私の読む「枕草子」 39段ー45段
【三九】
節供は五月の節に比べられる節はない。
邪気を払うための屋根に乗せる菖蒲(しょうぶ)、物に取り付けられた蓬(よもぎ)、それらの香りがお互い合致して漂うのが可笑しい。宮中の御殿を初め、どんな知られない民の住み家まで、なんとしてでも自分の屋根に沢山葺くのだとした光景はなんと言っても珍しい。いったい、いつ他の折に、そんなことはしたろうか。
空が曇っているのに中宮御所には衣服の裁縫を掌る縫殿寮よりいろいろな色の糸を組み下げた薬玉が贈られて来たので、御帳台の左と右の母屋の柱に取り付けた。
薬玉は麝香・沈香等種々の薬を玉にして錦の袋に入れ、糸や造花で飾り、菖蒲・蓬を結び、長さ八尺に余る五色の糸を下げ、簾や柱、または身につけて不浄・邪気を祓う呪(まじな)いとした。
御帳台は母屋に据える。普通は板敷の上、中宮などの場合は浜床と称する台上に設ける。四隅に柱を立て、上に塗骨の明障子をのせ、四隅と四方に帳を下ろす。中に畳二帖を置き、しとねを敷く。主人の居間または寝所とする。
九月九日の菊を綺麗な生絹(すずし)に包んで献上されたのを薬玉と同じように柱に取り付けてそれまである薬玉と解きかえて、はじめて薬玉を棄てる。薬玉は菊の節供まであるべきなのであるが、薬玉の糸をみんなが解いて縫い物に使ってしまうので、あまり長く御帳台の柱にはなかった。
節句に調進する供御(くご)参内に若い人たちが菖蒲で飾った刺櫛をさし柳の枝を削って物忌の簡(ふだ)を造って身につけ、いろいろな唐衣(からぎぬ)・汗衫(かざみ)に恰好のよい草木の折枝を、長い菖蒲の根にむら濃の組糸で結び、(唐衣・汗衫などに)つけているのが珍しくて、言ってはならないがちょっと異常である。さりとて毎春咲くからといって桜を並大抵に思う人などありはしない。
道を歩く童達、綺麗な物を身につけた思いで。しょっちゅう袂を気にして、人のと比べたり実に何ともいえないと思っている附け物などを馴れてふざけた小舎人童などにひっぱられて泣き出すのが、微笑ましい。
紫の紙に楝(あふち)の花、青い紙に菖蒲の葉を細く巻いて結び、また、白い紙を菖蒲の白い根でむすんだのも白と白で可笑しい。長い菖蒲の根を手紙の中に入れて送る、気持ちがこもっていてよろしい。返事を書こうと互いに書いた文を見せ合うのも、楽しそうである。
どこかの娘さんに、または高貴な方々に、文を差し上げるのは、今日は格別優雅な感じがすることだ。
夕暮れになって時鳥が鳴きながら塒に帰って行くのも、今日のすべてが優雅である。
【四〇】
花が咲かない木は、かへで、桂、五葉。そばの木(ブナの古名)は、下品な気持ちがするが花の咲く木が散ってしまって、一面が緑一色になってしまったときに時期に関係なく濃い紅葉のような艶のある花がおもいもかけずに青葉の中から顔を出す、珍しい。
まゆみ(檀)は檀紙の料とし、弓を作るに用いる。さらに言うことがないが、寄生植物宿り木という名は大変哀れに聞こえる。
榊、賀茂の臨時の祭(十一月下の酉の日)と石清水の臨時の祭(三月中の午の日)とあり、いずれも神楽を奏し、舞人は榊を手にして舞うときなど、大変楽しい。
世の中には多くの木がある、その中でこの木だけが神の御前のものとして生いはじめたというのも、とりわけ面白い。
楠の木は木が多く茂っているところに格別まじって立ってはいず、仰山に茂った様子を思いやるなどいやな気持だが、古今六帖、二に「和泉なるしのだの森の楠の木の千枝にわかれて物をこそ思へ」とあるように、千の枝に分かれて恋する人のためにあるのだと言われている、誰が枝の数を勘定して言い出したのかと思うと可笑しくなる。
檜の木、親しい感じのしないものだが催馬楽
「この殿はむべも富みけりさき草の三葉四葉に殿造りせり」
により、殿舎の造営に用いられることは楽しい。方干の詩「長潭五月雨含 冰気。孤檜終宵学 両声」にある五月に雨の音を真似をするというのはまた好い。
端午 5月5日
男児の健やかな成長を願う。
「端」は初めで、「午」は午(うま)の日。古来、5月初めの午の日に行われていた。
平安時代に宮廷行事として、天皇をはじめ文武官が菖蒲で作った鬘(かつら)を冠につけて邪気を祓う呪いや、馬射(うまゆみ)をしたのがはじまり。
江戸期にはいると武家では厚紙の兜や兜人形などを戸外に飾ったり武者絵幟が立てられ、やがて町人も次第に室内に兜や武者人形、絵幟などを飾るようになった。
今の鯉幟(こいのぼり)が登場したのは江戸時代の終わりころで、当時の風俗画には江戸の空を一斉に翻る様子がしるされている。また、端午の節供は菖蒲の節供、五月節供とも言われる。
