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みやこたまち
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陰花寺異聞(同人坩堝撫子1)

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 手首に鈍痛が継続している。新鮮な空気が気管をざらざらと擦り立てる。通常の呼吸を取り戻すまでの苦しさ。生きていくのはこんなに辛いことなのかと、泣きそうになる心を
「元気な男の子ですよ、かよっっ!」
 と自分にツッコミを入れてテンションを上げ、
「小さなことからコツコツと…」
 と言い聞かせながら、目を見開いて体勢を整える努力を始めた。
 山門前で両手両膝をがっくりと折り、咳き込む男。目の前にはズボンが汚れるのにも構わずにしゃがみこんで、リュックの中を覗き込んでいる女。客観的に俯瞰すると、この二人には何の因果関係も見つからないだろう。むしろ石段の下の草むらから、じっと山門の方を見上げている黒いコウモリ傘の男の方がずっと訳ありだ。当人にしか分からない因果というものなら、いくらでもあるのだろうが。
 僕は渾身の力を祈りの拳にこめて降りおろしたのだった。無事ですむはずは無い。僕は彼女の傍らへ這いよった。戦いは終わっているか? 僕はそんな事すらも考えていなかった。
「だ、大丈夫だった? 必死だったから思い切りやっちゃって。でも、君ものすごく強いよね。何か体術を習っていたの?」
 彼女は背後の僕を無視してリュックの中をまさぐっている。そうか。僕は彼女の背中ではなくて背負っていたリュックサックに渾身の一撃をお見舞いしたのか。と変に納得して落ちついてしまう。手首に鈍痛が継続している。
「粉々よ。粉々」
 リュックから引き出した彼女の手は真っ赤だった。僕は思わず自分の手首を凝視した。血が出ているかと思ったからだ。だが傷は無い。ただ赤く不規則な螺旋模様みたいな蚯蚓腫れが出来ていて、鈍痛が継続しているだけだ。
「怪我をしたの? 大丈夫?」
 僕は慌てて彼女の両手首を握って引っ張った。彼女は相変わらずリュックを見下ろしたまま、腕だけを僕の自由にさせている。握りしめた小さな拳は透き通るように白く、華奢だ。拳を染める赤いものは、血ではなかった。血よりももっと赤茶けた塗料のような、そう、故郷三方原の赤土のような色だ。あの時手首に感じた固く、そしてガチャという時の脆い感触が蘇る。須恵器かなにかだったのだろう。どこかの発掘現場で採取した弥生式土器だったのかもしれない。
「何か大事なものだったの?」
 僕は彼女の手を撫でながら彼女の顔を覗き込んだ。すると、彼女は、きっ、とこちらに向き直り、手を振りほどくと ばん、と立ち上がった。
「大事? 大事だったかですって? これが大事じゃないといったら、いったい大事って何なのかしら。あなたのセンチメンタルな旅? 生きるの死ぬのって大げさに騒ぎ立てたかった癖に、身を引くことがダンディズムだ、みたいなやせ我慢をして、それで雨に降られて慌てて石段を駆け登ってきた小さな男の相手をしてあげた代償がこれ? あなたの一瞬の気の迷い、感激屋さんの一過性のナルシズムと引換えに、私は私が私であるために絶対に必要だったかけらの一つを失ったのよ。分かる? 分からないでしょうね。それが分かる人なら、会社止めてこんな辺鄙なところまでのこのこやってこないでしょうしねと、だいたいこんなもんでいいかな。結構いいせんいっていたと思うんだけど、どう思う?」
 彼女はそう言いながらも僕の答えなど求めてはいないようで、あっけに取られる僕を尻目に、彼女は再び雨垂れに手をかざした。だが今度は拳ではなく汚れた手を雨垂れで洗うように、パンパンと手を叩たり擦ったりしているのだ。表情はごく落ちついた、出会ったころの彼女である。
