私の読む「枕草子」 1段ー6段
【一】
春の夜明け、次第に周辺が白く見えてくる、空を見上げると都を取り巻く山との境が少し明るくなって、紫がかった雲が細く棚引いている。
夏の夜、月が綺麗に照らしているときなどは格別である。月が無くて暗いときでも蛍が多く飛び交っている。その蛍が一匹、二匹だけが飛んでいくほのかな光も味があるものである。雨が降るのも風情がある。
秋の季節は夕暮れ時である。夕日が照らす山々が近くに見えるような感じがする中を、烏が塒の巣に向かって帰るのであろうか二羽三羽急いでいるのが可愛い。その向こうを雁が列を成して飛んでいくのが小さく見えるのが可笑しい。陽が暮れると風の音が聞こえてそれに混じって虫の鳴き声が聞こえて来るのは言うこと無しである。
冬の早朝。雪が降るのは言うこともないが霜が降って一面真っ白になるのも更に好い、がそんなことよりも大変寒い、急いで火をおこして炭火赤々として持って行くのも冬景色に調和している。昼になって暖かくなって来る頃には火鉢の炭火が白く灰になっているのは見栄えが悪い。
【二】
月は正月・三月・四月・五月・七八九月・十二月その時々に色々とあって一年がそれなりに過ぎていく。
【三】
正月元日、祝う日で、まして麗らかな上天気で春先のように霞が掛かった日であれば、世の中のあらゆる人々は姿も着ているものもそして気分も新たにして、主君にも上役同僚にも新しい年を迎えた祝い事を言うのは目出度いことである。
七日、雪の中で若菜を摘み歩くのはそんな菜などは見つかるはずが無いのに、騒ぐだけが楽しいのは可笑しなことである。
この日はまた、白馬(あをむま)の日である。もともとは青馬であったのが白馬にされた。読み方だけは「あをむま」となっている。馬は陰陽で陽の獣とされていて、「青」は春の色である。万葉集巻二十(4494)「水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は限りなしといふ」(寿命無限だという)に大伴家持に詠まれており、行列を見ようと、宮中奉仕の女性で自宅に下りている里人達は牛車を綺麗に仕立てて見に行く。貴族の多くは京の東に住んでいるから待賢門を通過して内に入る、その度に車輪が門の下の横木「とじきみ」を乗り越えるときに中の者達は一斉に頭を鉢合わせして頭に刺した綺麗な櫛を落としたり、用心をしておかないと折角の櫛を折ってしまって苦笑いをする、毎年のことだが面白い。
内裏の東の建春門にある官人の詰所(陣)の所に殿上人が多く立ち並んで、舎人が持っている弓を取り上げて馬を脅かして大笑いするのを僅かに見ていると、温明殿の前の立て塀が見えて、薪炭・火燭等を掌る主殿司の女官達が行き交うのが見えて面白い。何人の女官が皇居に働いているのだろうか、など思っている。車の中を見ると狭い中で舎人達の化粧が目立ち、所々雪が消えたように化粧の塗り落としが見えて大変見苦しく、馬が騒ぐのも恐ろしいので、急いで車が入ってしまったので車内の光景はよく見えなかった。
八日、女叙位(にょじょい)・女王禄(おうろく)が行われて、目出度い人々がお礼を延べに車を走らせる音が終日聞こえて可笑しい。
十五日は望粥(もちがゆ)の御膳を供する節供の日である。米,粟・黍・小豆・胡麻など七種の穀類を煮る。この日粥を煮るときに使用する棒「粥杖」を隠し持って、女房達の尻を叩く、子供が授かる呪いであるが、女房を始め女達は尻を叩かれまいと、後ろを絶えず振り返って警戒している光景が笑いものである。隙を狙って叩いた者は面白がっているが、叩かれた女は癪だと思っているのも尤もだ。