端午の節供と結びついた日本の行事。
端午の節供は中国からの伝来品ですが、全部が全部外来製品というわけではなさそうです。
日本には古くから五月を「悪月」などと呼び、物忌みする習慣が有りました。これを「さつき忌み」と称し、菖蒲と蓬で屋根を葺いた「女の家」と呼ぶ小屋を造って女性たちが忌みごもりしたといいます。
これは、田植えが始まる前に身を清めて豊作を祈った上で「田植え」をはじめるためだといわれます。田植えにおいて主役は女性、「実りを生み出す」作業は「子を産む」性である女性でなければならないと言う発想からのようです(迷惑な話ですね)。
端午の節供は、この様な古くから日本に存在した行事と結びついたため、容易に定着したものと考えられます。
成り立ちから見るとどうも、元々は端午の節供も女性のための節供だったようです。その名残か、五月五日の「こどもの日」の趣旨には「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という一文があります(法律に)。
(いずれもネットから)
かへでの木、こじんまりとしているが葉が枯れて燃えるような赤み、同じ方向に広がる葉の様、花もとても物悲しそうで虫の枯れた姿に似て面白い。
あすはひの木。明日は檜の木になる意味で「あすなろう」ともよぶ。檜の木に似て深山陰湿の地に生ずるから、この近くでは見ることができない。御嶽(奈良県吉野山の金峰山(きんぶせん) に詣でた人が土産に持ち帰ってくる。枝振りなどは手が触れにくく荒々しいが、どういう気持ちで人は「あすはひの木(あすなろうの木)」と名付けしたのだろうか。「明日は・・・」なんてつまらぬ予言だこと。誰に向って頼ませたのかと思うにつけ、聞いてはやれないと可笑しい。
ねずもちの木。ネズミ、とは人並に待遇されそうな木でもないが、葉が大変に細かく小さいのが面白い。楝(おうち、あふち)の木。山橘。山梨の木。
椎の木、常磐の木、常緑樹は他にいくらもあるのに、椎の木に限って落葉しない例に言われたのも面白い。拾遺集に
「はし鷹のとかへる山の椎柴の葉がへはすとも君はかへせじ」(1230)
とある。
節供は五月の節に比べられる節はない。
邪気を払うための屋根に乗せる菖蒲(しょうぶ)、物に取り付けられた蓬(よもぎ)、それらの香りがお互い合致して漂うのが可笑しい。宮中の御殿を初め、どんな知られない民の住み家まで、なんとしてでも自分の屋根に沢山葺くのだとした光景はなんと言っても珍しい。いったい、いつ他の折に、そんなことはしたろうか。
空が曇っているのに中宮御所には衣服の裁縫を掌る縫殿寮よりいろいろな色の糸を組み下げた薬玉が贈られて来たので、御帳台の左と右の母屋の柱に取り付けた。
薬玉は麝香・沈香等種々の薬を玉にして錦の袋に入れ、糸や造花で飾り、菖蒲・蓬を結び、長さ八尺に余る五色の糸を下げ、簾や柱、または身につけて不浄・邪気を祓う呪(まじな)いとした。
御帳台は母屋に据える。普通は板敷の上、中宮などの場合は浜床と称する台上に設ける。四隅に柱を立て、上に塗骨の明障子をのせ、四隅と四方に帳を下ろす。中に畳二帖を置き、しとねを敷く。主人の居間または寝所とする。
九月九日の菊を綺麗な生絹(すずし)に包んで献上されたのを薬玉と同じように柱に取り付けてそれまである薬玉と解きかえて、はじめて薬玉を棄てる。薬玉は菊の節供まであるべきなのであるが、薬玉の糸をみんなが解いて縫い物に使ってしまうので、あまり長く御帳台の柱にはなかった。
節句に調進する供御(くご)参内に若い人たちが菖蒲で飾った刺櫛をさし柳の枝を削って物忌の簡(ふだ)を造って身につけ、いろいろな唐衣(からぎぬ)・汗衫(かざみ)に恰好のよい草木の折枝を、長い菖蒲の根にむら濃の組糸で結び、(唐衣・汗衫などに)つけているのが珍しくて、言ってはならないがちょっと異常である。さりとて毎春咲くからといって桜を並大抵に思う人などありはしない。
道を歩く童達、綺麗な物を身につけた思いで。しょっちゅう袂を気にして、人のと比べたり実に何ともいえないと思っている附け物などを馴れてふざけた小舎人童などにひっぱられて泣き出すのが、微笑ましい。
紫の紙に楝(あふち)の花、青い紙に菖蒲の葉を細く巻いて結び、また、白い紙を菖蒲の白い根でむすんだのも白と白で可笑しい。長い菖蒲の根を手紙の中に入れて送る、気持ちがこもっていてよろしい。返事を書こうと互いに書いた文を見せ合うのも、楽しそうである。
