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私の読む「枕草子」 31段ー38段ー

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 外見は髪の毛が重なりあってゆったり出ている具合から、およそ長さは推量されたが、そこにまたどこからか男が現れる。


清範 【せいはん】
 生年応和2 (962) 没年長保1.閏3.22 (999.5.10)
 平安前期の法相宗の僧で清水寺別当。「しょうはん」ともいう。別称清水律師・清水上綱など。播磨国(兵庫県)の人。興福寺守朝や真興に師事し法相を極めた。長徳3(997)年に維摩会講師を勤め,翌年その功により権律師に任ぜられた。文殊の化身とされ藤原道長が設けた法会において,文殊と書いた札を隠した僧侶の坐帖を見抜いた逸話が伝えられる。また,説教の名手でもあり藤原定子が設けた法会では万座の人々を感泣させたという。<著作>『般若理趣分経註』(追塩千尋)

源宗于(みなもとのむねゆき)
生年 生年不詳 没年 天慶2.11.22,23 (940.1.4,5)

白露のおくを待つ間の朝顔は
   見ずぞなかなかあるべかりける
           新勅撰集

 平安時代の歌人。三十六歌仙のひとり。光孝天皇の孫・是忠親王の子。寛平6(894)年,従四位下となり,源姓を賜り臣籍に下る。諸国の守などを歴任し,正四位下右京大夫に至る。官途には恵まれず,『大和物語』にはその不遇を嘆く話などがみられる。 寛平御時后宮歌合以下6度の歌合に出詠し,『古今集』以下の勅撰集に15首入集。家集に『宗于集』(その歌は9首であとは他人の歌)があり,紀貫之との贈答歌が含まれている。「山里は冬ぞさびしさまさりける人めも草もかれぬと思へば」(『古今集(315)』)の歌が,百人一首に採られている。(浅見緑)

朝がほんのりと明けてくる頃霧がたちこめて、男は二藍色の指貫にほとんど無色の狩衣、白い生絹の単衣に紅の打衣(うちぎぬ)の色が透くせいか、つやつやしい、それが朝霧に大層しめっているのをゆったり着て。頭の左右側面の髪、鬢が少しふっくらとしているので烏帽子に髪を押し入れた様子がしまりがないように見える。

 男は女のもとに後朝の文を朝顔の露が落ちてしまうまでに書こうと急いで戻ろうと
「桜麻(さくらを)の麻生の下草露しあらば明してゆかむ親ほ知るとも」
 なんかの歌を口ずさみながら気ままに歩いて自分家に帰ろうと格子が開いた局の御簾を少しばかり引き上げてみる、ここから帰ったと思う男のことにも興味がわき、朝露の風情も見捨て難いと男は思って早朝帰りをしたのか、としばらく眺めている、枕の方に朴の骨に紫の紙を張った扇が広げたままである。陸奥紙の檀紙を二つに折った畳紙ほっそりとした花色のが少しばかり香りを漂わせて几帳の許に散らばっていた。

 女は人気がするのでで、かぶっていた薄手の衣を通してみると男が笑顔で長押に座り込んでいた。別殿遠慮のいる人ではないが、といってそれ以上親しくする程の間でもないのに、寝姿を見られて癪なことだと、女は思う。
男が、
「これはこれは昨夜の名残の朝寝ですか」 
 と言いながら御簾の内側へ体半分ほど入れてきたので、
「露より早く起きて帰った人って、どういうことよ、くやしくて」
と言う。かわっている、取り立てて書くほどのことでもないがあれこれ語り合う二人の様子は悪くない。

枕元にある扇は男の持っている扇で及び腰になってかき寄せる、それを女はこんなに近づいてきてと心がときめき身を引かずにいられない。男は扇を取ってみて、
「よそよそしく思づておられることですな」 など思わせぶりを言い、恨みごとなど述べるうちに外は開けてきて人声がして陽も差してくるだろう。朝霧の晴れぬ間にと急いだ後朝の文も、こうして怠けてしまったのは気がかりな次第だ。

この女の所から帰っていった男も、早く届けられようかと急いで書いたらしく。手紙は、露がおいたまま折った萩につけてあるが,使は遠慮してさし出せずにいる。香色(丁子色)の薄様の、ひどく香をたきしめた、そのにおいが大層よい。夜が明けすぎてきまりわるい時分になってきたので立ち去って自分が残してきた女の所もこんなかしらと思いやられるのも、興深いにちがいない。

【三七】
 木に咲く花は濃いのであれ薄い色であれ紅梅である。桜は花弁が大きくて葉の色の濃いのが細い枝に咲いているのがいい。藤の花は花房の垂れ下って色が濃いいのが大変によろしい。

 四月終わり五月始めの頃に橘、葉が濃いい青に白い花が咲いていて、夜に雨が降った翌朝早くに見るとこの世に居るのであろうかと思う気持ちが好い。

倭漢朗詠集、橘花に後中書王(具平親王)

「枝繋金鈴春雨後 花薫紫麝凱風程」(枝には金鈴(きんれい)を繋(か)けたり春の雨の後 花は紫麝(しじゃ)を薫(くん)ず凱風(がいふう)の程」(春雨の後に、橘の実は熟して枝に黄金の鈴をかけたようだし、その花は初夏の南風に咲き匂うて麝香を薫ずるようだ)(172)
と詠っておられるが、花の中に黄金の玉が見えて、大変鮮やかで、朝露にぬれた朝早くの桜の花に劣らない。ほととぎすが好んで橘に宿ることを詠んだ歌は万葉以来非常に多い
時鳥ゆかりの木であろう。これ以上に言うことがない。


具平親王 【ともひらしんのう】
生  康保1.6.19 (964.7.30)没年 寛弘6.7.28 (1009.8.21)
 平安中期の皇族で文人。後中書王,六条宮,千種殿と称される。二品。村上天皇の第7皇子で母は女御荘子女王(代明親王の娘)。藤原頼通の妻隆姫の父。2歳で親王宣下。幼くして才智にすぐれ、慶滋保胤らに師事して漢詩文を学ぶ一方、和歌にも秀で陰陽・医術にも通じ,能書家でもあった。個人の詩集・歌集は今に伝わらないが漢詩集や勅選集に作品が残る。一条天皇朝(986~1011)の才人として親王では彼のみが挙げられている。逸話も多く,柿本人麻呂と紀貫之の優劣を藤原公任と論争した際,人麻呂が優れていると主張して勝った話は有名(『古事談』)。永延1(987)年中務卿となり4年後,『弘決外典抄』を選述。源信・保胤らとの交流から仏教にも深い結びつきを持った。左京の六条に豪邸千種殿を営んだ。<参考文献>大曾根章介「具平親王考」(『国語と国文学』1958年12月号) (朧谷寿)
             (ネットから)

 梨の花。まことに面白味のないものとして、身近に愛玩せず、ちょっとした手紙を結びつけなどさえしない。愛矯の足りない人の顔など見ては、梨の花のようなお顔、と例えにして言うのであるが、本当に葉の色から始まって味がなく愛されない。と私たちは見ているのであるが、唐国では限りなくいいものとして漢詩、漢籍にも梨の木は書かれている。

 唐国でそうであっても、やはりそれだけ唐国で珍重される理由があるのだろうと、強いて注意をして見ると、花びらの端の方にほんのりとした色艶があるかないかの程度についているようだ。