新婚の夫が姫の元に通ってこられて未だ何とも落ち着かない二人の姿を是非にと隙を窺う女が隠れているのを前に居る女房が可笑しな事と笑うのを手で制したりしているのを姫君は夫に夢中でおっとりとしていて、
「この物を頂きます」
と言うなり姫の尻を打ち据えて逃げていくのを、姫は大声で笑う、夫も格別驚いた風でもなく笑って御覧になっていらっしゃる。女だけでなく男までもが顔を赤らめているのは奇妙な風景である。また、事のついでに男の尻をも叩く。これはいったいどんな了見なのかと不吉なことのように言うものが居るのも可笑しい。宮中のやんごとなき人々も今日は無礼講で騒いで堅いことは言わない。
官吏任免の儀式は県召(あがためし地方官)・司召(つかさめし京官)の二種がある。
正月九日より三日間県召の行事がある。雪が降って周囲が凍てつく中行事が進行する。
叙任を申請する文書を持って歩く四位・五位の姿が若くて頼もしく見える。年輩で頭も白くなった人達が縁故を求めて頼み込むのか知り合いの女房の局に立ち寄って、自分が如何に能力のある者であるか、とそのことばかりを言い立てているのを若い人達は真似をしては笑っているが、結果は如何であったろう。
「帝に宜しく奏してくだされ、中宮に良き男と啓して下さい」
と頼み込んで官職を得た者は好いとして、何も得なかった者達は大変哀れなことである。、
【四】
三月三日は上巳(じょうじ)の節。水辺で祓をし遊宴を張る。うららかに長閑な日である。桃の花が今年初めて咲き始める。柳が藤原兼輔(ふじわら の かねすけ)の歌
「青柳のまゆにこもれる糸なれば春のくるにぞ色まさりける」
のように、まだ開かぬ葉の形が蚕の繭ごもりに似るのが可愛く見える。広がったら嫌な感じであるが見ているしかしょうがない。
綺麗に咲いた桜の枝を長めに折って大きな瓶(かめ)挿して眺めることこそ気持ちがいいものである。
表は白で、裏は赤の直衣を着て、直衣の下に着た衣の裾の美々しいのを上衣と指貫との間に出して着る「出袿(いだしうちぎ)」にして、客であれ、兄弟でも、そこらで話し合っている姿は趣があってよろしい。
【五】
四月(いんれき)酉の日に行われる賀茂社の祭礼は大変好ましい行事である。摂関・大臣・大中納言・参議、三位以上公卿(くぎょう)の皆さん、四位・五位以上の一部および六位の蔵人が昇殿を許される殿上人達も、束帯の抱(ほう)の色に、紫や紅の濃淡の区別があるだけで、白地の薄物で仕立てられた半臂(はんぴ)・下襲に白の帷子(かたびら)や単(ひとえ)を重ねて着る白襲は皆が同じようで涼しく様になっている。境内の木の葉はまだあまり繁ってはいないけれど、若い緑に葉が広がって、春の霞も秋の霧も隔てなぃ初夏の空がなんとなく落ち着かない気持でいるところに、少し曇ってきた夕方から暗くなった頃、忍びねに鳴く郭公の初音が遠く幻聴かと思われるくらいぼんやりとたどたどしく鳴くのを耳にしたときはどんな気持ちになるであろうか。
祭りの日が近づくと、朽ち葉色・二藍色の反物を巻いて簡単に紙に包んだ物を持って行き違って歩く姿こそが面白い風景である。着ている着物が裾にゆくにしたがって濃く染めたものは裾濃(すそご)といい、一色でも濃淡の染は村濃(むらご)と呼ばれているが、それも常よりは何となく綺麗に見える。
女童が頭だけは綺麗に洗って繕っているが、身なりは「ほころび」という着方で少し着崩れている者も居るが、足駄や沓などに「緒を確りとすげて、沓は裏打ちをして」と喧しく言ってはやく当日になるとょいと準備に走りまわる有様も実に面白い。
