尉(そう)などと衛府の官の異名とされたのも可笑しいこと。

 恰好は悪いが椶櫚(しゅろ)の木は唐国風で(異国的で)、貧しい家のものとは見えない。

【四一】

 鳥。異国の物であるけれども鸚鵡(おうむ)は可哀想な鳥である。人が何か言うと、それをまあ真似するそうだ。礼記に「鵬鵡能言 下 離 飛鳥」とある。

 ほととぎす(時鳥)。くひな(水鳥)。しぎ(鴫)。都鳥。ひわ(鶸)。ひたき。

 山鳥は、隣国より山鳥を贈り、声の妙な由を申したが鳴かない、ある女御が友を離れて鳴かぬのであろう、鏡をかけて見せ給えと申したのでその通りにすると、わが影を見て鳴いたという話があり、気持ちが分かり哀れである。万葉集、十四にもこれに類する歌が見える。「山鳥の尾ろのはつをに鏡掛け となふべみこそ 汝に寄そりけめ」(3468)(山鳥の尾羽のはつをに鏡を掛け 人に知らせるつもりであの娘はおまえと噂を立てられたのだろう)

 奥義抄に、山鳥は夜になると雄鳥が山の峰を隔てて寝るとの説を伝え、万葉集八(1629)、家持の長歌に「・・・・・あしひきの山鳥こそは峰(を)むかひに妻どひすととへ・・・・」と見える。


 大伴宿禰家持、坂上大嬢に贈る歌一首并せて短歌

 ねもころに物を思へば 言はむすべせむ庭に出で立ち 夕には 床打ち払ひ 白たへの袖さし交へて さ寝し夜や 常にありけるあしひきの 山鳥こそば峰向かひ妻問ひすといへ うつせみの 人なる我やなにすとか 一日一夜も 離り居て 嘆き恋ふらむ ここ思へば 胸こそ痛き そこ故にすべもなし 妹と我と 手携はりて 朝には心なくやと 高円の 山にも野にも うち行きて 遊びあるけど 花のみし にほひてあれば 見るごとに まして偲はゆ いかにして 忘るるものそ 恋といふものを
反 歌
高円の 野辺のかほ花 面影に
     見えつつ妹は 忘れかねつも
          (小学館日本古典文学全集)

 鶴は、いかにも仰山な恰好だが、詩経に「鶴鳴 九皐、声聞 于天(鶴(かく)九皐(こう)に鳴き声天に聞こゆ)と紹介されている、大変に目出度い鳥である。

 頭の赤い雀。斑鳩の雄鳥。たくみ鳥。
 鷺は見た目ではあまりよくない。目つきも悪い、不快で世の人には懐かれないが、古今六帖(4480)、六に、
「高島やゆるぎの森の鷺すらもひとりは寝じと争ふものを」
 と近江国高島郡の鷺は反発するが面白い。

水鳥、鴛鴦(おし)達は大変に哀れである。
 互に浮いている場所を代りあって古今六帖、三「羽の上の霜うちはらふ人もなしをしのひとり寝けさぞかなしき」(1475)、と詠われている、羽に乗った霜を払うほどのことを。千鳥は大変にかわいい。

 鶯は漢詩文などにも目出度い鳥として詠われ、声から始まってその姿までそれほど上品で愛らしい割合には、宮中、九重で鳴き声が聞かれないのは悪い鳥である。人が「その通りである」と言うので、そんな事があるものですかと、十年ばかりの宮中の奉仕で聞き耳を立ててみるが、本当に一度も鳴き声を聞かなかった。ところがそこは竹に近く紅梅もあり、鶯が通ってくるにはちょうど恰好な所なのだ。宮中を退出して、里などできくと、粗末な家の見た目にもどうかと思うような梅の木などで。やかましいほど鳴き叫んでいる。

 夜に鳴かないのは寝坊という感じがするが、今更どうしようもない。夏・秋の末まで年寄りのような声で鳴いて、「むしくい」など身分や教養などないような者はお前の名を付け替えて言うぞ、悔しくて不思議な気持ちがする。

 それもまだ雀なんかの様に常に飛んでいる鳥であればそのように感じることはない。

 鶯は春鳴く鳥だからこそだろう
 素性法師が拾遺和歌集で詠う、
「あらたまの年たちかへるあしたより待たるるものは鶯の声」
 などのように趣のあることとして和歌にも漢詩にも作るということだ。人も同様で、人並でなく世評もいかがわしくなり出した人を、誰が殊更悪くいうものか。

 鳶(とび)・烏などのことは目を見はったり聞き耳を立てたりする人など、決して世にはないのだ。そんなわけで、鶯は立派なはずの鳥となっているからこそと思うにつけ、不満な気がするのである。

 賀茂祭の翌日、斎王が斎院にかえる行列を見ようと、雲林院や知足院などの前に車を止めて見ると、時鳥も折からの情趣にがまんできないのか鳴くと、鶯がたいそう上手にその声にならって梢高い木の間を声を合わせて鳴いている野こそ、さすがに情緒豊かな物である。

 時鳥は、それ以上に言うことはない。いつかいつかと待つうちに、得意そうに鳴き声が聞えたと思うと、卯の花や花橘に止まって、なかば姿を隠しているのも、憎らしいほど立派なやりかたというものだ。

 五月雨の短い夜から目を覚まして、何とかして人より先に聞きたいものだと待つうちに夜が深いのに鳴き出す声は洗煉されて魅力がある、それは何とも心が動いてどうしようもない。六月になると声がしなくなる、その行動は素晴らしいと言ってもいい足りない。
 夜に鳴くもの何もかも目出度い。稚児が泣くのだけはそうでもない。

【四二】

 上品な物。
 薄紫色に白襲の汗衫を重ねた。
 家鴨・鵞鳥(がちょう)などの卵。
 氷を削った中に蔓や葉の汁を煮つめて甘味料としたものを混ぜて、新しい金椀(金属製の椀)に入れる。
 水晶の数珠。藤の花。
 梅の花に雪が降りかかる。
 とてもかわいらしい幼児が苺を食べている。

【四二】