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私の読む「枕草子」 13段ー24段

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【一三】
 山は山城にある小倉山。山城・大和の境の鹿背山(かせやま)。大和にある三笠山。このくれ山・いりたちの山。陸前国のわすれずの山・すゑの松山。かたきり山こそ遠慮の山とて可笑しな名前で面白い。越前国のいつはた山・かへる山。若狭国ののちせの山。筑前国のあさくら山、「昔見し人をぞ我はよそに見し朝くら山の雲のはるかに」の歌がある。
自分とは関係ないとは面白い。おほひれ山という名前も面白い、石清水臨時の祭の試楽に東遊の犬比礼楽をうたう、舞人達の思いが浮かんで来るであろう。大和国の三輪山はうつくしい。たむけ山。摂津国のまちかね山、たまさか山。大和国のみみなし山。

【一四】
 市場は、平城京の東市。たつの市、辰の日に定期に市が立つ。
 都の東西の市に外京のさとの市。
 大和に沢山ある市の中に、つば市は長谷にある初瀬寺に参詣する人はかならず、つば市に泊まるというのは、初瀬観音のご縁があるのであろうか心持や感じが格別であるのであろう。
 おふさの市、播磨の国のしかまの市。大和のあすか市。

【一五】
 峰は、摂津国のゆづるはの峰。山城国のあみだの峰。近江の国のいやたかの峰。

【一六】
原野は、山城の国のみかの原。大和国のあしたの原。信濃国のその原。

【一七】
 淵は、かしこ淵、淵の底を見てこんな名前を付けたのか、底はどんな気持ちを抱えているのだろう、面白い。ないりその淵、入るなとは誰に誰が注意しているのだろう。青色の淵は恐ろしい。六位の蔵入は天皇の御袍である青色の袍の着用が許される。かくれの淵。
大和国高市郡高市村のいな淵。

【一八】
 海は、湖。丹後国与謝郡の宮津湾、よさの海。かはふちの海。

【一九】
 御陵(みささぎ)は、うぐひすのみささぎ河内国、孝徳天皇大阪磯長(しなが)陵。かしはぎのみささぎ、桓武天皇御陵。あめのみささぎ、天智天皇御陵。

【二〇】
 渡し場は、しかすがのわたり、三河国宝飯郡、旧飽海川の渡し(更級日記などにも見える)。こりずまのわたり(須磨と淡路の間か)
「しかすが」「懲りずま」面白い語彙。水はしのわたり、越中国。

【二一】
 館は、たまつくり。

【二二】
 家は。近衛の御門、陽明門、大内裏外廓十二門の一。二条みかゐ、二条院。一条院も好い。そめどのの宮、藤原良房の邸宅。せかい院、清和院。すがはらの院、菅原道真の家ともその父是善の家。れいせい院、冷泉院。閑院、藤原冬嗣の邸。朱雀院、累代の後院。をのの宮、もと惟喬親王の邸宅。後、藤原実頼が住む。こうばい、紅梅殿、道真の家。あがたの井戸、井戸殿、一条の北、東洞院の藤原師尹(もろただ)の家小一条院。藤原師尹の家酉角。たけ三条、東三条院。小八条。小一条、

【二三】
 清涼殿の丑寅(東北・鬼門)の隅、孫廂の北端に仕切りのため立ててある布張の衝立障子(今日の襖)。荒海の障子と称し、南面に手長足長、北面に宇治の網代の墨絵、おそろしいものが描かれてある。清涼殿北廂にあり、后や女御の伺候する所の上のお局の戸を押し開けると、その怖い絵が目に入るので睨み付けて笑う。
欄干の端勾欄の許に青磁の瓶の大きいのを置いて桜の花枝の見た目に宜しいのを五尺ばかりの長さになるのを多く挿したら勾欄の外まで咲き乱れた。お昼頃に中宮定子の兄で道隆の嗣子である大納言藤原伊周(これちか)が、桜の直衣の少し柔らかいのに濃いい紫の固紋(かたもん)の指貫白い衣、上に鮮やかな色の綾織物を出袿(いだしうちぎ)にして着ておられるが、帝、一条天皇はお歳は十五歳、局の方に居られるので戸口の前の狭い板敷きに居られて話をされる。