春の夜明け、次第に周辺が白く見えてくる、空を見上げると都を取り巻く山との境が少し明るくなって、紫がかった雲が細く棚引いている。
夏の夜、月が綺麗に照らしているときなどは格別である。月が無くて暗いときでも蛍が多く飛び交っている。その蛍が一匹、二匹だけが飛んでいくほのかな光も味があるものである。雨が降るのも風情がある。
秋の季節は夕暮れ時である。夕日が照らす山々が近くに見えるような感じがする中を、烏が塒の巣に向かって帰るのであろうか二羽三羽急いでいるのが可愛い。その向こうを雁が列を成して飛んでいくのが小さく見えるのが可笑しい。陽が暮れると風の音が聞こえてそれに混じって虫の鳴き声が聞こえて来るのは言うこと無しである。
冬の早朝。雪が降るのは言うこともないが霜が降って一面真っ白になるのも更に好い、がそんなことよりも大変寒い、急いで火をおこして炭火赤々として持って行くのも冬景色に調和している。昼になって暖かくなって来る頃には火鉢の炭火が白く灰になっているのは見栄えが悪い。
【二】
月は正月・三月・四月・五月・七八九月・十二月その時々に色々とあって一年がそれなりに過ぎていく。
【三】
正月元日、祝う日で、まして麗らかな上天気で春先のように霞が掛かった日であれば、世の中のあらゆる人々は姿も着ているものもそして気分も新たにして、主君にも上役同僚にも新しい年を迎えた祝い事を言うのは目出度いことである。
七日、雪の中で若菜を摘み歩くのはそんな菜などは見つかるはずが無いのに、騒ぐだけが楽しいのは可笑しなことである。
この日はまた、白馬(あをむま)の日である。もともとは青馬であったのが白馬にされた。読み方だけは「あをむま」となっている。馬は陰陽で陽の獣とされていて、「青」は春の色である。万葉集巻二十(4494)「水鳥の鴨の羽色の青馬を今日見る人は限りなしといふ」(寿命無限だという)に大伴家持に詠まれており、行列を見ようと、宮中奉仕の女性で自宅に下りている里人達は牛車を綺麗に仕立てて見に行く。貴族の多くは京の東に住んでいるから待賢門を通過して内に入る、その度に車輪が門の下の横木「とじきみ」を乗り越えるときに中の者達は一斉に頭を鉢合わせして頭に刺した綺麗な櫛を落としたり、用心をしておかないと折角の櫛を折ってしまって苦笑いをする、毎年のことだが面白い。
内裏の東の建春門にある官人の詰所(陣)の所に殿上人が多く立ち並んで、舎人が持っている弓を取り上げて馬を脅かして大笑いするのを僅かに見ていると、温明殿の前の立て塀が見えて、薪炭・火燭等を掌る主殿司の女官達が行き交うのが見えて面白い。何人の女官が皇居に働いているのだろうか、など思っている。車の中を見ると狭い中で舎人達の化粧が目立ち、所々雪が消えたように化粧の塗り落としが見えて大変見苦しく、馬が騒ぐのも恐ろしいので、急いで車が入ってしまったので車内の光景はよく見えなかった。
八日、女叙位(にょじょい)・女王禄(おうろく)が行われて、目出度い人々がお礼を延べに車を走らせる音が終日聞こえて可笑しい。
十五日は望粥(もちがゆ)の御膳を供する節供の日である。米,粟・黍・小豆・胡麻など七種の穀類を煮る。この日粥を煮るときに使用する棒「粥杖」を隠し持って、女房達の尻を叩く、子供が授かる呪いであるが、女房を始め女達は尻を叩かれまいと、後ろを絶えず振り返って警戒している光景が笑いものである。隙を狙って叩いた者は面白がっているが、叩かれた女は癪だと思っているのも尤もだ。
