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私の読む「枕草子」 31段ー38段ー

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 平安時代の歌人。左大臣師尹の孫。父は侍従定時・母は左大臣源雅信の娘。父の早世のためか叔父済時の養子となった。侍従・左近衛中将などを歴任したのち長徳1(995)年に陸奥守となって赴任し任地で没した。『拾遺集』以下の勅撰集に67首が入集。藤原公任や大江匡衡また恋愛関係にあった女性たちとの贈答歌が多く、歌合など晴れの歌は少ない。はなやかな貴公子として清少納言など多くの女性と恋愛関係を持った。奔放な性格と、家柄に比して不遇だったことから、不仲だった藤原行成と殿上で争い、相手の冠を投げ落として一条天皇の怒りを買い「歌枕見てまゐれ」といわれて陸奥守に左遷されたという話などが生まれ、遠い任地で没したことも加わって、その人物像は早くからさまざまに説話化された。(山本登朗)

藤原 伊尹(ふじわら の これただ/これまさ)
 平安時代中期の公卿。右大臣藤原師輔の長男で、妹の中宮・安子が生んだ冷泉天皇、円融天皇が即位すると栄達し、摂政・太政大臣にまで上り詰めた。しかし、その翌年に早逝。子孫は振るわず、権勢は弟の兼家の家系に移る。

藤原義懐 【ふじわらのよしちか】
生年天徳1 (957)没年: 寛弘5.7.17 (1008.8.20)
 平安中期の公卿。法名は悟真(のち寂真)。従二位。摂政伊尹と恵子女王(代明親王の娘)の子。5男。懐子の弟。永観2(984)年甥の花山天皇(母が懐子)の即位にともない蔵人頭に任じられ,翌年参議・権中納言に進んだ。(朧谷寿)

藤原道隆 【ふじわらのみちたか】
生年天暦7 (953) 没年長徳1.4.10 (995.5.12)
 平安中期の公卿。中関白、町尻殿と称される。摂関兼家と藤原中正の娘時姫の嫡男。寛和2(986)年権力を掌握した父の策により非参議から権中納言を10日余り経験しただけで権大納言という異例の昇進をした。正暦1(990)年父から関白を譲られて氏長者となり、この年に一条天皇に入内した娘の定子が中宮に冊立された。その後、次女の原子も東宮の居貞親王(のちの三条天皇)に入っている。しかし中関白家の春も長くは続かなかった。病を得た道隆は嫡男の伊周を内覧として関白を譲ろうと図ったが実現できず、道隆の早死にが中関白家の失墜につながった。死因は深酒による糖尿病といわれる。(朧谷寿)

藤原師輔 【ふじわらのもろすけ】
生年延喜8 (908) 没年天徳4.5.4 (960.5.31)
 平安中期の公卿。藤原忠平と源能有の娘昭子の子。九条殿と称される。延長1(923)年従五位下に叙せられたあと官位累進し承和1(931)年蔵人頭、天慶1(938)年従三位。権中納言を経て大納言、天暦1(947)年右大臣となった。村上天皇の女御(のち皇后)となった娘安子が皇子憲平親王(のちの冷泉天皇)を生んだことで第1皇子広平親王(外祖父は藤原元方)を退け憲平を皇太子に立てている。(村井康彦)

藤原為光(ふじわらの-ためみつ)
942ー992平安時代中期の公卿(くぎょう)。天慶(てんぎょう)5年生まれ。藤原師輔(もろすけ)の9男。母は雅子内親王。天禄(てんろく)元年(970)参議。右大臣従一位にすすみ正暦(しょうりゃく)2年太政大臣。娘忯子(しし)の死をいたんで法住寺を建立。

