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私の読む「枕草子」 13段ー24段

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と質問される。総ての歌を夜昼なく憶えて、お答え出来る歌もあるが、すらすらお答え出来無いのはどうしたことであろう。藤原重輔
の娘である女房の宰相の君が十程応えるが思い出した数には入らない、まして、
「五六首なんかでは全然思い出しませんという風に申し上げるべきだが、何でそうそっけなく、せっかくのお言葉を無意味にとりなせましょう」 
 と、困惑し残念がるのも面白い。憶えている人が居ないと言うままでそのまま下の句まで読みつづけて。竹の栞を挟まれたので、
「これは知っていなければならないことである、なんでこうおぼえが悪いのでしょう」
 と嘆く。中でも古今集を結構書き写して居る人はかならず全部でも思い出すはずの事なのだ。


内裏図
http://tukineko.pekori.jp/heian/dairizu/dairi.html
清涼殿図
http://tukineko.pekori.jp/heian/dairizu/seiryou.html

壬生忠岑(狩野安信『三十六歌仙額』)壬生 忠岑(みぶ の ただみね、貞観2年(860年)頃 - 延喜20年(920年)頃)は、平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。

唐衣
「背子 形如半臂 無腰襴之袷衣也、 婦人表衣 以錦爲之 加良岐沼(からきぬ)」
 和名で背子を「加良岐沼」と呼ぶ、形は半臂(はんぴ)に似て欄がない、女性が着用する袷の表衣、と記述があり、この半臂に似た背子が、平安時代に袖が付き、大振りになるなど上着様式に整えられた結果、後世唐衣と呼ばれる衣服になったと考えられている。
 また、正倉院には伎楽の女性が着用したと伝承されている、ベストのような袖のない短い衣服が現存しているが「背子」という墨書もないため、何であったか詳細は不明となっている。
http://inuiyouko.web.fc2.com/sirotae/j03/nyoubou.html
(以上ネットから転載)
「なにはづ」のお手本
「なにはづにさくやこの花冬ごもり今は春べとさくやこの花」の歌で、当時手習のはじめの手本とされた。今の「いろは」に相当する。
意味:
 難波津に咲くよ、この花が。冬の厳しさに耐え、今は春になったと、咲くよ、この花が。
解説:
 百人一首の競技の初めに序歌として朗詠されるこの歌について、古今和歌集仮名序には、次のような記述がある。

 難波津(なにはづ)の歌は、帝の御初(おほむはじ)めなり。大鷦鷯の帝(おほさざきのみかど)、難波津にて皇子(みこ)と聞える時、春宮(とうぐう)をたがひに譲りて位に即(つ)き給はで三年(みとせ)になりにければ、王仁(わに)といふ人のいぶかり思ひて、詠みて奉りける歌なり。この花は梅の花をいふなるべし。

訳:
 難波津の歌は大鷦鷯の帝(仁徳天皇)の御代の初めを祝う歌である。仁徳天皇が難波で皇子であられた時、弟皇子と春宮の位をたがいに譲り合って即位なさらず、三年も経ってしまったので、王仁という人が気がかりに思い、詠んで奉った歌である。この花は梅の花をさすのであろう。(王仁:百済から帰化した学者)
(日本古典文学大系補注から転載)

「村上天皇は円融天皇の御父で一条天皇の御祖父に当る。そのお方のご治世のときに、女御の宣耀殿(せんようでん)芳子と言われた方は、小一条の左大臣藤原師尹(もろまさ・もろただ)娘であることは知らない人はこの中に居ますか。未だ姫君と呼ばれていた頃のこと父上の師尹の教えを聞かれたのは、『一つは、習字を確りとしなさい。次には七絃の琴を他人よりすぐれて上手に弾こうとお心がけなさい。さらに古今集二十巻の歌を全部暗唱しなさい』
 と教示成された。『物忌』は神祭その他のため飲食・行為を慎しみ、沐浴などして心身を浄め、蝕穢を忌むことで、宮中がその『物忌』に当たる日に、古今集を持って姫の前に村上の帝が行かれて、几帳越しにお座りになったので、姫は普通とは違うと感じなされたところ帝は草子を広げられて、
『その月、何の行事の時、その人の詠んだ歌は何か』
 と問われたところ、女御はああそうだったのかと合点がゆかれるにつけ、興ふかいものの、もし記憶ちがいをしたり忘れた所でもあったら大変なことだと、さぞまあ御心配になったことでしょう。天皇は歌の方面に不確かではない女房を二三人ほどお召しになって、
碁石をつかって、女御のお答の誤りを点に取らせるおつもりで、女御に勝負をお強いになったその時など、まあどんなに素晴らしく面白かったことでしょう。その時に伺候していた人が羨ましい。強いて仰せになると、女御は、えらそうにずっと下の句までお述べにはなりませんが、全く一点の誤りもありませんでした。天皇は、それでも何とかして少しでも誤りを見つけて、そこでやめにしようと、癪なほどにお思いになったのですが、十巻ほど読み進んでしまっていた。これは無駄なことをしたと草子に栞を挟んで、床にお付きになった。目出度い話である。一時お休みになって起床されて、それでもこのことは、勝負をつけずにおやめになるのは甚だ具合よくないとお思いになって、残った下の十巻を、明日になったら女御が別の本を参照なさると考えられて今夜のうちに勝負をきめてしまおうと大殿油(おほとなぶら)、寝殿用の灯火
を持ってこさせて深更まで詠ませ続けられた。
結果、女御は天皇にお負けにならずにすんでしまわれたのでした。村上天皇は女御のお部屋にお出でになった。側に居た者が女御の父上に通知されたので、これは大変なことと騒がれて寺々に依頼し読経をさせたり、左大臣は内裏の方角に向って祈念しつづけられたのでした。風流で感に堪えないことですね」
中宮は側の者達に話をされた。それを帝がお聞きになって、女御を誉められて、
「自分は、三四巻も読んではいない」
 と仰せになった。
「昔はいい加減な人でも賢かったが、今ではそのようなことは聞いたことも無い」
 中宮の御前に侍する女房や、主上附きの女房で中宮方への出入りを許されている者、口々に言うのを、ほんの些細な事ではあるが立派な話であると思う。

【二四】
 将来の希望もなく、ただきまじめに、つまらぬ幸福の幻影など追っているような女性はどうも気づまりで、軽蔑したい感じがして、
やはり相当な家の娘などは宮仕をさせ、世間の様子も十分見せてやりたい、内侍司の次官で従四位相当の典侍で暫くお勤めすれば、と考えるものである。
 宮中で働く者を、軽薄でいけないことに言ったり思ったりする男性などは、憎い奴らである。だが一方から考えると、なるほどそれもまたもっともなことではある。 申すもおそれ多い方。主上・中宮など始めとして、上達部(公卿(くぎょう))・殿上人・五位・四位は当然のこと、宮仕する女性が顔を合せない人はほんの少数であろう。女房付きの侍女、女房の私宅から来た者、下働きの「長女(おさめ)・便器の掃除などに奉仕する下賎な女官御厠人(みかわやうど)の従者、「たびしかわら」(礫・瓦)と言う賎しい者まで、
いつ宮仕の女性がそんな下賎の者達に会うのは恥だといって隠れたことがあろうか。殿がたなどは本当にそう下賎の者達に顔を合せないというのだろうか、宮中にその職がある以上はきっと会うに違いない。