 御簾の内側では女房が礼装の時上着の上に着用する桜がさねの唐衣などをゆったりと片袖を脱いで垂らして寛いで、表薄紫、裏青や表薄朽葉、裏黄などの色々な襲(かさね)の色合いが好ましく、清涼殿北廊の小さい蔀の鴨居から吊り下げた御簾の下から女房の袖口を外に出した「おしいで」が多く見られ、帝の昼の御座所には昼食の膳を運ぶ足音が高く響いている。「どいて」という注意の言葉が聞こえてくるけれど、日ざしが柔らかで、穏やかなのどかな様子、最後の御膳を持ってきて蔵人が「お食事の準備が出来ました」と奏上すると萩の戸と藤壺の上局の間の戸を開いてお出になって席にお着きになる。お供に伊周大納言がお付きになって部屋に案内されると又許の勾欄の桜の花瓶の所にお戻りになって控えておられた。
 中宮定子様(一八歳)は、前の几帳を押しのけて前面のお供の控えの間との境にある長押の許にまでお出になって何となく結構なお時間を過ごされると誰もが思う時に、壬生忠峰のうた、
「月も日もかはりゆけどもひさにふる御室の山のとつ宮どころ」
と、大納言伊周様がゆっくりとお詠いになる。本当に千年もこのままであって欲しい現況である。
 食事の世話をする蔵人達がお前に現れるまもなく、食事を終えられて部屋に戻られ。「硯の墨を摺れ」
 と中宮が仰せになるので、墨を摺るのであるが目が定まらず帝と中宮を見詰めたままで手を動かしているので墨の繋ぎ目を離し落としてしまった。
 中宮が白紙を折りたたんで
「これに、今すぐ思い出す古歌を一首づ書きなさい」
 と仰せになる。
 御簾の外にいる伊周に私は紙を差し出して
「これは如何いたしましょう」
 と、尋ねると
「早く書いて差し上げなされ、男が口出しするようなことではありません」
 と言われて御簾の下から戻される。
中宮は硯をお貸しになって、
「あまり考えないで、「なにはづ」のお手本なんか、ふと思いついた歌を」
 と急がされるのに、何であんなに緊張したのか、上気して考えが纏まらない。そうして
春の歌の、花に寄せる気持ち、そうは言うものの、先輩女房が二三書かれて、
「このようでは」
と差し出された歌を見ると、古今集(52)「染殿の后の御前に花がめに桜の花をささせ給へるを見てよめる」として見える摂政良房の歌
 年経ればよはひは老いぬしかはあれど
   花をし見ればもの思ひもなし
(長い年月が経ったので、私はすっかり年老いてしまった。けれども、この桜の花を見ていると、なんの憂いもない)
年経ればよはひは老いぬしかはあれど
   君おし見ればもの思ひもなし
と「花をし見れば」のところを「君おし見れば」と替えて書かれてある。二つを比べられて中宮は、
「二つともの心情が知りたいだけです」
 と言われて、ついでに
「帝のお父上の円融院の時に、『冊子に歌を一首書きなさい』と殿上人に仰せになったので、なかなか書けなくて御辞退申す人々もあったのですが院は『たんに字の上手下手は歌に影響有ると言うことは無い』と更に仰せになったので、困惑しながら歌われた中に、今の関白道隆殿が三位中将であられましたが、
『しほのみついつもの浦のいつもいつも君をばふかく思ふはやわが』の最後を『たのむはやわが』と替えて歌われた。院は大層お褒めになった」
 と仰せになられたことに、冷汗の気持ちであった。年の若い人はとても詠えたものでは無い事であろうと思う。常に能く書かれる人もあいにくとみな遠慮されて、書き損じなどしたのもある。
古今和歌集の冊子を前に置かれて歌の上の句を言われる。そして、
「この下の句は」