「まあ、元気でよかった。元気があれば何でもできる」
 ようやくそれだけ言って、僕はほうっとため息をついた。人の気持ちを洞察する能力に関して、僕はかなり自信をもっていたが、彼女に関しては全くの謎だ。コミュニケーションが取れているようで、実は何一つ、かみあってはいない。全く彼女の独壇場だ。こんな目に会わされながら、僕はますます彼女と離れがたくなっていた。
「僕は、小宮知行。君が言った通り、会社をやめてふらふらしている三十一歳。君は?」
 僕はそう言って彼女を見上げ、彼女の掌を見つめ、そこからタラタラと流れていく赤い水を見た。手が白くなるにつれて、石段が赤く染まっていく。僕は覚えず流れを追った。血の色は次第に広がっていき、石段の中程で吸い込まれるように消えた。
「私の名前と石段とどっちが大事なの? どっちも大した問題じゃないんでしょ。違う?」
 気がつくと彼女は石段の二、三段下に立ってこちらを見ていた。縁のない眼鏡に雨滴がついていて、瞳が曖昧に揺らめいて見える。もし唇の片方が悪戯に持ち上がっていなかったら、泣きだすのではないかと勘違いするところだ。僕はこの時、彼女は精神的に不安定なわけではなく、非常に安定しているのだと気づいた。思えば、今まで僕が知っていた女性はみんな、感情的に不安定なところがあり、その不安定さに押し切られているか、押し殺そうと躍起になっているか、のどちらかだったのだ。結局、僕はそのどちらのタイプの女性とも上手くはいかなかったが、そこで培った教訓など彼女に対しては全く無効なのだった。
「うん。多分違わないだろう。名乗りを上げてから言うのもかっこわるいけど、きっと僕は君に関しては君の足元にも及ばないほどの青二才に違いないと思うよ」
「随分、素直な人なんだな。私、お追従する人には不自由してないんだ」
「僕も女王様には不自由してないよ」
 そう言うと彼女は体をのけぞらせて笑った。だが、笑い声のほとんどは、腐りかけた山門に吸い込まれていったので、濡れそぼる里山の風情は少しも損なわれなかった。
「傑作よ。天晴れよ。ああお腹がいたい。ああ苦しい」
 彼女は笑い続けた。笑いは伝染する。笑いの起源を問う術もないままに、僕も笑いに感染した。麻痺的な笑いだった。彼女のように大きな声を伴う笑いではない。引きつけるような、度を越えた苦痛がもたらす笑いのような、自分自身が撓んでしまうような笑いが僕を捕らえていた。
「あーはっはっはっ」
「ヒィーヒィーヒィ」
 長い時間が経過したような気がした。僕は見ていた。彼女の笑いが急速に引いていき、あれほど支配的だった笑いの最期の息が、なんなく吸い込まれていく瞬間を。けれども僕は泥まみれで、腹をかかえてのたうっている。戦いは、まだ終わっていなかったのか、そんな意識すらも引き笑いを加速する。
「ヒィーヒィーヒィーヒィ」
 彼女が石段を上がってくる。オレンジ色のスニーカーが僕の目の前にやってくる。靴下のワンポイントは水色の刺繍だ。エンブレムらしい。だがそれが何を意味しているのかは分からない。
 オレンジのスニーカーが視界から消えた。僕は身悶えしながら彼女の足を探した。その直後、僕は腰に重い蹴りをあびて、石段を三段ばかり転げ落とされた。信じられないようなこの仕打ちが、さらに笑いを加速する。
「ヒィーヒィーヒヒィヒィー」
「間に合っているって? あなたにそんな事言う権限は無いの」
 今度は頭を踏まれた。さらに二段ほど転げ落ちた。意外と近くにあるものだと、僕は考えていた。たかだか八百段下に、それはあった。地獄というやつだ。
「あなたが叩き壊したものは、そんなものでは済まされないの」