新婚の夫が姫の元に通ってこられて未だ何とも落ち着かない二人の姿を是非にと隙を窺う女が隠れているのを前に居る女房が可笑しな事と笑うのを手で制したりしているのを姫君は夫に夢中でおっとりとしていて、
「この物を頂きます」
と言うなり姫の尻を打ち据えて逃げていくのを、姫は大声で笑う、夫も格別驚いた風でもなく笑って御覧になっていらっしゃる。女だけでなく男までもが顔を赤らめているのは奇妙な風景である。また、事のついでに男の尻をも叩く。これはいったいどんな了見なのかと不吉なことのように言うものが居るのも可笑しい。宮中のやんごとなき人々も今日は無礼講で騒いで堅いことは言わない。
官吏任免の儀式は県召(あがためし地方官)・司召(つかさめし京官)の二種がある。
正月九日より三日間県召の行事がある。雪が降って周囲が凍てつく中行事が進行する。
叙任を申請する文書を持って歩く四位・五位の姿が若くて頼もしく見える。年輩で頭も白くなった人達が縁故を求めて頼み込むのか知り合いの女房の局に立ち寄って、自分が如何に能力のある者であるか、とそのことばかりを言い立てているのを若い人達は真似をしては笑っているが、結果は如何であったろう。
「帝に宜しく奏してくだされ、中宮に良き男と啓して下さい」
と頼み込んで官職を得た者は好いとして、何も得なかった者達は大変哀れなことである。、
【四】
三月三日は上巳(じょうじ)の節。水辺で祓をし遊宴を張る。うららかに長閑な日である。桃の花が今年初めて咲き始める。柳が藤原兼輔(ふじわら の かねすけ)の歌
「青柳のまゆにこもれる糸なれば春のくるにぞ色まさりける」
のように、まだ開かぬ葉の形が蚕の繭ごもりに似るのが可愛く見える。広がったら嫌な感じであるが見ているしかしょうがない。
綺麗に咲いた桜の枝を長めに折って大きな瓶(かめ)挿して眺めることこそ気持ちがいいものである。
表は白で、裏は赤の直衣を着て、直衣の下に着た衣の裾の美々しいのを上衣と指貫との間に出して着る「出袿(いだしうちぎ)」にして、客であれ、兄弟でも、そこらで話し合っている姿は趣があってよろしい。
【五】
四月(いんれき)酉の日に行われる賀茂社の祭礼は大変好ましい行事である。摂関・大臣・大中納言・参議、三位以上公卿(くぎょう)の皆さん、四位・五位以上の一部および六位の蔵人が昇殿を許される殿上人達も、束帯の抱(ほう)の色に、紫や紅の濃淡の区別があるだけで、白地の薄物で仕立てられた半臂(はんぴ)・下襲に白の帷子(かたびら)や単(ひとえ)を重ねて着る白襲は皆が同じようで涼しく様になっている。境内の木の葉はまだあまり繁ってはいないけれど、若い緑に葉が広がって、春の霞も秋の霧も隔てなぃ初夏の空がなんとなく落ち着かない気持でいるところに、少し曇ってきた夕方から暗くなった頃、忍びねに鳴く郭公の初音が遠く幻聴かと思われるくらいぼんやりとたどたどしく鳴くのを耳にしたときはどんな気持ちになるであろうか。
祭りの日が近づくと、朽ち葉色・二藍色の反物を巻いて簡単に紙に包んだ物を持って行き違って歩く姿こそが面白い風景である。着ている着物が裾にゆくにしたがって濃く染めたものは裾濃(すそご)といい、一色でも濃淡の染は村濃(むらご)と呼ばれているが、それも常よりは何となく綺麗に見える。
女童が頭だけは綺麗に洗って繕っているが、身なりは「ほころび」という着方で少し着崩れている者も居るが、足駄や沓などに「緒を確りとすげて、沓は裏打ちをして」と喧しく言ってはやく当日になるとょいと準備に走りまわる有様も実に面白い。
作品名:私の読む「枕草子」 1段ー6段 作家名:陽高慈雨