どこかの娘さんに、または高貴な方々に、文を差し上げるのは、今日は格別優雅な感じがすることだ。
夕暮れになって時鳥が鳴きながら塒に帰って行くのも、今日のすべてが優雅である。
【四〇】
花が咲かない木は、かへで、桂、五葉。そばの木(ブナの古名)は、下品な気持ちがするが花の咲く木が散ってしまって、一面が緑一色になってしまったときに時期に関係なく濃い紅葉のような艶のある花がおもいもかけずに青葉の中から顔を出す、珍しい。
まゆみ(檀)は檀紙の料とし、弓を作るに用いる。さらに言うことがないが、寄生植物宿り木という名は大変哀れに聞こえる。
榊、賀茂の臨時の祭(十一月下の酉の日)と石清水の臨時の祭(三月中の午の日)とあり、いずれも神楽を奏し、舞人は榊を手にして舞うときなど、大変楽しい。
世の中には多くの木がある、その中でこの木だけが神の御前のものとして生いはじめたというのも、とりわけ面白い。
楠の木は木が多く茂っているところに格別まじって立ってはいず、仰山に茂った様子を思いやるなどいやな気持だが、古今六帖、二に「和泉なるしのだの森の楠の木の千枝にわかれて物をこそ思へ」とあるように、千の枝に分かれて恋する人のためにあるのだと言われている、誰が枝の数を勘定して言い出したのかと思うと可笑しくなる。
檜の木、親しい感じのしないものだが催馬楽
「この殿はむべも富みけりさき草の三葉四葉に殿造りせり」
により、殿舎の造営に用いられることは楽しい。方干の詩「長潭五月雨含 冰気。孤檜終宵学 両声」にある五月に雨の音を真似をするというのはまた好い。
端午 5月5日
男児の健やかな成長を願う。
「端」は初めで、「午」は午(うま)の日。古来、5月初めの午の日に行われていた。
平安時代に宮廷行事として、天皇をはじめ文武官が菖蒲で作った鬘(かつら)を冠につけて邪気を祓う呪いや、馬射(うまゆみ)をしたのがはじまり。
江戸期にはいると武家では厚紙の兜や兜人形などを戸外に飾ったり武者絵幟が立てられ、やがて町人も次第に室内に兜や武者人形、絵幟などを飾るようになった。
今の鯉幟(こいのぼり)が登場したのは江戸時代の終わりころで、当時の風俗画には江戸の空を一斉に翻る様子がしるされている。また、端午の節供は菖蒲の節供、五月節供とも言われる。
端午の節供と結びついた日本の行事。
端午の節供は中国からの伝来品ですが、全部が全部外来製品というわけではなさそうです。
日本には古くから五月を「悪月」などと呼び、物忌みする習慣が有りました。これを「さつき忌み」と称し、菖蒲と蓬で屋根を葺いた「女の家」と呼ぶ小屋を造って女性たちが忌みごもりしたといいます。
これは、田植えが始まる前に身を清めて豊作を祈った上で「田植え」をはじめるためだといわれます。田植えにおいて主役は女性、「実りを生み出す」作業は「子を産む」性である女性でなければならないと言う発想からのようです(迷惑な話ですね)。
端午の節供は、この様な古くから日本に存在した行事と結びついたため、容易に定着したものと考えられます。
成り立ちから見るとどうも、元々は端午の節供も女性のための節供だったようです。その名残か、五月五日の「こどもの日」の趣旨には「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」という一文があります(法律に)。
(いずれもネットから)
かへでの木、こじんまりとしているが葉が枯れて燃えるような赤み、同じ方向に広がる葉の様、花もとても物悲しそうで虫の枯れた姿に似て面白い。
あすはひの木。明日は檜の木になる意味で「あすなろう」ともよぶ。檜の木に似て深山陰湿の地に生ずるから、この近くでは見ることができない。御嶽(奈良県吉野山の金峰山(きんぶせん) に詣でた人が土産に持ち帰ってくる。枝振りなどは手が触れにくく荒々しいが、どういう気持ちで人は「あすはひの木(あすなろうの木)」と名付けしたのだろうか。「明日は・・・」なんてつまらぬ予言だこと。誰に向って頼ませたのかと思うにつけ、聞いてはやれないと可笑しい。
ねずもちの木。ネズミ、とは人並に待遇されそうな木でもないが、葉が大変に細かく小さいのが面白い。楝(おうち、あふち)の木。山橘。山梨の木。
椎の木、常磐の木、常緑樹は他にいくらもあるのに、椎の木に限って落葉しない例に言われたのも面白い。拾遺集に
「はし鷹のとかへる山の椎柴の葉がへはすとも君はかへせじ」(1230)
とある。
作品名:私の読む「枕草子」 39段ー45段 作家名:陽高慈雨