車の前後にある簾の内側にかける長い帛。あまりを簾の外に垂らす、のをほんの今日つかいはじめたらしく、濃い紅の(単がさねは五月から八月の夏期着る)単の衣を二枚重ねて袖口やつまを縫い合せず糊を引いて捻り一枚のようにみせるという二襲の織物、蘇枋の薄い上着などが、車の後方にも育摺の裳(白地の絹に山藍などで文様を摺りつけたもの)静かに広げてて下に下がりなどして、誰であろうか、何でまた悪いことがあろう、なまじつまらぬ返事などするよりは、なるほどああした無愛想なやりかたの方がましにきこえ、かえって立派だとそう思うことだ。

八講は朝夕二座で四日間行う。
朝座の講師清範(せいはん)二十五歳講座に坐ると当たりが光り満ちて大層立派である。
暑いさなかであるし、やりかけた仕事で今日を越せないのをさしおいて、ほんの少し聴いて帰ろとしたのにあとからあとから幾重にも集った車なので出ることが出来ない。朝座の講がすんだならどうして出ようかと、私の車の後にある車に退出することを告げると、直ぐに車を出発する用意をしてくれた。早々と後の車の人が己の車をひき出して「さあさあどうぞ」と道を空けて出してくれたので、それを見ていた老上達部までが笑うのを聞きもでず答えもしないで狭いところをむりやり出ると権中納言は、
「やあ、退出したのもまたよい」
と、老上達部は法華経方便品に見える故事によって戯れて言った。釈迦が開三頭一の法を説こうとした時、五千人の増上慢が法座を起って退いた。釈迦はこれを制止せず、
「如是増上慢入退亦佳突」と言ったという故事のことである。
と言ったのは見事である。そんなことを耳にもしないでやっとこさ車を広いところに出して、使いの者を送って、
「そうおっしゃるあなたは五千人の増上慢の一人でしょう」
右の法華経の故事により、釈迦如来を気どった義懐に応酬した。

 その講座の始めより最後の日までずっと停車した車があったが、人が寄って来ることもなくずっと静かに絵のようにあったので、有り難く何となく心憎い感じで、どのようなお方であろうか、分かりたいと中納言が声を掛けられるのをみんなが聞いていて藤大納言たちが、
「何が立派であろうか、憎らしい変なやつなんであろう」
 と言われるのが可笑しかった。

 そうして、その日から二十日ばかりたった日寛和二年(九八六)六月廿四日義懐は花山院に殉じて出家されたのは哀れな話である。桜が散ってしまうが、これと同じこと普通の惜しさというものだ。
「『白露のおくを待つ間の朝顔は見ずぞなかなかあるべかりける』源宗于(むねゆき)が新勅撰集で詠っているように、朝顔の盛りにも讐えられそうにない豪勢な御様子でいらっしゃったのに」
 と言ってもいいほどの有様に見えたのであろう。

【三六】

 七月にはいると大変暑いので屋敷中至る所を解放して夜を空かす。月が綺麗に見える頃ふと眼がさめて外を見ると、実によい。闇もまたいい。夜明けは言うこともない。

 綺麗に磨かれた板敷きの端のほうに鮮明な色あいの畳一枚をちょっと敷いて、三尺の几
帳を奥の方に押しやってみっともない姿である。端の方にたつ、奥の方が気がかりだとでもいうのかしら。

 昨夜通ってきた男帰ろうと出て行ったであろう、薄紫色の、裏が大変濃くて表面はすこし色があせたのか濃いい綾のつやつやとして、大変柔らかくなったのを、頭からすっぽりとひっかぶって女は寝ている。

 丁子を濃く煮出した汁で染めた色で、薄紅に黄色をおびている香染めの単衣か若しくは黄生絹(きすずし)の単衣、黄色の練らないままの絹生絹で、紅の単衣、袴の腰は衣の下から長々と伸びて着ている。「腰」は袴についている幅の広い二筋の紐。普通は右の腰の所でたてに結び、余りを垂らす衣の下から大層長々と引かれるように着なしているのも、昨夜解いたままなのだろう。